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詩と歌の音  作者: ノリコ
13/15

詩と歌の音―12―





最近詩音の姿を見ていないな、と恭一郎は唸った。

見舞いに訪れる日数が減ったのは、歌音の病状が安定を見せているからだけではない。

制約のあった仕事量が解禁を迎えた事で急増しているのだ。

ジェーンに命じられた詩音のマネージャーが規模の大小を問わず仕事を請け負うため、四月に入ってからというもの彼の休みは殆ど無い状態にあった。

歌音が退院してしまえば接触の機会は激減するのだから、それまでにもう一度カウンセリングを試みたいと思っていたのだが。


机上に散乱したカルテを片付け、ふと手に触れた封筒を広げる。

数ヶ月前に夕実が和訳してくれた暮野零人の日記だ。

暮野零人は出生に関係するのだろうが、自分の家庭というものに強い憧れを抱いていたようだ。

双子が生まれ、そこから妻の浮気に気づくまでは子煩悩で親馬鹿としか言えない日々を綴っていた。

その一方で、手にした自分だけの幸せが壊れる事を酷く恐れていた。

そしてそれは哀れな事に、あっさりと壊れたのだ。


歌音は言った。

『ママの事を愛してるのに、おんなじくらいの憎しみを持つのは』

と。


暮野零人の日記を読み返す度、彼は本当に双子の母親を愛していたのだろうかという疑問が浮かび上がってくる。

『ママだけなんだ』

そう存在に固執する一方で、

『大嫌いだ』

そんな否定の言葉を使う。

彼は重度の鬱病にかかっていたと同時に、慢性的な人格障害にあったのではないだろうか。

詩音はまるで彼の軌跡を辿るような生き方をしている。



数日前、歌音に「詩音はパパとママをどう思ってると思う?」と聞くと、彼女は、


「パパの事は凄く尊敬して愛してる。

 ママの事は、パパを想うのと同じくらい憎んでる」


と答えた。

その答え通りだろう。

連想ゲームの中のキーワードの一つに「動物」があった。

人間以外の動物ほど母性父性本能の強い生物はない。

詩音は動物を汚いときっぱり言い放った。

それだけ親という存在に期待していないし、在るのは恐らく嫌悪感のみ。

母親と和解しろとは言わない。けれど、あの母子は少しの歩みよりも見せないまま一生を終えるのだろうか。

そう思うと、少しだけ可哀想だった。



「先生」


コンコン、と扉を打つ音が二回。

声は歌音のもので、恭一郎は「はいよー」と気の抜ける声を返しながら扉を開けた。


「詩音、来てますよ」

「んあ?久しぶりだねー。水入らずしないの?」

「だって、先生、詩音と話したいんでしょう?」


扉口に寄りかかる恭一郎はパチパチと目を瞬かせた。

歌音は妙に確信を持った目で見上げるだけだ。


「どして」

「だって、そんな気がしたから。

 詩音、明日はやっとお休みだって。先生と話さない?って言ったら、少しなら良いよって」

「マジで?」

「うん」


こくんと頷く歌音に、恭一郎は「盲点だった…!」と額を押さえた。

初めから歌音に頼んでいれば詩音も素直に従っていたのか。


「部屋にいる?」

「はい」

「じゃ、カウンセリング室で話してるから…悪いね」

「あ、パパの写真も持ってきてもらったの。

 後で見せてあげます」

「そっかー!楽しみにしてるよん」


くしゃくしゃと歌音の頭を撫でた恭一郎は浮き浮きとした足取りで病室へ向かう。

楽しそうな後姿にくすくすと肩を揺らす歌音は、ふと恭一郎の机に目をやった。

B5サイズの紙が机上に散らばっている。

普段なら何も思わずに立ち去るのだが、歌音は引かれるように医務室へ入った。






――カウンセリング室




「いつまで笑ってんすか」

「そう不機嫌になんないでよ〜。

 歌音の頼みでしょー?」

「…で、今日のカウンセリングは何です?

