詩と歌の音―11―
結局、歌音は馬鹿なのだと思う。
彼女が大切にしているものは多いくせに種類は少ない。
だから、歌音は馬鹿なのだと思った。
父親に貰った写真。
友達や友達の親が撮ってくれた二人の写真。
友達と写っている写真。
三年前に死んだ近所の猫の写真。犬の写真。
動物園の動物の写真。
四年前から内容の増えなくなった厚紙のボックスは、大量の写真で埋まっていた。
ひっそりと隠し撮った、母親の写真も共に。
あの子は、学習能力がないのだ。
手を伸ばしても無駄だという事を学ばない。
要領が悪いせいで試験前は目の下に隈を作るほど勉強をする。
良い点数を取るための努力は褒められたいからだ。
期待をするから余計に傷つくのだと教えても納得したふりをするだけで、あの子はまた期待する。
いつか手を取ってくれる。
いつか振り向いてくれる。
いつか笑いかけてくれる。
いつか、褒めてくれる。
「そんなの、期待するだけ無駄だよ」
そう言って何度も何度も嗜めたのに。
結局、歌音は馬鹿なのだ。
「今まで、ありがと」
三月初旬、詩音は母親を真正面から見つめ、ぽつりと呟いた。
義務であろうと世間体であろうと、彼女が母親として自分達と向き合おうとしていたのは事実だ。
その決意が簡単に折れ、一層淋しい環境を二人に与えただけだとしても。
まだほんの少しだけ肌寒い。ほんの少しだけだけれど。
「もう、あなたの何も脅かさないから」
だから、もう二度とこちらへは来ないで欲しい。
脅かさないで欲しい。
詩音が一番恐れている者。
母親は、きっととても簡単に歌音を奪える。
その笑みを向け、手を伸ばし、少しの声をかけるだけで、歌音の心は歓喜に満ちるだろう。
綺麗に片付いた隣り合う二つの部屋のように、詩音は綺麗に母親の影を心から追い出した。
父親が生きていた頃に幾度か会った事があるという大叔父は、駄目元で持ちかけた養子縁組の話をあっさりと快諾してくれている。
もう母親の何をも脅かさない。一生彼女の前に立つことはないだろうから。
時折、メディアを通して目に触れる事はあるだろうけれど。
詩音はもう二度と、母親に対して何も言わない。責めもしなければ、貶しもしない。
だから、脅かさないで欲しい。
そう言葉にはせず、静かに背を向けた。
ずっと重かった心が、母親の影を捨てた分だけ軽くなったような気がした。
ほんの少しだけれど。
――芸能事務所ゼノ、社長室。
基本的にピンク色の配色で目を甚振るそこで、ジェーンは黙々とモニターを見ていた。
その脇には腕を組んだ長身の男が同様にモニターを見つめている。
「…ほんと、そっくりねぇ……」
スピーカーから流れていた音が止まり、映像も同時に途切れた。
大きな画面には砂嵐だけが残っている。
「これ、あの子達の父親なの?」
「シオンは双子なんだろ?」
「まあねぇ…双子モデルで売り出したから双子だけど」
ふう、と息を吐く。
十年以上も昔、歌音が「パパなの」と写真を見せてくれた時、その男に何となく見覚えはあった。
0―ゼロ―はインディーズバンドでありながら結成数年で動員数を飛躍的に伸ばし、メジャーデビューを心待ちにされていたバンドだ。
彼らのファンは殆どが若年層だったが、それでも動員数を伸ばせたのはボーカルの容姿が大きな理由にあったのだろう。
けれど甘い顔に似合わない歌声、それ以上に強烈な印象を残す荒削りながらも完成されつつある楽曲は、それ以上の理由だったはずだ。
全てを憎んでいるような鋭い目と、歌の中に在る痛切な寂哀が同年代の心を掴んだはずだ。
まさか双子の実父が彼だったとは。
確かにゼロのボーカルはデビュー直前に自殺している。
その時期も恭一郎が明かした双子の父親の自殺時期と全く同じだ。
「彰二、今更こんなもの持ってきてどうしようって言うのよ」
「…別に」
「あんた、ホントに嘘吐くの苦手ねぇ。
どーせ詩音を歌手として引っこ抜きたいんでしょ?」
ニンマリと笑うジェーンの一言に、彰二は無言で顎を引いた。
静かな機械音と共にデッキから吐き出された盤を取る。
「途中で破れちゃった夢を追いたいのは分かるけど、詩音には無理よ」
「何で」
「だってあの子、凄い音痴だもの」
「…嘘だろ?零人の子供なのに……」
彰二は思わず口元を押さえた。
その目は信じられないと言いたげに愕然と丸まっている。
多少大袈裟にも思える反応にジェーンは肩を震わせた。
「本当よ。
芸幅広げさせようと思って試みてさ、吃驚したんだから。あれは酷いわ。
歌音は歌音で人前で歌うのが嫌だからって学校で歌のテストがある日はここで一日中サボッてたような子だし」
「…マジで?」
「マジマジ。だから諦めた方が良いわよ〜」
はあ、と重い溜息を吐く彰二に向かって、ジェーンは大きな口でカカカと笑った。
「まあ…良いや、その話は。
もう一つ商談があるんだ」
「何?別の子に曲書いてくれんの?」
「違う」
「即否定!」
「…カノトが復帰してからで良いんだけど…双子モデルをPVに使いたいんだ」
今度はおどけていたジェーンが顎を引く番だった。
怪訝に眉を寄せながらも、ライターを捜している彰二にマッチを投げ渡す。
「…復帰するかどうかわかんないわよ?」
「その時は曲が蔵入りするだけだ」
「勿体無い。他じゃ駄目なワケ?
