詩と歌の音―10―
初めての恋だった。
悲しい事に、それはただの恋だったのだ。
愛ではなかった。
圭子は幼等部から高等部が一環したエスカレーター式の学園で学生生活を過した。
友人も多くそれなりに楽しかったが、小等部から高等部までは男女別の校舎で、異性に対する免疫対象といえば、免疫対象にもならない父親と教師のみ。
圭子の思春期は、淑やかで上品な者の多い世界にどっぷりと浸かったまま終わるはずだった。
自分とはかけ離れた世界の住人である零人と知り合ったのは、そんな世界も後数ヶ月という冬の頃。
過ちは、友人の一人ではあるがあまり良い噂のない少女の「最後のテストくらい良い点を取りたい」という嘘から始まった。
家庭教師のつもりで友人の家へ行くと、彼女は勉強もそこそこに自室からの脱出を計り、圭子を連れて夜の街へと繰り出す事に成功したのである。
ほぼ引っ張られる形で着いた先は小汚いライブハウスだった。
酒と煙草の煙が充満した小屋ともいえる部屋の照明は濃い紫や緑といった奇抜な色のものばかりで、ちらちらと見える壁は酷い落書きだらけだ。
騒音に圭子の呼び掛けは次々と掻き消され、やっと友人が振り向いたところで耳を劈くような轟音が狭い室内の床と壁を揺らした。
音楽はクラシックしか聴いた事がない。それ以外といえば、祖父が愛聴している演歌くらいのものだ。
とにかく、第一印象は恐怖だった。
黄色い声援と野太い掛け声を浴びる男の髪は見た事もないような鮮やかな金色で、足の裏から頭の先まで引き裂くような音渦の中で喉が裂けるのではないかと思えるまでの大声で歌っている。
歌っているというよりは、喚き散らしているようにも聞こえた。流暢な英語は早口なので何を言っているのか全く判らない。
その歌っているのか叫んでいるのか判らない声から感じたのは、激しい怒りに似た怒涛の感情で、周囲の絶叫も加わり圭子は立ち尽くすしかなかった。
おまけに、パフォーマンスなのか曲が終わるごとに徐々に服を脱ぎ始め、最終的に彼はステージ上で上半身裸だった。
これを恐怖といわずして何と言うだろう。
別世界に迷い込んだと同然の圭子はライブが終わると同時に友人に引っ張られ、わけもわからない内に楽屋へと連れ込まれていた。
「実南ちゃんの友達?よろしく〜」
あの狭いステージで鬼のような形相で叫びまわっていた男は、同一人物かと疑ってしまいたくなるほど柔和な笑顔で非常にフレンドリーな挨拶を寄越した。
明るい照明の下で見る彼はとても魅力的で、圭子は簡単に恋に落ちた。
友人がドラム担当と付き合っていたと知ったのは、翌日の事。
高校を卒業すれば一年間の花嫁修業を経て婚約者の元へ嫁がなければならない。
何もかもを決められた人生に希望の無かった少女に、零人という男の刺激は強すぎた。
二つ年上で優しくスマートな彼は圭子の知らない事を沢山知っていて、容姿もずば抜けて麗しい。
淡々とした冷たい印象しかなかった婚約者とは天地の差だと、世間を知らない少女は初めての恋に溺れた。
ただ、恋をしていたのだ。
女を惹きつける強大な魅力を持つ零人の子を身篭った事が単純に嬉しく、勘当され婚約を破棄されても、彼となら幸せになれると思っていた。
常識で考えれば、知り合って一年未満の何もかもをすっ飛ばした結婚生活が早々巧くいくわけなどない。
花嫁修業前の圭子は当たり前に自炊などした事もなく、その生活は不便で不自由だらけだった。あんなに産みたいと思った子供は、中々懐いてくれない。
友人たちは今頃十九という歳を満喫しているだろう。
大学に通っているか、はたまた自分も従事するはずだった花嫁修業に精を出しているか。
どちらにしてもその周囲には親しい同年代の友人が溢れている事だろう。
だが自分はどうだ。
内気な自分ひとりではママ友達を作る事すら出来ない。
零人を取り巻く人間は男女共に大抵が粗忽で下品。
生まれた子供は双子で、精一杯の愛情を注いでいるつもりなのに自分の腕では泣き止んでもくれない。
父親が抱けばあっさりと眠るのに。
孤独だろうか。生まれた子供達が何とか言葉でコミュニケーションを図り始められた頃には、言いようのない虚しさが山のように積もっていた。
かつての婚約者と再会したのはそんな頃、猛暑だった。
一郎は圭子との婚約を破棄した後に見合い結婚し、既に一児を設けていたが妻を亡くしたばかりだった。
「俺は、本当に君を愛していた。