 もう話す事なんて無いと思いますけど」


詩音は不機嫌を露に頬杖をつき、ツンケンとした目で恭一郎を眺めた。

対する恭一郎は上機嫌で、カルテの用意もせずにニコニコとしている。


「カウンセリングっていうかさ、ちょっと話したいだけ。

 君が立ち聞きしてた話、何だったか歌音に聞いた?」


あの日は、歌音が「嫉妬が嫌い」と言っている部分から話を聞いていた。

詩音は溜息を吐くと、頬杖のまま頷く。父親と母親の事について話していたらしい。

歌音は傷ついた様子もなく、「久しぶりにパパの写真を見たい」とまで言った。

急に彼女が大人になったような気がして、妙な焦りが生まれている。

一人でスタスタと歩いて行ってしまいそうな、凛とした空気を纏っていた。


「同じような話、君から聞きたいんだけど…無理そう?」

「…判んねー。あんま、考えないようにしてたから」

「だろうねぇ。俺だったら一生考えたくないと思うし」

「だったら何で無理矢理聞き出そうとすんですか。

 考えたくないから考えないんだし…」

「うん…まあ、君達じゃなかったら別に無理して聞こうとも思わないんだけどね」


妙に引っかかる言い方に詩音はぴくりと眉を寄せ、更に鋭く恭一郎を睨んだ。

彼は既にニコニコとした笑みを引っ込め、神妙な顔つきをしている。


「この先一生、歌音と生きて行くんだろ?」

「そのつもりだけど…」

「君が別の誰かを愛して、歌音が別の誰かを愛してるなら、これはそんなに問題じゃないんだ」

「ふざけてんの?」

「違うって。

 詩音が歌音を守って生きたいなら、まずお前が自分の両親と向き合わなくちゃならない。 母親を憎んでても良い。でも幾ら憎んでも、彼女はお前の母親なんだ。

 歌音はそれをちゃんと理解して、向き合ってるよ。

 一度も見舞いに来なくても、一度も可愛がってくれてなくても」


詩音の眉は益々不機嫌に寄った。

雰囲気がどんよりとした禍々しいものになり、本気で苛立っている事が分かった。

母親と聞くだけで虫唾が走る、とでも言いたげな目をしている。



「歌音が本当は母親を欲してる事、詩音は知ってるんだろう?」


詩音は視線を落とし、脚に置いた右手を握り締めた。

小さい頃から、父親が生きていた頃から、歌音は母親に甘えようと必死だった。

母親が自分達を捨てたのだと理解したのも詩音の方が早く、「ママはどうしたの?」と訊く歌音に「ママももういない」と納得させるのは至難だった。

漸く母親がいない事に慣れ、世界に二人だけだと納得させた頃、彼女は再び二人の前に現れた。

歌音は喜んで駆け寄ったのに。

慄いたような目に気づいた歌音は怯え、結局手を繋げなかった。


「……知ってたよ」


絞り出した声で答える。

父親の名前を取ったテディーベアが捨てられ、詩音も自分の機関車の玩具を捨てた。

愛されたくて堪らなかった歌音はいつしかそれを諦め、「ママ」と呼ぶ事も止めた。

歌音はただ、花菜のように抱き上げられ抱き締めてられ、頭を撫でてもらいたかっただけだ。

自分ではない、父親でもない、母親であるあの人に。


だから、あの人は簡単に歌音を奪える。


「先生、俺の事、汚いと思う?」

「何でさ」

「歌音は…俺が洗脳したんだ」


あの人は簡単に奪えるのだ。

努力もなく、少しの気まぐれで、簡単に。


それが腹の底から怖ろしく、自分しか愛せないように言い聞かせた。

幼い頃は妹を守ろうと必死で、純粋な気持ちだったのだろう。

年齢を重ね恋という感情を覚えてからは、彼女が離れていかないようにと必死だった。

家族から孤立したのはあの家庭にも要因があったが、自分にも原因があったのだ。

信じられるのも頼れるのも自分だけだと、施設に入れられた日からずっと、純粋を汚穢に変えながら囁き続けた。



「俺以外、見えないように。

 小さい頃からずっと、カノには俺だけだって。

 死ぬ時も一緒だから…だって、俺にはカノだけだ…」


真剣な眼だ。

その顔は微笑ってもいないし、残忍な光を滲ませてもいない。

ただ無表情で、機械的な声。

いつか詩音が言った、「裏側」だ。


「初めまして、詩音。

 やっと会えたねぇ…」


僅かに顔を近づける。

灰色の目に映っているのは、彼が会話をしているのは、本当に自分だろうか。


「俺は、汚い…?」

「汚くないよ」

「俺が洗脳しなきゃ、カノは俺を捨ててた」

「捨てないよ」

「俺はカノから全部奪ってきた…。

 母親も、妹も、友達も…」

「怖かったから?」


微かに、詩音の肩が震える。

彼は長い間、見えている敵と未だ見えない敵に怯えている。

殺したいと思うほど、歌音を奪われる事に怯え続けている。


「だって、俺にはカノだけ…。

 カノの世界も俺だけにしないと、俺、オカシクなる。

 カノの事殺すかもしれない。何回かあったんだ…本気でそう思った事」

「でも、しなかったでしょ?