あの二人以外にも可愛い子はゴロゴロいるわよ、ウチは」
「駄目だ。アレは、四年前に初めて二人を見て作ったヤツだから」
「って事は、四年前から零人の子供かもしれないって疑ってたのね」
「疑ってはない。確信…かな。
曲が出来たらカノトは休業してたし。あんたにコレ見せんのもこんな遅くなったけど」
ふーむ、と鼻から煙を吐き出し、ジェーンはギッと背凭れに埋まった。
歌音の復帰がこの仕事ならば、彼女の今後はかなり安泰したものになるだろう。
彰二が手がけたバンドは数こそ少ないが全て成功している。
所謂少数精鋭というもので、プロデュースや楽曲提供以外にも、プロモーションビデオまでもが高く評価されているのだ。憎いまでの才能である。
「ま、商談としては悪くないわね」
「栄誉だろ」
「…自分で言わないの。
まあ、歌音が落ち着いたら二人に言ってみるわ。気長に待って。
あの子、ココの病気だから。あんたが敬愛する零人の責任も多分にあるのよ」
トントンと胸を打つジェーンに彰二は目線を落とす。
何か言いたそうに口を開いたが、すぐに顔を上げた。
「……そう。じゃあ、気長に待つよ」
「そうして。進展あったら連絡するわ」
ひらひらと手を振るジェーンは、彰二が退室すると大きく嘆息した。
時計を見ると、正午近い時間だった。
カチカチと進む秒針を暫く見つめながら今日は何故こんなに暇なのだろうと考え、ハッと顔色を青くする。
今日は詩音の引越しを手伝うために、一ヶ月前から無理矢理スケジュールを空けていたのだ。
掛けてある派手な帽子の一つを引っ掴むと、ヒールの音も煩く大慌てで駆けて行った。
――療養所、カウンセリング室。
歌音はほぼ毎日行っているカウンセリングで徐々に錯乱する回数を減らし、今では恭一郎と対等に話すまでになった。
元々良かったのだろう姿勢は凛と背筋を張ったもので、当初は合わせる事のなかった視線もしっかりと合っている。
歌音はやはり強い子だと、恭一郎は嬉しさを滲ませた微笑を浮かべた。
優しい笑顔に、歌音は少し照れくさそうな目をして首を傾げている。
「最近、夢はどう?」
「あんまり覚えてません」
「そっか。良いね。よく眠れてるって事だよ。
じゃあ別の質問。もし詩音と離れる事になったら、歌音はどう思う?」
歌音は考え込むように押し黙り、暫く経ってから顔を上げたが再び眉を寄せて首を傾げる。
「分かりません。
きっと、絶対、凄く嫌だと思うけど…でも、仕方ないのかもって…思うかもしれない」
「どうして仕方ないの?」
「だって…やっぱり、兄妹だし…。変な事って、ちゃんと解ってるし…。
私達が、普通じゃないのは、環境のせいもあったのかもしれない。
だから、詩音はいつか、本当に好きな人を見つけるかもしれないし、そうなったら、私は要らなくなるでしょう…?
