小さな雷、大きな蜥蜴
窪地に戻ると、ガゼンの様子がおかしかった。
八本の脚を地面に押しつけて、鉄脚震を繰り返しとる。普段は一回で必要な情報を読み取るガゼンが、何度も何度も地面を踏んどる。
何かを確認しとるんやない。何かを警戒しとるんや。
ガゼンが顔を上げた。ワイの新しい体――赤褐色の甲殻、一本角、二足歩行の姿を一瞥したけど、感想を述べる余裕はないらしい。
短い蟲音が飛んできた。
「大蜥蜴」「近い」「北から」
来とる。大蜥蜴が北に到達し始めた。
ルリハが上空から降りてきた。翅が赤紫に点滅しとる。光の信号を素早く読む。
「大きい」「北」「もうすぐ」
ガゼンとルリハの情報が一致しとる。大蜥蜴が窪地の近くまで迫っとる。
ガゼンが立ち上がった。錆びた甲殻がぎしりと軋む。尾を高く持ち上げ、毒針の先端が鈍く光る。
戦闘態勢。
「儂が出る。お前たちはここにおれ」
ガゼンの蟲音は短く、有無を言わさん響きやった。D級のガゼンにとってF級上位の大蜥蜴は格下。正面からぶつかればガゼンが勝つ。問題ない。
ガゼンが窪地から出ていく。八本の脚が大地を踏みしめ、その巨体が木々の間に消えていった。
ワイとルリハが窪地に残された。
しばらくの静寂。
遠くで、何かがぶつかる音がした。木が折れる音。ガゼンの鋏が何かを叩く重い打撃音。大蜥蜴の唸り声。
戦っとる。ガゼンが大蜥蜴を迎え撃っとる。
大丈夫や。ガゼンなら負けへん。
そう思った直後やった。
地面が、揺れた。
ガゼンの鉄脚震やない。もっと軽くて、もっと速い振動。
何かが走っとる。こっちに向かって。
ルリハの翅が一気に赤紫に染まった。索敵糸を張り巡らせとったルリハが、振動を感知した。
光の信号。速い。必死の速さで。
「別」「大蜥蜴」「来る」「こっち」
ワイの思考が一瞬止まった。
別の大蜥蜴。
もう一匹おったんか。
ガゼンは一匹目を迎え撃ちに出た。その隙に、二匹目がこっちに向かっとる。
窪地には、進化したてのワイと、傷の癒えたばかりのルリハだけ。
ガゼンはおらん。
* * *
考えろ。
パニックになりかけた頭を、必死に抑え込む。
ワイは今、ヴォルトビートルや。幼虫やない。甲殻がある。角がある。二本の脚で立っとる。
でも、進化したてで自分の体の使い方もまともに分かっとらん。この腕がどれだけの力を出せるのか。この角がどこまで硬いのか。体を走る雷を、技として使えるのか。全部未知数。
相手はF級上位の大蜥蜴。ワイはF級になったばかり。格はほぼ同じ。でも経験が違いすぎる。
逃げるか。
窪地の裏手から逃げれば、多分逃げ切れる。ワイの体は小さいから、大蜥蜴が入れへん隙間はいくらでもある。
でも、逃げたら窪地がやられる。
ワイらの拠点。ガゼンが蟲帝の伝説を語ってくれた場所。ルリハが光糸で地図を描いた場所。三匹で体を寄せ合って眠った場所。
それに、ルリハ。
ルリハは傷が癒えたとはいえ、長距離を全力で飛ぶのはまだ厳しい。ワイだけ逃げて、あいつを置いていく?
