詩と歌の音―8―
詩音を初めて怖いと思った日は、同時に激しい愛しさを覚えた日でもある。
兄は、別人だったのだ。
たまに判らなくなる。他人が聞いたら鼻で笑われるような、微かな不安。
「僕は、歌音?」
「私は、詩音?」
本当に時々、二人で判らなくなっていた。
髪の長さが違うだけで、身体の細さが違うだけで、後は全部同じだと思っていた。
考えている事が判るから、頭の中身さえも同じなんじゃないかと。
「ああ…他人だったんだね、俺達」
保健の授業で習ったセックスという言葉の中身を知って、詩音は呟いた。
何でもない事を言うように、けれど、声に嬉しさを混ぜて。
「他人だったんだね…」
歌音は身体の痛みさえも甘く感じながら、トロトロと眠そうな目と声で復唱した。
「一人で…同じ人間だったら、出来ないよね」
詩音は歌音の指に指を絡めながらくすくすと微笑った。
嬉しそうに、楽しそうに、擽ったそうな笑顔で。
同じ笑顔で、歌音も頷いた。
その行為が何のためのものかを知っていて、それでも流れるように墜ちた暗闇の淵は、何にも替えがたい答えを与えてくれた。
他人、別人。
違う意味の二つの似た言葉は、何よりも安堵できる、確かな間柄。
初めて身体を重ねた日の夢を見た。
歌音は起き上がり、ぼんやりとした頭で詩音を想う。
確かな答えを手に入れた翌年のあの日、あの夜、詩音に告白すれば良かっただろうか。
そうすれば、彼は義兄を葬る以外の道を見つけてくれただろうか。
でも、言えるはずもなかった。大好きで堪らない人に、「私レイプされたの」などと、どんな顔でどんな声で告げろと言うのだ。
言えば、詩音は間違いなく司郎を殺しただろう。じわじわと、痛めつけながら。
自分のせいで詩音の手が汚れてしまうのは、自分の手が汚れるより嫌だ。
母はどうして、自分達を引き取ったのか。
どうせ愛してもらえないのなら、施設の優しい職員に囲まれていた方が良かった。
あの人達の方がよっぽど本物らしい愛をくれたのに。
ダイニングの双子の席は大きなテーブルの端。
リビングでは端に追いやられ、団欒する一家をぼんやりと見つめた。
学校のイベントは、共に家族から離れて行動した。
だから、小学校時代までは苦痛だった。ジェーンが現れて、モデル業に誘ってくれた事が唯一の逃避場所だった。
二人を真正面から捉え、理解し、一緒に受け止めてくれる唯一の大人。
「ハロー、歌音っ。会いに来ちゃった」
だから、切ない夢を見たその日の午後、がらりと開いた扉の隙間から派手なアイメイクのウィンクを受けた歌音は、心の底から歓声を上げる事が出来た。
「ジェーン、ジェーン、会いたかった!」
「あらぁ、アタシもよ!
もうもうもう、あんたまた痩せちゃって…ちゃんと食べてるの?好き嫌いしてなぁい?
やだ、詩音ったらメイク道具も持ってきてくれてないの?女の子はお化粧が命なのにねぇ」
屈強な腕にギュウウと抱き締められ、歌音は身を捩りながら擽ったそうな声で笑う。
その様子を、恭一郎は僅かに開けた扉の隙間からジィィと覗いていた。
「…何してるんですか、新城先生」
「ちょっと、サエちゃんも見てよ…あの二人。歌音がキャッキャ言ってるんだよ?」
「親同然の方なんでしょう?詩音君も懐きようが半端じゃないって言ってましたよ」
「あーあ…俺も女装すれば警戒心解いてもらえるのかなぁ……」
「………。
あ、鮫島さん。斉藤さんの様子どうだった?」
くすんと鼻を鳴らしたがあっさりと無視をされ、恭一郎は下唇を突き出して「ふんだ」と呟いた。
カウンセリング時の歌音の様子は、はっきりとした受け答えが見止められるが何処となく不自然な箇所が多い。答えに数秒要する事もあり、どうやら自然であるようにと務めているようだ。
それはイコール、主治医である自分に対して警戒心に満ち満ちているという事。
「きゃーっ」と、至極嬉しそうな悲鳴が漏れ聞こえ、恭一郎は余計に面白くなくなった。
「あれ?先生不細工な顔してどうしたんです?」
「不細工は余計じゃい!テェメェー、あんだけ山梨さん連れて来んなっつったじゃん?」
「あぁん?」と斜め下から睨み上げる恭一郎に「ははは」と詩音は肩を竦めて笑う。
「見せ付けられるから嫌なんでしょ?それは医者としてどうなのかなぁ」
「ふんっ!医者だってヤキモチ妬くわよ!