そんなの凄く嫌だし、怖いけど、でも、それは仕方ないから…」
まだ当たり前に雪が降っていた二ヶ月前、詩音は有里に会ったと言った。
例えカモフラージュだったとしても詩音と有里が付き合っていたのは事実だし、多分身体の関係もあったのだろう。
それを考えると腹の底がむしゃくしゃして気持ち悪くなり、詩音の口から有里という名前を聞くのも嫌で堪らなかった。そんな事を思う自分が一番嫌だから、嫉妬という感情についてなるべく考えないようにしている。
けれどもしかしたら、またそんな事があるのかもしれない。
カモフラージュとして家庭を持つなどと言われたら、気が狂ってしまいそうだ。
大袈裟な妄想だと解っていても、嫌な未来を想像する度に詩音を信じ切れていないような気がして、それもまた嫌だった。
だって、どうしても二人は兄妹なのだ。それも厄介な事に、双子。
「そう、じゃ、次の質問ね」
サラサラっとカルテに文字を書き込む恭一郎の反応はドライだ。
実の兄のように親しみ深い性格をしているが、余程の事で無い限りサラリとしている反応が多いと知ったのは最近の事。
最近までが余程の事ばかりだったのだと思うと、それも何となく恥ずかしい。
「詩音ってさ、怖い?」
「…怖い?詩音が?」
「うーん…何ていうかな、怖いって思う時ある?
逆らえないわ〜、みたいなオーラ感じる時とか」
「別に…そんな事はないです。詩音は優しいから。
でも…」
眉を寄せたまま答えていた歌音は言葉を濁し、そのまま口を噤んだ。
怖いと思ったのは一線を越えたその時だけだ。それも今思うと詩音に対する恐怖ではなく、単に経験の無い領域へ踏み込む際に生じる恐怖だったのだと思う。
ただ、詩音は時々暗い目をして囁く事があった。
真剣な眼差しで、その目の中には自分しか映っていない。
『俺にはカノだけで、カノには俺だけだよ。
死ぬ時も一緒だから。絶対に、一緒だから。
だって、一緒に生まれたんだもん。分かれたんだよ、その時に生まれたんだよ』
真剣な目でそう囁くのだ。
何時頃からそれが始まったのか、もう思い出せないが。
歌音はそれを素直に聞き入れ、何時もこくんと頷くだけだ。
暗く淀みながら信じて疑わないといった目で、けれどその顔は無表情。歌音だけが知る本当に優しい笑みすら無く、声の調子は機械的だ。
いつだったか、詩音が恭一郎にいった歌音にしか見せない顔。それを見せる時、詩音は呪詛のつもりでそう囁く。信じて言葉にし続けていれば、いつかそれは叶うはずだ。
兄がそんな事を切々と想いながら告げているとは知らない歌音の手には、その時必ず薄っすらと汗が浮かぶ。何が原因かも解らない汗が。
「…でも、うん…やっぱり、怖くはないです」
囁く詩音の顔と声が浮かび上がったが、やはり怖くはなかった。
歌音はそれを素直に聞き入れるだけだからだ。
「ふむ、了解。
んじゃあ、次の質問ね。
今までそれとなくしか聞いてこなかったけど、ちょっと核心に踏み込もうと思うのね。
ご両親の事だけど、大丈夫?」
恭一郎はカルテから顔を上げ、多少気遣う顔色で歌音を見つめる。
歌音は僅かに緊張の色を見せたが、小さく頷いた。
両親から生まれた以上、こんな道を生きてきた以上、避けては通れない。
退院の日取りも五月頃と大まかに決まり、そろそろ込み入った話が始まるだろうとは思っていた。
「辛くなったら言ってね。止めるから」
「大丈夫です。止めなくて良いです」
歌音はしっかりとした目で笑った。
恭一郎は微笑いながら息を吐き、よしよしと歌音の頭を撫でる。
「…解った。じゃあ、始めるよ。
お母さんを恨んでる?」
「恨んでは、ないです」
「じゃあ嫌い?」
「…判らない。でも、ママはきっと私を嫌ってる」
「歌音はママの事、好き?」
「それも、よく判りません。良くしてもらった事、あんまり覚えてないから」
「そっか。じゃあー…、パパは?」
「パパは大好き。凄く、大好きだった」
記憶の中で、母親はよく二人を間違えていた。
『どうしてこんなにそっくりなの…』
始めの頃は面白可笑しそうに。
でもそれは段々疲労の滲んだ声になっていった。
父親だけは詩音と歌音を間違えず、それが子供心に凄く嬉しかった事を覚えている。
二人を間違えた時、母親が絶望に似た目をした事も覚えていた。
幼い頃はそれが自分達に対してのものだと思っていたが、今になると我子を幾度も間違える自身に嫌気を感じていたのかもしれない。
「パパが死んだ時、どう思った?」
「…凄く、悲しかった。今でもパパがいない事は、凄く淋しい。
昔、パパが真っ白いテディーベアをくれて、それにレイちゃんって名前をつけたの。
パパの名前がレイジだっていうのは知ってたから。だから、ママは余計に嫌がったのかな…」
「どうしてさ」
「だって、ママは再婚してたし、昔の夫の名前のついたぬいぐるみなんて、嫌でしょう?