その選択肢は、ワイの中に存在せんかった。
「ルリハ」
ワイは蟲音で呼んだ。進化して体が変わったせいか、蟲音の響きも前より低く、力強くなっとる。
ルリハが振り向いた。赤紫の翅。金色の目。
「ワイが前に出る。お前は上から糸で援護してくれ」
まだ「言葉」の語彙が足りんから、完璧には伝わっとらんかもしれん。でもルリハはワイの目を見て、翅の色を一瞬だけ瑠璃色に変えた。
分かった、と。
ルリハが翅を広げて舞い上がった。
ワイは窪地の入り口に立った。二本の脚で。角を前に向けて。
進化して初めて、自分の意志で戦場に立つ。
怖い。
でも、体の中で雷がばちばちと弾けとる。この電気が、角を通じて外に放てるはずや。雷蜥蜴を仕留めた時みたいに。
木々の間から、大蜥蜴が姿を現した。
* * *
でかい。
ガゼンの半分くらいの体長やけど、ワイの何倍もある。暗緑色の鱗。鋭い爪。裂けるように大きな口。黄色い目がワイを捉えた。
大蜥蜴が舌をちろりと出した。
品定めしとる。目の前の赤い甲虫が、獲物として食う価値があるかどうか。
ワイは角を下げた。突撃の構え――と言いたいところやけど、正直こんな構え初めてやから正しいのかも分からん。
大蜥蜴が動いた。
速い。
あの巨体が地面を蹴って一気に距離を詰めてくる。大きく開いた口。並んだ牙。ワイの体なんか丸ごと飲み込めるサイズの顎。
横に跳んだ。
二本の脚で地面を蹴って、横っ飛びに跳ぶ。幼虫の頃にはできへんかった動き。体が軽い。甲殻に守られとるから、着地で多少ぶつけても痛くない。
大蜥蜴の顎が空を噛んだ。ワイがさっきまでおった場所の地面が、爪で抉られとる。
一撃でも食らったら終わり。
でも、避けられた。
大蜥蜴が体を捻ってワイを追う。尻尾が横薙ぎに振られた。
跳んだ。今度は上に。二本の脚のバネで、思い切り跳躍する。尻尾がワイの足元を通過していく。風圧で体が揺れる。
空中で、角に意識を集中した。
さっき雷蜥蜴にやったことを、もう一回。角に電気を集めて、撃ち出す。
ばちっ!
角の先端から、青白い電撃が弾けた。
細い。弱い。雷蜥蜴の放電に比べたら、火花みたいなもんや。でも、大蜥蜴の鼻先に直撃した。
大蜥蜴がぎゃっと声を上げて、頭を振った。痛かったんやない。驚いたんや。目の前で雷が弾けたんやから。
一瞬の怯み。
その隙に着地して、距離を取る。
――よし。効く。直接のダメージは小さいけど、怯ませることはできる。
でも、それだけやと時間稼ぎにしかならん。
上空からルリハの光が瞬いた。
瑠璃色の糸が、降り注ぐ。
* * *
ルリハの光糸が大蜥蜴の背中に降りかかった。
べたりと張りつく糸。大蜥蜴が鬱陶しそうに体を振るけど、粘着性の糸は簡単には剥がれへん。
さらに糸が降る。今度は足元。大蜥蜴の前脚に糸が絡みつき、動きが一瞬鈍った。
ルリハの索敵糸と違って、これは戦闘用の太い光糸。拘束力がある。大蜥蜴のパワーなら力ずくで引きちぎれるやろうけど、引きちぎるのに意識を割かなあかん。その一瞬一瞬が、ワイの攻撃の隙になる。
連携や。
ルリハが動きを制限し、ワイが角で攻める。雷蜥蜴を狩った時と同じ構図。ただし相手の格が段違い。
ワイは走った。二本の脚で地面を蹴り、大蜥蜴の側面に回り込む。
角を構える。狙うのは脇腹。鱗が重なり合う境目。装甲の薄い箇所。鳥の止まり木のパターンを読んだように、蜥蜴の体の「弱点」を読む。
角を突き出した。
がっ!