何?君のその余裕は何?ジェーンに歌音取られても知らないんだからっ」
ブリッとぶりっ子の演技で腰をくねらせる恭一郎は、詩音を試してみようと内心で謀りながら言った。
詩音はきょとんと目を丸くし、小さく唇を開け、
「ふっ」
と、数秒の間を置いて噴き出した。
「何…何でそこでさも可笑しそうに笑うんだよ」
「だ、だって、社長が歌音取るって…っ」
「…君、もしかして、本気で笑ってない…?」
「せんせ、面白い人って思ってたけどさ!」
けらけらと身を折って笑う詩音を見た紗江子と夕実は、「おおー」と小さな歓声を上げながら恭一郎に向かってパチパチと手を打った。
歌音もそうだが、詩音もこの四年、心底から笑っていると思える顔を見せた事がない。
恭一郎の意図には掠ってもいないが、本当の笑顔を引き出したらしい医師に、看護師二人はある種の尊敬の眼差しを向けた。
一頻り笑った詩音は涙を拭いながら深く息を吐き、紗江子と夕実がナースステーションに戻って行くのを見止めて表情を元に戻す。
いつも他人の前で浮かべる、柔和でバリアに満ちた笑顔。
「先生、さっきの、カマかけたんでしょ?」
「バレた?」
「カウンセリング受けて俺が倒れた日…。
あんま覚えてないけど、多分、先生、裏っ側の俺、引き出したんでしょ?」
僅かに目を伏せ、視線を床に逸らして言う。病室からは相変わらず、楽しそうな歌音の笑い声が聞こえてくる。それが、心地良い。
「やっぱり、自覚してるんだな」
「参ったなぁ…あれ、歌音の前でしか出さないようにしてるんだけど…」
「あんなヤバイ顔すんの?歌音の前で」
「ヤバイ顔?」
獲物を狙う猫が瞳孔を開くような、それでいて空虚な目。
空虚なくせに、自分達の世界以外は否定する憎しみに満ちた、澄みながら淀む眼。
淡々と進めた連想ゲームの時の様子を思い出し、恭一郎は微かに身震いした。
「お前、連想ゲームの時、歌音を取る相手って言葉に「殺す」って答えたんだよ」
またあの詩音が出るかもしれないと思いながらも、詩音が気絶する切っ掛けになった掛け合いの内容を告げる。
詩音はパチパチと瞬き、「ああ…」と呟いて微笑った。
「それ、地の俺だ。裏じゃない」
あの時とよく似た笑顔で、詩音は言った。
「遅かったわねぇ、詩音」
「あー、さっきそこで新城先生に捕まっちゃって」
「まーた恭ちゃんに口説かれてたんでしょう。
ほら歌音、詩音が来たわよ。いつまで笑ってんのこの子は」
「何、そんな可笑しいの?」
「あのねあのね、ジェーンがね!あーっ、もう駄目!」
「やっだ、完全にハマっちゃってるわこの子」
「何やったんですか社長」
和気藹々と、いつになく盛り上がる病室を背に、恭一郎は立ち尽くしていた。
あれが、地?いや、地ならば、自分の想定に間違いはない。
他人に見せる柔和な貌と、歌音だけに見せる嘘の無い貌と、その二つを綺麗に混同した素顔。
とすると、詩音は正常なのだろうか。いいや、正常であるはずがない。
「詩音…」
わっと湧く室内の閉じた扉を振り返り、恭一郎は呟いた。
彼の妹への依存はきっと治せない。精神科医としての自信は、さっきの一言で打ち崩れた。
詩音はあれで正常なのだ。だから、異常であったとしても社会生活に支障など感じていないし、よっぽど注意していないと周囲もそれに気づかない。
けれど、歌音がもし、詩音の手から離れたり、いなくなったとしたら。
彼は恐らく――。
「でも、随分元気そうでホントに安心したわ」
「シノがいてくれたから」
ぎゅっと詩音の手を握り、歌音はふわりと微笑った。
恋をしている少女特有のキラキラとした閃光、合わせて恥ずかしそうにそっぽを向く同じ状態の少年。
眩し過ぎる光景に、ジェーンは「ああ…っ」とよろめいて見せた後、その逞しい腕で二人を力強く抱き締めた。
「良い事?世間に負けちゃ駄目。
