「朽葉の向こう」
ヴォルトビートル=角の生えたテン〇モン
朽葉の森を出た。
生まれてから一度も越えたことのない境界を、ワイは二本の脚で踏み越えた。
最初に感じたのは、風やった。
森の中では木々に遮られて、風なんてほとんど感じたことがない。せいぜい葉っぱが揺れる程度の微風。それがいきなり、体ごと持っていかれそうな突風になってワイの甲殻を叩いた。
思わず踏ん張る。二本の脚に力を込めて、地面にしがみつく。
それから、空を見上げた。
――でかい。
森の中から見える空は、木々の隙間から覗く小さな切れ端でしかなかった。それが今、頭上に果てしなく広がっとる。青い。どこまでも青い。雲が流れて、太陽が眩しくて、目が痛いくらいに明るい。
ワイは幼虫の頃から「なぜ」を重ねてきた。鳥のパターン。蜥蜴の死角。蜘蛛の巣の配置。全部、朽葉の森の中の話やった。
森の外には、ワイが知らんもんが山ほどある。
怖いか? と聞かれたら、怖い。
でもそれ以上に、わくわくしとる。
ガゼンが横を歩いとる。あの巨体が森の外に出ると、ますますでかく見える。錆びた鉄の甲殻が陽光を浴びて鈍く光っとる。
ルリハがワイの頭上を飛んどる。翅が瑠璃色にきらきら輝いて、風に乗って気持ちよさそうに滑空しとる。なんでか知らんが、翅の動きが軽やかや。
三匹で歩く。
朽葉の森を背にして、東へ。
ガゼンの記憶によると、この先に「灰谷の迷宮」と呼ばれる天然のダンジョンがある。地下に広がる巨大な洞窟群で、奥に行くほど強いモンスターが棲みついとる。
なんでそこに行くのかって?
ガゼンが言うには、蟲淵は大陸の果てにある。今のワイらの力では到底たどり着けへん。道中にはD級やC級のモンスターがうようよおるし、人間の領域も通らなあかん。
強くならなあかん。
灰谷の迷宮は、そのための修行の場や。
* * *
森を出てすぐ、ガゼンの訓練が始まった。
容赦なし。
「走れ」
ガゼンの蟲音が飛ぶ。ワイは二本の脚で走る。走るいうても、進化してまだ数日や。自分の体の使い方がまるで分かっとらん。
幼虫の頃は体をうねらせて移動しとった。今は脚がある。腕がある。角がある。全部が新しくて、全部がぎこちない。
走ると甲殻が重い。バランスが取りにくい。角の重さで前のめりになる。急に止まろうとすると慣性で転ぶ。
何度も転んだ。甲殻が地面に擦れて、がりがり音がする。痛くはない。甲殻のおかげや。でも格好悪い。
「甘い。足の運びが悪い。もっと低く、重心を落とせ」
ガゼンの蟲音が容赦なく飛んでくる。あのおっちゃん、ワイが転ぶたびに「甘い」しか言わん。
ルリハが上空から見とる。翅の色は瑠璃色。安心の色。でもよく見ると、光がちかちか細かく瞬いとる。
……笑っとるな、あいつ。
くそ、見てろよ。
ワイは歯を食いしばって――蟲に歯はないけど、気持ちの問題や――何度でも立ち上がった。
走る、転ぶ、立つ、走る。
繰り返すうちに、少しずつ感覚が掴めてきた。
重心は低く。脚を踏み出す時は、角の重さを前傾に使う。止まる時は二対の腕を広げてバランスを取る。
日が暮れる頃には、転ばずに走れるようになっとった。
「……まあ、及第点じゃ」
ガゼンの及第点。初めてもらった。
* * *
翌日は戦闘訓練やった。
ガゼンが地面に蟲音で指示を出す。
「角の使い方を教える。よく見ておれ」
ガゼンは蠍やから角はないけど、代わりに尾の毒針を使って見せてくれた。
「突きは体重を乗せろ。上体のみならず、全身の力じゃ」
ガゼンの尾が地面の岩を突く。ずぶり。硬い岩に毒針がめり込む。あの衰えた体でこの威力。全盛期はどんだけやったんや。
ワイは真似した。角を前に向けて、体ごとぶつかるように突く。
