詩と歌の音―9―
有里は、呆然としていた。
手に持っているのは、ドラッグストアで買った妊娠検査薬。
大学受験日まであと一週間というのに二ヶ月も生理が遅れている事に気を取られ、冗談半分気休め程度の心持で試しただけなのに。
見下ろす検査結果は、縦線の入った陽性。
愕然としながらも、有里は沸々と沸きあがる二種類の喜びを感じていた。
一つは単に、子供がいると知った女特有の喜び。
もう一つは黒々とした、独占欲と束縛欲。
諦めたはずの意地が、愛の大半が意地である事に疲れていたはずなのにまたその意地が、沸々と。
――療養棟、歌音の病室。
ジェーンの訪問がよっぽど活力剤になったのか、それとも安定剤になったのか。
恭一郎から「びっくらこくほど落ち着いてるよ」と言われた詩音は、退院も近いのかと密かに心を躍らせていた。
「どうしたの?シノ、嬉しそう」
「そう?」
「うん」
冬にしては春色の濃い花束を持って現れた詩音に、歌音は「柄にもない」と思った。派手な外見に花束は似合うのだが。
詩音は繊細そうな雰囲気には似合わず、細々としたものの世話や作業が苦手だ。
今も妙に上機嫌で、「うわっ」とか「あー…」などの所謂失敗時の声を漏らしながら花瓶に花を生けている。
「私、やるよ?」
「いーの。俺がやる」
「…変なの」
「そう?」
「うん」
ベッドの上で膝を抱きながら言う歌音も、詩音の雰囲気につられてニコニコと笑っている。
外では寒々しく雪が積もっていたが、暖房の力だけではない暖かさを感じて胸が疼いた。
「シノ、大学の受験終わったの?」
「あー、うん」
「自信ある?」
「うん。
受かってない自信がある」
「ええ?受けたんでしょう?」
結局水を張った花瓶にブスブスと生けただけの花は、かなり不恰好な見てくれのままベッドサイドのミニデスクの上に置かれた。
詩音の答えと、花の不恰好さを笑いながら問う。
歌音の心地良い笑い声に、詩音も目を細めて微笑った。
「座ってただけだもーん」
「…答えてないの?」
「イエス。めんどくさいし、最後の反抗。
これで受かってたら、素直に行きますよ」
笑いながら歌音の隣に腰を下ろすと、パイプベッドはきしりと音を立てた。
欠片も悪びれた様子のない態度に歌音は呆れたような笑顔を浮かべ、くすくすと笑っている。
抱いた膝の上に頬を乗せ、ふと笑い声を止めた歌音は幸せそうな目で詩音を見つめた。
笑える日が来るなんて、自分で閉じ込めた自分を取り戻せる日が来るなんて、思っていなかった。
眠る度に現れる義兄の幻影は怖ろしくとも、愛してくれない母親の影が哀しくとも、詩音がいれば安心できる。
「愛してる?」
「誰を?」
「うーん……俺?」
顔を寄せ合い、くすくすと囁き合う。
その姿は普通の恋人そのもので、偶然通りかかった恭一郎は、自分に気づいていない様子の双子を眺めて苦笑した。
歌音の状態が本当に安定しているのだとすれば、遅く見積もっても春頃には退院できるだろう。
歌音の脇腹を擽る詩音は心底笑っているようで、それを数秒見つめた恭一郎は苦笑の嘆息を漏らして歩みを再開した。
「コーヒー飲みたい」
「私も」
「やっぱ?」
「だって、シノが擽るんだもん」
「カノが意地悪言うからだよ」
「だってシノが擽るからーっ、も、もうやだったらーっ」
昔から弱い脇腹を再び攻めた詩音は、涙を零して笑う歌音の頬にキスをして身を起こした。
歌音で遊ぶのはもう止めにして、渇きを訴える喉を潤してやろうと立ち上がる。
笑いすぎて息を荒げる歌音は、むっとした目でこちらを睨んでいた。
「へーへー、もうしませんってば。
コーヒー買ってくっから待っててね、お姫様」