そりゃ、実の兄妹で恋愛ってのは世の中の常識としちゃオカシイわよ。
でもね、それに負けちゃ駄目よ。あんた達は、負けちゃ駄目。アタシは負けたから、同じ想いをあんた達に感じて欲しくないの」
バシバシバシッと瞬き、ジェーンはしっかりと二人の手を握り締めた。
いつになく真剣な様子に、二人は神妙に頷く。
「アタシは何度も恋をしたけど、中でも誰にも替えられないくらい愛した人がいるの。
その人と手を繋いで歩いただけで白い目で見られるのよ。その人、男だったから。
同棲もしたけど、毎日毎日嫌がらせの手紙とか電話とか、酷い時には投石だってあった。
気持ち悪いから出て行けなんてのは聞きなれちゃったわ。この人がいれば、何でも耐えられるって思ってたし。
…でも、あの人は耐えられなかった。女の恋人を作って、結婚しちゃったわ。今じゃ三人も子供がいるそうよ」
歌音は思わずジェーンの手を握り返していた。
辛いだろうと思っての咄嗟の行為だったが、半分伏せられているジェーンの目は優しげな光に満ちている。
その目色と表情が不思議だ。
「凄く凄く好きな人だったから、幸せそうでアタシも嬉しいわ。でも…時々物凄く悔しくなるの。
アタシが女だったら、アタシが離さなかったら、アタシは今でもあの人の隣にいられたかしら。
考えたって無駄だって解ってるのに、ね」
「ジェーン…」
「やだ、泣かないでよ歌音!アタシ泣かせるために話したんじゃないんだから。
だからね、詩音、歌音。絶対に離しちゃ駄目。
詩音は世渡り上手だから、そこんところ巧く出来そうだけど…でも、お互いの存在を当たり前だと思っちゃ駄目。
あんた達が兄妹だって事は変えようのない現実だけど、障害は数え切れないくらいあるけど、それに負けちゃ駄目。
解ったら返事なさい?恋における駄目の三原則」
歌音の涙につられて潤んだ目元を拭うジェーンに、二人は悲しそうに目を伏せて頷いた。
握った手を絡め、強く強く握り締める。
好きな相手が幸せだったらそれで良いなんて、そんなのは偽善だ。
ジェーンが今でも時折過去の恋に苦しんでいるのは、その偽善があるからだ。
詩音はそう思いながらもジェーンに感心する。
彼は生まれつき心が広いのだ。生まれつき心の狭い自分には到底真似できない。
涙を拭う歌音の頭を撫で、自分の器の狭さを心で哂った。
――早坂邸、リビング。
姉を見舞って一ヶ月。
花菜は家の中でも学校でも、めっきり大人しくなってしまった。
明るい笑顔を見せはするものの、ぼんやりとしている事が多い。
花菜はこの一ヶ月ずっと考えていた。双子の兄と姉がこの家に来た経緯、彼らが何故この家で浮いていたのかという理由。
今広げているのは、五、六年前のアルバムだ。
写真屋で貰う薄っぺらいそれに、双子の姿は殆ど無い。あっても、写真の隅に小さく写っているだけである。
父と母と司郎、もちろん花菜も家族らしい笑顔で写っているのに、双子だけがそこにいない。
この十五年、自分が構ってもらう事に一生懸命で、どうして突然異父兄姉がこの家に来たのかなんて考えた事もなかった。
どうして兄はあんなにこの家族を嫌うのか、何故姉は母を慕わないのか。
花菜にとっての母親は、若くて美人で優しくて気立ての良い、世間一般の理想の母の姿なのだけれど。
そういえば、その理想の母は、双子に対して母らしい態度を取っていただろうか。
父親が違うといっても、自分が産んだ子供のはずだ。
「花菜?帰ってるの?」
「うん…」
「学校で嫌な事でもあったの?あなた、最近塞ぎがちよ?」
「ううん…学校は楽しいよ。
ねえ、お母さん…」
「なあに?」
一度だけ、両親が喧嘩している声を聞いた事がある。
喧嘩といっても、父が一方的に母をどなりつけているだけで、母は何も言っていなかったけれど。
『どうしてあいつ等はあの男にそっくりなんだ!