…パパが死ぬ前の日、パパが言ったの。私達は、パパの代わりだよって。ママを二人で守ってねって。
今なら解るの。きっと、パパの復讐だったんだって」
過去を思い出す声はぼんやりとしていたが、歌音の目はしっかりとしていた。
視線は白い机の上に張りついたまま、けれど取り乱す際に見せる虚ろな色はない。
それでも机に置いた手は微かに震えていて、それに気づいた恭一郎はそっと細い手を握ってやった。
縋りつくように、頼りない力で握り返してくる。
「ママは、浮気してたの。その頃パパは仕事が忙しくなって、家を空ける事がくて…。
パパが帰って来ない日は、ママも何時の間にかいなくなってた。起きたら誰もいなくて、机の上に置いてあるお弁当を二人で食べるの。冷たくて、凄く嫌だった。
パパは多分勘の良い人だったと思うから、ママの浮気に大分早くに気づいてたはずだわ。
それに私達、パパにだけ似てる。ママと似てるところ、本当に少ないの。小さい頃は私の方が似てたけど、最近じゃ詩音は本当にパパに似てるの。
今度先生にも写真を見せてあげる」
歌音は顔を上げ、少し悲しげな笑みを見せた。
今にも涙を落としそうに潤んだ目だ。
「止めようか?」と恭一郎が声を掛ける前に、歌音は握った手にもう少し力を入れて口を開いた。
「大好きな人に裏切られたら、どんなに優しい人だって、その人を恨みたくなる。
私、パパの事何も知らないけど、パパが自殺したのは、そんな自分が嫌だったからだと思うの。ママの事を愛してるのに、おんなじくらいの憎しみを持つのは、辛いもの」
「パパの気持ちが解る…?」
「…凄く解る。詩音の気持ちも解るの。
詩音は、カモフラージュだって言って、色んな女の子と付き合ってた。
多分、それは、私がちゃんと感情を見せられないからだと思うの」
予想以上だ。
恭一郎は「びっくらこいた」と言いたいのを内心で抑え、いつになく饒舌な歌音の言葉に耳を傾け続けている。
歌音は予想以上に自身の状態と過去の周囲の状況を捉えていた。彼女が語る父親の内情は、彼の日記が語っていたものと似ている。
「私が一番嫌いな感情は、嫉妬なんです」
「どうして」
「…醜いから。でも、詩音が嫉妬してくれるのは、少し嬉しかった。
詩音は、素直に感情を出せるから、羨ましかった。でも詩音は、私が嫉妬を見せないから、不安だったんだと思う。私が感じた嬉しさを、詩音も感じたかったんだと思う。
想い合ってる間の嫉妬は、愛情を感じられるでしょう?愛されてるって、確信できるでしょう…?
…だから、詩音はそれを感じたかったの。感じて、安心したかったの。
でも、私は怖いから、出来なかった。これからも多分、出来ないと思う。詩音の気持ちは解ってるけど、嫌われたくないから駄目なんです。
本当は、詩音が他の子と仲良くしてるだけで、物凄く苛々するの。
私じゃない誰かとキスをして、セックスもしてるのかと思うと、気持ち悪くなって堪らないの。…だから、パパの気持ちがよく解る」
あらあら、と言いたげな面持ちを紙一重のところで押し込め、妙なくすぐったさを感じる恭一郎は空いた手で口元を押さえた。
歌音自身は自分の気持ちを環境が寄越した異常なものかもしれないと思っているようだが、きちんと普通の恋愛をしているじゃないか。
前にジェーンが言っていた「普通の恋愛をしてきた」という言葉に一層の真実味が増し、変に嬉しくなった。
切っ掛けは確かに環境が寄越した異常な関係かもしれないが、育んでいる愛情はその辺りに転がっている多くの恋愛と何ら違いがない。
「…だから、レイプされて、それが詩音にバレた時、心なんて要らないと思ったの?」
酷い質問だな、と思いながらそっと問う。
手を握る歌音の手が微かに震え、それからぎゅうっと強い力で握られた。
「私の心は、詩音のものなの。詩音の心は、私のものなの。
だから、…された時も、死にたくて堪らなかったけど、大丈夫だって思った。
絶対に詩音以外に触らせないつもりだった身体が、詩音以外に触られても、心は詩音が持ってるから大丈夫だと思ったの。
でも…ああ、そっか……あの時、私、詩音が怖かったんだ…」