硬い。鱗に弾かれた。角先が滑って、甲殻が衝撃でびりびり震える。雷蜥蜴の喉元とは訳が違う。大蜥蜴の鱗は分厚い。
反撃が来た。
前脚が振り下ろされる。ルリハの糸を引きちぎりながら、ワイを叩き潰そうと。
転がって避ける。甲殻が地面に擦れてがりがり音がする。痛くはない。甲殻が守ってくれとる。
でも、角が通らん。
このままやとジリ貧や。ワイの電撃は怯ませるだけ。角は鱗に弾かれる。ルリハの糸も大蜥蜴のパワーの前では時間稼ぎにしかならん。
考えろ。
ワイの武器は頭や。力で勝てんなら、頭で勝つ。
大蜥蜴の動きを観察する。避けながら、見る。
攻撃パターン。噛みつき、前脚の叩きつけ、尻尾の横薙ぎ。三つ。
噛みつきの後は、口を閉じるまでの一瞬がある。その間は次の動作に移れへん。
なら。
噛みつきを誘って、口が開いた瞬間に――中から攻める。
口の中。
鱗に覆われてへん、柔らかい粘膜の内側。
そこなら角が通る。そこに電撃を叩き込んだら、内側から感電させられる。
狂気の作戦や。タイミングを一瞬でも間違えたら丸呑みにされて終わり。
でも、他に手がない。
ワイはルリハに向けて蟲音を放った。
「大きい蜥蜴」「口」「開く」「その時」「糸」「上の顎」
伝わるか。ワイの拙い蟲音で。
ルリハの翅が一瞬赤紫に瞬いた。警戒。でも次の瞬間、瑠璃色に変わった。
信じてくれた。
* * *
ワイは大蜥蜴の正面に立った。
真正面。噛みつきを最も誘いやすい位置。同時に最も危険な位置。
角を向けて、ばちっと電撃を放つ。大蜥蜴の顔面に青白い火花が散る。
挑発。
大蜥蜴の目がぎらりと光った。怒り。ちっぽけな甲虫が何度も目の前で光りやがって。
来た。
大蜥蜴の口が大きく開いた。上顎が持ち上がり、下顎が下がり、牙が並んだ暗い洞穴が眼前に迫る。
ルリハの糸が閃いた。
上から降り注いだ光糸が、大蜥蜴の上顎にべったり張りついた。何本もの糸が上顎を引っ張り上げる。
ルリハが全力で翅を動かしとる。小さな体で、大蜥蜴の上顎を糸で吊り上げとる。
閉じれへん。
大蜥蜴の口が、ルリハの糸に押さえられて完全には閉じれへんくなっとる。一瞬だけ。あの糸が切れるまでの、ほんの数瞬だけ。
十分。
ワイは跳んだ。
大蜥蜴の開いた口の中に、自分から飛び込んだ。
暗い。湿った肉の壁。牙が左右に並んどる。喉の奥が見える。
角を突き立てた。
口の中の、上側の粘膜に。柔らかい。今度は鱗に弾かれへん。角がずぶりと沈む。
そして、全身の電気を注ぎ込んだ。
ばちばちばちっ!