顔に出ない性分だから、君は俺を嫌っていたようだが」
初めて受けた印象と変わらない、冷静で淡々とした口調だった。
孤独を埋め合うための嘘だったのかもしれない。
それでも、彼の耳朶が微かに赤いと気づいた時、確かな愛おしさを感じた。
不器用な人だったのだと思うと、あんなに嫌いだった彼を堪らなく可愛い人なのだと思えた。
零人に抱いた感情と、似ていて非なるもの。
いけないと思いながらも誘いを断れず、逢瀬を重ねる度に一郎が見せる不器用な優しさに惹かれていった。
零人と別れてくれと言われたのは、秋が深まり肌寒さが目立ち始めた十一月の初旬。
子供も引き取って、五人で新しい生活を始めようと言ってくれた。
明確な答えを返せないまま数日が過ぎ、双子は二歳の誕生日を迎えた。
家族揃って迎えた双子の誕生日、詩音には当時人気のあった機関車の玩具、歌音には真っ白いテディーベアを贈っている。
この頃零人のバンドはメジャーデビューが決まり、彼は多忙を極めていた。
一方で圭子は双子を早くから寝かしつけると一郎と会い、早朝にはアパートへ戻るという生活を続けている。
そうまでしても一郎に会いたかった。
圭子の孤独を埋めてくれたのは、同じような孤独を持つ一郎だけだった。
段々、子供も夫も疎ましく思うようになっていた。
自分の選んだ道を真っ向から否定する考えに浸る度、そんな自分が怖ろしくなったけれど。
それでも気持ちを抑える事は出来なかった。
双子の誕生日から十日ほど過ぎたある日の早朝、アパートの古びた扉に嘆息し鍵を開けると、玄関から見える位置で眠っているはずの双子の姿が無かった。
普段なら一つの布団でぎゅうぎゅうにくっついて眠っている時間帯だ。
ぞっと背筋が寒くなり、靴を脱ぎ捨てると玄関の扉も閉めずに部屋へ上がる。
布団は何となく温かく、少し前までいたのだという痕跡があった。
嫌な予感にぞわぞわと鳥肌を立てながら脇の机を見ると、紙切れが一枚置いてある。
昨夜はなかったそれに眉を顰めながら目を走らせ、ほっと息を吐いた。
紙切れは零人の書置きで、内容は二人を遊園地へ連れて行くというものだった。
双子のために用意していたコンビに弁当は、炊事場のゴミ箱に捨てられていた。
零人が自殺したのはその翌日。
愛されている事は、知っていたのだ。
圭子はそれに応える愛情を零人に抱けなかった。
バンドが所属する事になった馬鹿でかい会社のビルに圭子は呼び出された。
零人はどことなく淋しそうな目で、
「君が僕を裏切るなんて思わなかった。
僕は君を裏切ろうなんて、一度も思った事ないのに」
ぽつりとそう言った。
零人は自分の過ちを知っていたのだと分かると、腹の底からカッとした羞恥が湧きあがった。
それでも動揺を隠そうと手を握り締め、「何の事?」と問い返す。
自分でも呆れるほど、その声は震えていた。
零人の嘆息が斜め上から微かに聞こえた。
「良い。
圭子がそれで幸せなら、もう良い」
何が良いのだ。
圭子は俯いたままそう思った。
零人は全身全霊をかけて自分を愛してくれたのに、自分はそれを知っていたのに、裏切ったのだ。手前勝手で被害妄想的な独りよがりの孤独を理由に。
殴られても文句すら言えない状況を作ったのだ。
何が良いのだ。
圭子は、零人が抱える闇を識らなかった。
彼が起こす詩は、大抵が抗いようのない孤独や理不尽な世界への怒りだ。
零人が本当は誰も愛せない事を、圭子は識らなかった。彼の抱く愛情が歪だという事も、識らなかった。
零人が珍しく歌う優しい歌といえば、双子を寝かしつける時に歌う日本語でも英語でもない言語の曲だけだ。
二年間と少し共に暮らしていながら、圭子は零人の育った境遇を知らない。
零人は決して一定以上の距離から他人が踏み込むことを許さず、圭子が彼の抱える闇を知り得るはずもなかったのだが。
「これからの事、話そう。コーヒー買って来るから、そこ座ってて。
大丈夫、全部巧くいくよ。全部、丸く収まるから。
ああ、外、綺麗だよ。社長自慢の、景観」
顔を上げると、零人は怒った様子もなくただ微笑っていた。
言われるがままベンチに腰を下ろし、混乱した頭を静めようとガラス張りの窓を見つめる。
確かに素晴らしい警官だった。周辺の街の様子が一望出来る。
それは、一瞬だったはずだ。
落下する速度はとてつもなく速いものだという事は、圭子も知っている。