あんなに似てなければ、俺だって可愛がれる。お前もそうだろう?!』
あの男って、誰だろう。
見た事もない、兄と姉の本当の父親だろうか。
「しの兄とかの姉のお父さんって、どんな人?」
ぺらぺらとアルバムを捲る手を止め、花菜は振り向かずに問った。
圭子は娘の発した言葉に息を呑み、微かに手を震えさせながらコートを脱ぐ。
「どう…したの。急に、そんな事」
「…あたし、ちょっと前にかの姉のところに行ったの。
かの姉、喋れるようになってたよ…。お母さん、行ってあげないの?」
買い物袋をテーブルに置いた。
動揺しながら置いたそれはくしゃりと崩れ、玉葱と林檎がゴロゴロと床に転げ落ちる。
かたかたと震える手を押さえながら一つ一つ拾い集めようとしたが、一つ取っては一つ手から逃げた。
「どうして、行ったの…」
「だって、しの兄に会いたかったし、かの姉にも会いたかったから」
「あなた、嫌ってたでしょう。あ、あの子の事」
「…違うよ。……憧れてたんだもん…」
「も、もう、行っちゃ駄目よ…花菜、行かないで」
一つ手に入れたら、一つ零れ落ち、それを拾うとまた別のものが逃げて行く。
『圭子、詩音と歌音をちゃんと見るんだよ』
零人の声が耳の奥に蘇った。
幼い頃の双子の顔が脳裏にドンと焼きつく。
「…行くつもりないけど。お母さん、おかしいよ。
お母さんはお父さんと違ってお兄ちゃんとお姉ちゃんの本当のお母さんなんでしょ?
しの兄とかの姉の家族なんでしょ?」
「やめて!!!」
叫び声に合わせて、思わず林檎を床に投げつけた。
砕けた林檎と、絶叫した母親に驚いた花菜は思わず身体を竦めた。
『君が僕を裏切るなんて、思わなかった。
僕は君を裏切ろうなんて、一度も思った事ないのに』
綺麗な人だった。世間知らずの潔癖なお嬢様が、火遊びに惹かれるような恋。
暖を取るだけの軽い気持ちの火遊びは乾燥した大地を焼いて燃え広がり、過ちだけが、償えない罪になって残った。
愛したかったから、引き取った。愛せると思った。だから引き取った。
親の責任を取ろうとした。一度は愛した人との子供だから、愛せると思った。
世間知らずのお嬢様が売れ始めたミュージシャンに恋をして、そのミュージシャンも穢れを知らないお嬢様に恋をして、燃え上がった恋は二つの形を造った。
愛せると思ったから、愛せないはずがなかったから、産んだ。
産んだところで、何も知らないお嬢様は子育ても出来ず、結局何もかもソツなくこなす夫が双子の赤ん坊を育てた。
だから、愛せるはずだった自分の子供達は、裸にしなければ見分けられもしない。
綺麗な顔の父親、彼に、彼だけに似ている双子。通じ合う三人。
一人、孤独を感じるようになった。
大嫌いだったはずの婚約者と再会し、その器の大きさに癒され惹かれるようになった。
自分が癒された分だけ傷ついた夫は、ビルの上からひゅるひゅると落ちて呆気なく死んだ。微笑いながら死んだ。
落ちていく零人と目が合ったのだ。綺麗な顔に浮かんだ、優しい笑顔。
詩音がよく浮かべるあの、微笑っているだけの顔。
「愛せないのよ!あの子達は、私を責めてる!
パパを返せって、あの人と同じ眼で、顔で、声で!!」
「お母さん…?」
「花菜、花菜…っ、あなただけが私の本当の子供なの。
あなただけなの、私を責めないでいてくれるのは、あなただけなのよ…っ」
『おかあさん』
ママと呼ぶことを止めたのは双子。
ママと呼ばせなかったのは母親。
『ごめんなさい、お母さん…ごめんなさい…』
歌音はよくそうやって謝った。何を謝っているのか判らず、余計に苛立った。
『歌音に触らないで』
詩音はそうやって歌音を庇った。何故庇っているのか判らず、苛立ちは増した。
苛々する分だけ、花菜に愛情を注いだ。花菜は、愛情を注げば注ぐ分だけ素直に愛を返してくれたから。
『圭子、詩音と歌音をちゃんと見るんだよ。
そしたら、違いなんてすぐ判るから』
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…っ』
『歌音に触らないでってば!好きじゃないくせに!』
何を、何処でどう間違えたのだろう。
引き取らなければ良かった。知らないふりをすれば良かった。
愛したいと暴れる心を抑え、知らないふりをすれば、楽だったのに。
世間知らずのお嬢様は、とことん世渡り下手だ。