がっ。
岩の表面に小さな傷がついた。……しょぼい。
「甘い。腰が入っとらん。もう一度」
何度もやった、何度も何度も。角で突き、脚で踏ん張る。体の全部を連動させて、一点に力を集中する感覚を探る。
そして電撃。
「あの蜥蜴戦で角から雷を放ったな。あれを再現しろ」
ボルトストライク、あの技のことや。
ワイは角に意識を集中した。体内の電気を角先に集めて、撃ち出す。
ばちっ。
小さな電撃が角先から飛んで、二メートル先の石に当たった。石の表面がちょっと焦げた程度。
大蜥蜴戦の時はもっと強かったはずやのに。あれは全身の電気を使い果たして撃ったからか。普段使いでは、この程度が限界らしい。
「威力は育つ。今は精度を上げろ。狙ったところに当てられるようになれ」
ガゼンの指示に従って、的を決めて撃つ練習を繰り返す。
十発中、当たったのは三発。
「甘い」
分かっとるわ。
でも、一日目よりは確実に上手くなっとる。ワイの頭はパターンを覚えるのが得意や。角に電気を集める感覚、放出するタイミング、狙いの付け方。全部記憶して、少しずつ精度を上げていく。
鳥の止まり木のパターンを読んだ時と同じ。観察して、分析して、修正する。
* * *
三日目。
移動しながらの訓練が続く中、ワイは新しい感覚を発見した。
雷命活。
これも名前はまだないけど、体内の魔素を消費して微弱な雷を体の中で循環させると、傷の治りが早くなる。
訓練中に甲殻の縁を擦りむいた時、無意識にやっとった。体内の電気を患部に集中させて、じわじわと循環させる。すると、傷の治りが明らかに早よなった。
ガゼンに見せたら、珍しく目を見開いとった。
「……自己修復か。儂にはできん芸当じゃな」
ガゼンにも驚かれることがあるんやな。ちょっと嬉しい。
ルリハがワイの傷に光糸を巻いてくれることもあった。ルリハの回復糸とワイの自己修復を併用すると、回復速度がさらに上がる。
「ワイが中から治して、ルリハが外から治す。二重回復やな」
ルリハの翅が瑠璃色に光った。柔らかい光。多分、同意の意味やと思う。
三匹の連携が、移動しながらでも少しずつ深まっていく。
* * *
四日目の夕方。
灰色の大地が見えてきた。
朽葉の森を出てからずっと続いとった緑の草原が、急に色を失ったみたいに灰色に変わる。草が生えとらん。土が乾いて、ひび割れて、灰のように白っぽい。
空気が変わった。乾燥して、どこか硫黄の匂いがする。
灰谷。
ガゼンが足を止めた。
「見えるか。あの谷間の奥に、洞窟の入り口がある」
ワイは目を凝らした。灰色の大地が緩やかに下り、谷のような地形になっとる。その谷の奥に、暗い穴がぽっかり口を開けとった。
灰谷の迷宮。
地下に広がる天然のダンジョン。浅層はG級からF級のモンスターが棲みつき、中層にはE級からD級、深層にはそれ以上の存在がおるとガゼンは言うとった。
ワイは今、F級。浅層なら問題ないはず。中層は挑戦。深層は――まだ早い。
でも、深層の主を喰えば、ワイはまた変われるかもしれん。
体の奥が、また疼いた。あの感覚。雷蜥蜴を見た時と同じ、引き寄せられるような衝動。
この迷宮の奥に、ワイが喰うべき何かがおる。
ガゼンがワイを見下ろした。
「ここから先は、森の中とは比べものにならん。お前の力がどこまで通じるか、試される」
ルリハが降りてきて、ワイの横に並んだ。翅は瑠璃色。でも光がいつもよりほんの少し強い。
緊張と、覚悟。
ワイは角を灰谷の迷宮に向けた。
「……行こか」
三匹が、灰色の大地に踏み出した。
次回「第12話:灰谷の迷宮」
――地下に広がる未知の世界で、三匹の連携が試される。