それなのに、頭から落ちていく零人と目が合った。
初めて会った時の、初めて言葉を交わした時の、つい数分前まで目の前にあった微笑。
コーヒーを持って戻って来るはずの零人は、感情があるとは思えないただの微笑のまま、窓ガラスの向こうにいた。
自殺に直接結びつく遺書はなかった。
けれど、彼が言った通り、全て巧く行った。
遺書は用意していないくせに死後の処理は済ませており、弁護士と数回面接しただけで全ての話が終わった。
零人の遺言は、彼の両親の遺産と彼が残した金品は、双子が二十歳の誕生日を迎えたら譲渡してくれという事と、十八の誕生日を迎えたらある人に会わせてやって欲しいというそれだけだ。
裏切った自分への怨恨の痕跡は欠片も無い。
「パパは?」
零人と似た顔で、同じ顔が二つ、そう問いかける。
無垢な光が溢れる四つの灰色の瞳が、「お前が殺したんだろう」と言っているような気がした。
結局、一度も一郎に双子を会わせないまま施設に預けた。
憔悴した圭子を、一郎は不器用ながらも献身的に慰めてくれた。
彼との間に生まれた赤ん坊は自分に似ていて、余計に圭子を慰めてくれた。
三年後に引き取った双子は、特に詩音は圭子を毛嫌いした。
幼い頃はどちらかというと歌音の方が零人に似ていて、圭子はそれを恐れた。
「レイちゃん」
歌音がふわふわのテディーベアにそう話しかけている光景にぞっとした。
四つの灰色の目は何も言わず、「お前がパパを殺したんだろう」と言っているような気がした。
愛した人の子。
それは違う。ただ恋をしていたのだ。
恋で終わってしまっていたのだ。
愛そうという努力を、不便な現実を前に放棄した。
裁かれるべきは自分なのだ。
零人が死んだ原因は明らかに自分なのだ。
どうして誰もそれを責めてくれなかった。
歌音が酷い方法で心を失くしても、一度の見舞いだけで会いに行く勇気はなかった。
「どうしてお姉ちゃんのお見舞い行ってあげないの?」
花菜までそんな事を言わないで。
双子が花菜と距離を置いている事に、圭子は少なからず安堵していた。
酷い母親だ。死ねば良かったのは自分の方なのだ。
十五を超えた頃から詩音は零人に瓜二つになり、彼が浮かべていた心の無い微笑を浮かべるようになった。
それを見る度、思うのだ。
「パパじゃなくて、あんたが死ねば良かったのに」
そう言われているような気がするのだ。
「パパがいるだけで、俺達は幸せだったのに」
彼らから唯一本当の親愛を与えてくれる人間を殺した。
見えない形で、この贖罪は一生着いて回る。
零人の遺した双子が持つ彼の面影に怯えながら、悔いても改められない懺悔を抱えながら。
ガタン、という物音に、圭子は悪夢から目覚めた。
「裏切り者」
幼い双子の唇から飛び出した零人の声が、ガンガンと頭の中で響いている。
カタカタという小さな物音はさっきの大きな物音の後も続いていた。
夫は堪った仕事を片づけているのか未だ帰宅していないようだ。
そろそろと廊下を移動する内に、音の根源が歌音の部屋だという事に気づいた。
物取りかもしれないと震える手でノブを回す。
「…何」
そこにいたのは、最も顔を合わせたくない詩音だった。
思わず固まり、震える声で漸く「何してるの」と問う。
夜中の一時を過ぎた深夜だ。
「見て分かんない?荷物纏めてんだよ」
「ど、どうして」
「言ったはずだけど。
俺がこの家出て、誰が歌音を守んだよ。こんなトコで」
圭子が双子を恐れる理由は他にもある。
二人はまるで二人で一つだというように、何をするにも一緒だった。
風呂でさえ中学に上がるまで一緒に入っていて、圭子が止めさせなければ今頃の歳に成ってもそれを続けるような気配があった。
「…いつまでもそこにいられちゃ邪魔なんだけど」
「し、詩音…、いつまでも歌音といられるわけじゃないのよ…?」
「……だから?」
「いつか、歌音にもあなたにも好きな人が出来て、離れなきゃならないのに、いつまでもそうやって過保護に」
「そうさせたのは誰だよ」
ビリ、とガムテープを引き伸ばす音が響く。
元々片付いており、私物も少なかった彼女の部屋の物は既に殆どが梱包されている。
バリッとガムテープを千切ると、詩音は視線を母親へ向けた。
「この家の姓を名乗ってるだけで吐気がする。
俺達の名前は早坂じゃない。俺達からパパを奪ったのはあんただ。
俺達を守ってくれるはずだった大人を奪ったのはあんただ!