むすっとしている唇の上、鼻頭をむぎゅっと摘んだ詩音はくっと喉の奥で笑いながら出て行った。
その後姿を目で追い、歌音は大きく息を吐いてベッドに倒れ込む。
正常なふりをして恭一郎を騙す作戦は、彼の思わぬ先手で大した成果を見せていない。
詩音は「あの人には殆どバレてるような気がする」と言い、歌音もそれに同意した。
彼は、父親の死も知っているような気がする。嘘を吐いたところで全くの無駄。
けれど、ジェーンが訪ねて以降の歌音は、不安や恐怖に苛まれる心が大分落ち着きを取り戻しているような感覚を覚え始めていた。
それからだ。恭一郎の目をちゃんと見て、素直な受け答えを返せるようになったのは。
自分でも驚くほど、四年前の事件の時の心境や、抱えている不安と恐怖を冷静に見つめられるようになった。
眠る度に頭部を血まみれにした義兄の幻影は現れるけれど、夢を見ては愛してくれない母親の影に泣きたくなるけれど、取り戻した自分と共にその心が詩音の手の中に戻っていると実感して、以前のような絶望だけの不安と恐怖は感じなくなった。
どうしようもない問題は、未来に向けて山積みになっているのに。
歌音は幸せで幸せで、堪らない。
胸が疼いて、幸せを感じる度に涙腺が緩んで何となく、切なかった。
――療養棟、玄関前。
有里はなけなしの勇気を振り絞ろうと、ぎゅうと強く拳を握り締めた。
詩音に別れを告げて一ヶ月。その間、彼が学校に現れたのはたったの二日。目が合うと、少しだけ申し訳なさそうに、けれどいつもの笑みを浮かべる。
自分と別れた事で、詩音が傷つくはずもない。理由がない。
奥田有里は、双子の妹の身代わりだったのだから。
いや、きっと、身代わりですらなかったのだ。
「すみません。見舞いの者ですけど、早坂歌音さんの病室は…」
「あら、お友達?一○五号室よ」
「ありがとうございます」
どうして来たんだろう、と思いながら綺麗に磨かれた乳白色の長廊下を歩く。
電話で適当な喫茶店にでも呼び出せば済むのだけれど。
パサ、と、枝に積もった雪が落ちる音がした。
胎に眠る子は、百パーセント詩音の子供ではないだろう。
わざわざこんな所まで足を運んだのは、それに対する罪悪感を抱いているからだろうか。
それでも、騒ぎ始めた意地という名の執念は、詩音を取り戻せと煩く囁くのだ。
取り戻すために、史上最大の嘘を吐く。詩音が少しでも怯めば、付け入る隙は出来る。
黒々しい野望を胸に秘めながら、野心とは不釣合いなとぼとぼとした足取りで病室に向かう。
「…有里?」
「しの…ん」
第一診察室と一○三号室の前を通り過ぎた所で、有里は足を止めた。
缶コーヒーを二つ手に持った詩音が、吃驚したのか目を丸くしてこちらを見ている。
「何で、ここ…」
「…花菜ちゃんに、聞いたの」
嘘だ。二年前から知っている。
有里の答えに、詩音は小さく嘆息した。
「何?」
「詩音に、話があって…」
「話?」
「コーヒー置いて来る」と病室に向かった詩音を、有里は中庭のベンチに座って待っていた。
目の前の、あの大きな木の下だ。二年前の秋、二人はここでただの兄妹ではない雰囲気を醸し出していた。少なくとも、詩音は。
「話って?」
有里を見つけた詩音はベンチに座らず、彼女の前に立って問った。
僅かに目を伏せ、ポケットに手を突っ込んで暖を取っている。
「こんなの、ヨリ戻す手段みたいで、聞こえ悪いんだけど…」
「良いから。直球で言って」
やはり、怒っている。
ここは多分、詩音にとって病院である前に歌音と二人で過せる場所なのだ。
だから、自分以外の誰かがここに訪れる事を極端に嫌がった。