胎に芽吹いてしまった命が自分ではない他人のものだと知った詩音は、冷え冷えとした怒りをその目に浮かべていた。
絶望の原因は既に死んでいて居らず、強烈な怒りを吐き出す対象がない。
詩音の手にあった歌音の心は、詩音の手によってピシリと音を立てた。
「詩音は凄く怒ってて、でもそれを態度には出さなかった。
眼だけ、凄く凄く怒ってて、冷たかった。私に向けてる怒りじゃないって、解ってたけど、詩音にそんな怖い怒り方をさせたのは、私だから…。
その頃、私パパが死んだ原因、何となく解ってた。だから、パパもあんな眼をしたのかって思ったら、同じ想いをさせた、自分が…赦せなくて」
カラリと扉が開いた。
歌音と同じに泣き出しそうな目をした詩音が無言で近寄り、驚きに言葉を呑んだ妹を横から抱き締める。
片手の平で彼女の目元を覆い、眉を寄せたまま頭の天辺に頬を寄せた。
「立ち入り禁止の札、出てたはずだけどー?」
「……ちょっと、黙っててよ…」
寄せた頬を引き、額をそこに押し当てた詩音の顔は完全に見えなくなった。
声が涙の色を滲ませて震えている。
全く、いつから立ち聞きしていたのだろう。恭一郎は呆れた笑みで嘆息した。
机上で握り締められていた震える細い手は呆気なくするすると遠ざかり、肩口に回った詩音の右腕をぎゅうと握り締めている。
「じゃ、今日のカウンセリングはお終い。
気が済んだら病室帰るんだよ」
泣き声を漏らし始めた歌音に声をかけそろそろと退室した恭一郎は、出口でハンカチを噛みながら号泣するジェーンを見つけるとビクリと肩を竦める。
「良い話ねぇ」と、自慢のアイメイクをぐちゃぐちゃにして泣きじゃくるジェーンの背をぽんぽんと叩きながら医務室へ歩いて行った。
「…俺、カノを怖がらせてた…?」
「違う、違うよ…違うの…」
死ねば良かったのは父親ではなく母親で、傷つけば良かったのは歌音ではなく自分だ。
歌音は本音を言わない。自分を見せようとはしない。それに苛立ちを感じる事もあるが、だからといって傷つけようと思った事は一度としてなかった。
大事で大切で堪らないのだ。
一緒に生まれてきたのだから、死ぬ時も一緒だと信じて疑わない。
「もう、誰とも付き合わない」
「違う…、そんなんじゃない、違うよ」
「良い、違わない。
カノが、嫉妬とか、そういうの嫌いな事、俺はちゃんと知ってた」
詩音は二人の関係を極一般的で自然なものに見せようと、歌音以外の少女を傷つけてきた。
少女達の傷を詩音がどう思っているかは知らないが、歌音はそれによって詩音が少しでも傷つく事が嫌だった。それは、その少女を想う事になるからだ。
詩音の心を持ち彼の本心を知っている癖にそう思う心の狭い自分が本当に嫌で、こんな苦しい想いを詩音が抱える事が嫌だった。
「私、シノを、傷つけたの…シノは、シノは…っ」
「…俺達に言葉なんて、要らなかったはずなのに…どうして」
いつの間に、言葉がなくては伝わらなくなったんだろう。
手を繋げば、それで良い。言いたい事はそれで伝わって来た。
額を合わせれば、大抵何を考えているのか分かった。
唇を重ねれば、どう想われているのか、痛いほど身に染みた。
別人であり他人である事を確かめる以外に身体を繋げたのは、その全てをより強くするためだ。
摺り寄せた頬の上で涙が混ざり合う。
小さな顔を引き寄せ、神経のない長い髪の毛をくしゃりと掴んだ。
本当は傷つけたとか、傷つけるとか、そんな事はどうでも良い。
離れなければそれで良い。
たとえそれが束縛する事になっても、可能性を踏み潰す事になっても。
詩音はただ、歌音を大切に扱いたいのだ。
これ以上誰にも傷つけられないように、再び自分の手が妹の心を壊さないように。
ただ大切で愛おしく、過保護なまでに守りたいだけ。
歌音は、詩音を傷つけたくないだけだ。
傷を押し隠し見せまいとする兄のボロボロに傷ついた心を、これ以上引き裂かないように。
あの時のような、怖ろしく冷えた眼をさせたくないのだ。
この世の中はそれすら赦してくれない。
言葉を棄てた兄妹は沈黙の中で額を重ねる。
落ち始めた陽が、二人を鮮やかなオレンジと黒に染めていた。