俺がカノを守らなくて、誰がカノを守るんだよ」
被害妄想かもしれないと思っていた圭子の考えは、何一つ外れていなかった。
何も言い返せず、ただ押し黙る。
「あんたが死ねばよかったとは思ってない。
あんたに死なれたら、パパは浮ばれない。
カノだって……」
詩音はギッと下唇の内側を噛んで、言葉を飲み込んだ。
黙々と梱包作業を進める。
「私は…、あなた達に、普通の兄妹でいて欲しいの…」
母親の勘と言えるほど、母親らしい愛情を持って接していたわけではない。
歌音は確かに自分に対して怯えを見せていたし、詩音は自分を毛嫌いしている。
それでも、何となく妙な感じがするのだ。
双子とはこうまで密接に同調するのものなのかと疑問に思うほど、二人は近い位置にいる。
詩音の献身的な介護も、まるで恋人への態度のように思えてならない。
兄弟のない圭子には兄弟間にある感情自体理解出来ないのだが、歌音がレイプされていたと知った時の詩音の顔は今でも忘れられずにいた。
まるで自分の所有物が奪われたような、蒼白になるまでの冷えた怒り。
人の怒りは熱せられたものである限り大した事は無い。後は怒りが冷えるのを待つだけだからだ。
冷えた怒りというのは、そこから沸々と沸騰していく。大体にして、ゆっくりと時間をかけて沸々と。
圭子は確かに、詩音の表情にそれを感じ取った。
「普通の兄妹って、何」
詩音は低い声で呟き、はっと哂った。
目を合わさないまま。
「普通の、兄妹よ…」
圭子はそう答えるしかなかった。
この一抹の不安がどうか、気のせいであるようにと。
地獄と等しかっただろうこの家から出て行く双子を止める事は出来ない。
静かに扉を閉め、とぼとぼと寝室へ戻る。
どうか全て、気のせいであるように。
世間体や体裁など関係なく、ただ人の道を外れて欲しくない。
双子を愛しているのは事実なのだ。
恐怖の前にそれを素直に表現できないだけで。
自分が広げに広げた溝を、どうしようもできないだけ。
どこからどこまでが、零人の復讐なのだろう。
鍵のついたジュエリーボックスの底、零人の遺言を取り出し、その中にある一枚の紙切れに目をやった。
東京近県の住所と電話番号。
暮野 靖昭
双子の大叔父に当たる男の連絡先を、彼らが十八になった今も渡せないでいる。
きっと零人は解っていた。
自分が双子を一度でも手放す事。
双子が自分を嫌う事。
双子が新たに与えられた環境を拒絶する事。
これを手渡せば、自分の元を離れると解っている双子は、完全に他人になる。
きっともう会う事も無くなるだろう。
憎しみの篭る色の無い微笑を見る事も無くなるだろう。
「ごめんなさい…零人さん…」
謝っても拭えない殺人と同等の過ちは、消えないまま。
全てが自分の手をすり抜けて、何処か遠くへ消えて行く。
手元に苦しみだけを残して。