「あ、あのね…私、妊娠してる…かも、しれないの」
「…ふうん」
「それだけ…?」
詩音はまるで他人事のような溜息を吐いただけで、ずっと鼻を啜った。
嘘を吐いているのは自分で、その非は確かに自分にあるのだろうけれど、詩音のあまりに薄い反応に有里は呆然と立ち上がると、思わず詩音のコートを掴む。
陽性反応を見た時、愕然としながらも密かに勝ち誇ったような感覚を覚えた。
これで詩音を取り戻せると、到底母親になるかもしれない女が考えるとは思えない、子供をダシにする事を思ってしまった。
だって、歌音は詩音の子供を産めない。所詮彼女は妹なのだから。
簡単に嘘を見抜かれた羞恥と、勝手な自尊心の欠損に腹の底が熱くなる。
「詩音の、子供かもしれないんだよ?」
「かも、だろ?可能性はゼロだよ」
「何で?!それじゃ、あたしが他の誰かと」
「したんでしょう?それ以外有り得ない。
だって俺、酔ってても絶対着けるし」
有里はかっと顔を赤くし、ふらりとベンチに座り込んだ。
寂しさを埋めるため、詩音以外の男と幾度か寝た。
彼の友人で、自分の友人でもあるクラスメイト。
詩音との事で相談に乗ってもらっている内に、なんていう、有り触れた行きずりの。
「違う!この子、絶対あんたの子なんだから!」
「産むの?」
「証明してやるんだから…!詩音の子供なんだから!」
詩音は冷え冷えとした目で汚れた雪を見ていた。
折角柵から解放されたのに、また面倒な事を。溜息を吐くと、何となく腹の底から可笑しくなった。
自分のような最低な人間に興味を抱かなければ、有里は真っ当で真っ直ぐな少女のままでいられたのに。
「なに…?」
肩を震わせていた詩音は、次第に身を折って笑い声を立て始めた。
可笑しさが込み上げたのは、ほんの少しだけ、母親と有里が被ったから。
“哀れ”
有里は浮き上がる涙に歪む視界で、笑う詩音を見つめるしかない。
「産みたいなら、産めよ。
子供使って証明したいならしろよ。
でもさぁ、愛せもしないのに産むんじゃねーよ」
「しの」
「母親に要らないって言われるの、どんな気持ちか解る?
お前、産んでどうすんの?絶対俺の子じゃないのに。
「ああ違った、じゃあ要らない」って捨てるの?」
「ちがっ」
「十八で育てる自信あるの?道具だからどうとでもなるって?」
「違う!!」
こんな詩音は知らない。
声は笑っているのに、笑い声は確かに聞こえるのに、詩音の顔は少しも笑っていなかった。
ずっと綺麗だと思っていた灰色の眼は鋭く淀み、徐々に近づくそれから顔を背けられない。
違う、知らないんじゃない。有里は、悪意も何も無いがらんどうの眼に、見覚えがあった。
『お父さんと同じ顔で見ないで!!』
要らない、そう言われたと同じだった。
歌音はそれから母親と目を合わそうとせず、優しい母親を夢に見ては泣いた。
愛せもしないのに、何故引き取ったのだ。どうして産んだのだ。
“哀れ”
誰が?
有里が、母親が、否、自分が。
「私、違う…そんな気持ちもあったけど、でも、妊娠が嬉しいのも事実よ!」
「…ふうん…」
堪らず有里が叫ぶと、詩音はすっと身を引き、初めと同じ反応を返した。
その目は既に歌音の病室がある辺りを見ている。
ほら、勝てるはずなかった。
「どうして、歌音なのよ…」
度の過ぎるシスコンとブラコンとだと思っていた。二年前の秋までは。
歌音はフラフラしていて大人しすぎるほど大人しく、地味でいようとしているのに妙に目立つから、ただの兄でなく双子の兄である詩音は心配で堪らないんだろうと、そう思うようにしていた。彼を好きになった頃から。
「何で歌音なの?!