進化してから溜まっとった電気の全部を、角を通じて一気に放出する。大蜥蜴の口の中で青白い雷光が炸裂した。
大蜥蜴が絶叫した。
体全体が痙攣する。口が大きく開いたまま、全身の筋肉が硬直しとる。内側から電流を流し込まれて、制御が効かんくなっとる。
ワイは角を引き抜いて、開いた口から転がり出た。
地面にごろごろと転がって、二本の脚で立ち上がる。
大蜥蜴がよろめいた。口から煙が上がっとる。目が焦点を失って、ぐらぐらと体が揺れとる。
もう一発。
ワイは角を構えた。電気を集中させる。体の中にまだ残っとる分を、角の先端にかき集める。
青白い光が角先に凝縮していく。
ボルトストライク。
名前なんかまだ知らん。でも、この瞬間にワイが体で覚えた技。角に雷を集中させて、遠距離に撃ち放つ。
撃った。
青白い光の線が、ワイの角から大蜥蜴の顔面に伸びた。
直撃。
大蜥蜴の体が大きく仰け反って、どしん、と地面に倒れ込んだ。
動かへん。
気絶しとる。死んではへん。胸が上下しとるのが見える。でも、もう戦える状態やない。
ワイは角を下ろした。
全身から力が抜ける。電気を使い果たして、体が重い。甲殻の表面を走っとった雷も、今は完全に消えとる。
でも、立っとる。
二本の脚で、立っとる。
* * *
ルリハが降りてきた。
翅がゆっくりと赤紫から瑠璃色に変わっていく。全力で糸を張り続けたせいで、翅の光が弱々しい。体力を使い果たしたんやろう。
でも、あいつの目はワイを見とった。金色の複眼が、ワイの新しい姿を映しとる。
ワイは二対の腕を広げた。
なんでそんなことしたんかは分からん。体が勝手に動いた。
ルリハがふわりと降りてきて、ワイの甲殻にしがみついた。
柔らかい毛が、赤褐色の甲殻に触れる。瑠璃色の光が、ワイの体をぼんやりと照らす。
温かい。
何も言わんかった。蟲音も光もなし。ただ、くっついとった。
それだけで十分やった。
* * *
ガゼンが戻ってきたのは、それからしばらく後のことやった。
甲殻にいくつか新しい傷がついとるけど、大した怪我やない。一匹目の大蜥蜴を追い払ってきたらしい。
窪地の入り口で倒れとる二匹目の大蜥蜴を見て、ガゼンが立ち止まった。
それからワイを見た。電気を使い果たしてへたっとるワイと、ワイにくっついとるルリハを。
長い沈黙。
ガゼンの蟲音が響いた。
低くて、重くて。
でも、今まで聞いたどの音よりも温かい音やった。
「……やるではないか」
ワイはへろへろの体で、精一杯の蟲音を返した。
「まあ……なんとか、な」
ガゼンが、笑ったように見えた。
蠍に笑顔なんかあるわけないんやけど、あの半分潰れた複眼の奥の光が、僅かに揺れた。
それは多分、笑みやった。
* * *
夜。
窪地で三匹が体を寄せ合う。
ガゼンの鉄の甲殻が壁になって、夜風を遮る。ルリハの翅が柔らかな瑠璃色で闇を照らす。ワイはその間に挟まって、新しい体の感覚を確かめとった。
赤褐色の甲殻。一本角。二対の腕と二本の脚。
ワイは変わった。
幼虫の頃のワイは、這うことしかできんかった。頭だけが武器で、体は最弱そのもので、毎日を生き延びるのが精一杯やった。
今日、初めて立ち上がって、初めて戦って、初めて勝った。
自分の力で。仲間の力で。
体表を、青白い雷が一筋走った。ぱちっと小さく弾けて、消える。
ガゼンが蟲音を出した。
「明日から、鍛える。その体の使い方を叩き込む」
ワイは頷いた。
ルリハの翅が穏やかに瑠璃色に光る。
ガゼンの蟲音が続いた。低く、静かに。
「お前たちと、この森の外に出たいと、儂は思っておる」
森の外。
この朽葉の森を出て、もっと広い世界へ。蟲淵を目指して。蟲族の真実を求めて。
ワイは角を天に向けた。
暗い空の向こうに、何があるのかはまだ分からん。
でも、ワイはもう一匹やないし、もう幼虫でもない。
行ける。どこまでも行ける。
ワイらの物語は、この森から始まる。
第一章「朽葉の幼虫」了
次回「第二章:灰谷の試練」
――三匹は朽葉の森を出て、灰谷の迷宮へ足を踏み入れる。そこでグロウは初めて「人間」という存在に出会う。