私、勝てるわけないじゃない…っ」
良い意味で目立つのは詩音で、その双子の妹はいつも悪い意味で目立っていた。
言ってみれば、明るくてリーダーシップのある兄の影。
それでも派手な苛めがなかったのは、いつも詩音が妹の盾になっていたからだ。
誰にでも優しくて、明るくて、リーダーシップがあって、誰にでも好かれる詩音が、たった一度だけ見せた事のある、樹の虚のような眼。
六年ほど前、確か、小学六年の頃だ。
昼休み、校庭で遊んでいた詩音は突然、「頭が痛い」と言って屋上へ駆けて行った。
保健室ではない場所へ駆ける時は大抵彼の妹が転んだり泣いていたりする時で、今回も例に漏れず歌音が屋上で泣いていた。
ただいつもと様子が違っていたのは、歌音の膝近くまであった長い髪が背中の中程まで短くなっていた事。
歌音は、無理矢理切られたらしい自分の髪を持って、蹲ってしくしく泣いていた。
それを見つけた詩音は、焦りと怒りに「誰がやったのか」と追及するクラスメイト達とは違い、ゆっくりと落ち着いた雰囲気で瞬いた。
その時の反応はそれだけだった。
首をぶんぶんと横に振るだけで犯人の名前を言おうとしない歌音の頭を優しく撫でると、妹を囲む輪から一人離れ――。
次の休み時間、隣のクラスで悲鳴が上がった。詩音はその手に鋏を握り、どうやって見つけ出したのか歌音の髪を切った三人の髪を引っ掴んで切っていた。淡々と、虚のような眼で。
「おかしいよ、詩音」
有里はぽつりと呟いた。
詩音は雪の黒く汚れた部分を見つめながら、ベンチの端に腰掛ける。
「歌音の事、好きなんでしょ…。
歌音は、妹だよ?それって、異常だよ…?」
「…知ってる」
「同じ顔だよ…」
「運が悪かった」
「…異常だよ」
「そうだね」
きっと、多分、詩音も心の病気なのかもしれない。有里は鼻を啜りながら思った。
そういう理由をつけないと、有里には理解出来ないからだ。自分の兄や弟を男として好きになれるかと考えてみても、気持ち悪いだけで想像も出来ない。それが、多分普通の感覚だ。
「私に、ちょっとでも悪いって思ってるなら…私の四年間潰した事、ちょっとでも悪いって思うなら…。
…こっぴどく振ってよ。そしたら、あんたの事嫌いになれるから…」
「…うん」
意地だけでしがみついたくせに。
奪ってしまえるほど強くない。
歌音から詩音を取り上げたところで、詩音から歌音を奪えるわけではない。
優しいだけで心の無い人を愛し続けられるほど自分は強くないと有里は識っている。
もっと図々しく、ふてぶてしく、そうだ悪女に育っていれば良かった。
「私の事、身代わりだった?」
「カモフラージュ」
「ちょっとでも、愛してた?」
「…全然」
「馬鹿な女って思ってた…?」
「可哀想、って、思ってた…」
「…詩音って、最低だね…」
「解ってる」
「……最っ低だよ。男のクズだよ。
頭オカシイんじゃないの…こんな可愛いコ、そうそういないのにさ…」
目尻を真っ赤にした有里を見る詩音のいつもの笑顔は、少しだけ、柔らかな温かみを孕んでいた。
有里はずっと鼻を啜り、むっと眉を寄せて詩音の肩口をドンと殴る。
「…有里は好きだよ。歌音に優しかったから」
「そうでしょうね。
最低のフラレ方だわ」
「…ごめ」
「言うな。謝んないで。謝られたら、詩音の事殺しちゃいそうだから。
もう良い…これで、お互い、漸く解放されるんだよ…」
有里はドロドロの、意地と嫉妬だけの疲れる感情の塊から。
詩音は求められても返せない愛情を疎む気だるさから。
「もう会わない?」
「会いたくない…」
「…歌音にも?」
「歌音には、十年後なら会えるかな…」
「オバさんだな。そん頃には」
「あんただってオッサンよ。
私を傷つけまくったんだから、若ハゲにでもなってモデルなんか出来なくなってりゃ良いのよ」
有里が立ち上がる。
詩音はその後姿を眺め、素直な気持ちで微笑った。
四年間傷つけて傷つけて傷つけた少女に、今初めて心からの罪悪を感じている。
子供、どうするの。
遠ざかる背にそう問おうとして、その資格すらない事に気づいた。
「……男じゃなくて、人間のクズだよ」
よりによって実の妹を本気で愛した上に、その愛を世間の目から隠すために人を道具のように使う。
どうせなら猿に生まれていたら、もっと楽だっただろうに。理性と社会性なんて、身につけるもんじゃない。
詩音は溜息を吐くと、自分の理性も社会性も取り繕っているだけの贋物だという事を思い出し、軽く笑った。
生まれた時から人間の道を外れているクズは、たった一つの拠所へ還る。
同じ想いを抱えているはずなのに、その拠所の事をクズだとは思えなかった。