 歌音は自分の意思で詩音を愛してるよ。歌音を疑うの?」

「疑ってない…でも、先生。

 俺は、パパと同じだ。パパは“気に食わなかったから”、あの人を殺したくて堪らなかった。

 殺せなかったから、自分を殺した。でも俺は多分、殺せる。

 殺したくないから…守りたいから、ずっと言い聞かせてるんだ。

 先生、これでも俺は汚くない…?」


結局は自分が可愛いのだ。

失う事を恐れ、失うくらいならと妄想する残酷なそれを恐れ、純粋さを失くしていく心を恐れ、父親のようになる事を恐れている。

傷つけた事はない。わざと傷つけようと思った事すらない。

大切で大切で、人に傷つけられるくらいなら。


判らない。

どれが自分の本心なのか。

歌音を愛している事すら、愛されている事すら、時々本当に判らなくなる。

まるで互いが一人の人間なのかもしれないと思っていた時のように。


でも、歌音は綺麗だ。

こんな自分と似ても似つかないほど、きれいで。

だからまた、判らなくなる。






――街中の公園




病院の緑スリッパでベンチに座る歌音は目立っていた。

恭一郎のデスクにあったのは父親の日記だろうと思われるもので、その内容は日を追うごとに目を逸らしたくなるような憎しみに溢れていた。

憎しみと、哀しみと、自分達への疑いようのない愛情。

白いワンピースがひらひらと春風に揺れている。

頭上では枝を伸ばした桜の花弁が風に吹かれて舞っていた。


どうして病院を飛び出してしまったのだろう。

ただ何となく、いつもとは違う場所で泣きたかった。

パパを想って泣きたかった。

どれ程辛かっただろう。

大好きなパパは、愛を識らなかった。

あの大きな温かい手で、泣きたくなるほどの愛情を教えてくれたのに。

可愛い子供を復讐に使うしかなかった“本当のパパ”は、どれほど、泣きたかっただろう。


「……歌音?」


ふとかかった声に顔を上げる。

涙が滲んだ視界では誰だか判らなかったが、声は知らないものだった。

慌てて涙を拭ったが、知り合い自体が少ない歌音ですら覚えのない男が目の前に立っている。

長身で、サラサラとしていそうな黒髪が風に揺ら揺らと揺れていた。

歳は三十を過ぎたくらいだろうか。いや、判らない。若々しい外見だ。


「病院は?」

「あの、どなた…ですか…?」

「ああ…抜けて来たのか。その様子じゃ」


男は視線を足元に落とし、ぷはぁと煙草の煙を吐き出した。

脇に透明のファイルケースと折りたたみの電子ピアノらしきものを持っている。

さらりと髪が流れ、右耳の赤いピアスがキラリと光った。案外鋭い光に、思わず目を顰める。


「お前、零人の娘だろ?

 俺はアイツの知り合いだ」

「パ、パパを知ってるの?!」

「……嫌になるくらい知ってるよ。

 で、そんなカッコでどうすんだ。病院帰んなきゃなんねーだろ」


ジュ、と水に浸かった煙草が小さな音を立てた。

男はベンチに腰を掛けると脚を組み、シラッとした視線を投げてくる。

淡々とした雰囲気が苦手だ、と思いながら、歌音は僅かに俯いた。


「帰り道……判らないんです」

「…はあ?」

「わ、私…方向音痴で……それも、慌てて出てきたから靴も履いてなくて…」


もじもじと膝の上で指を絡ませる歌音はボソボソと現状を告白し、情けなさに肩を落とした。

邪魔が入ってしまったから泣くにも泣けない。

しかもそのお邪魔虫は父親の知り合いらしい。

暫く経ってから「くっ」という笑い声が聞こえ、歌音はそろそろと顔を上げた。

ジェーンと同じ年齢不詳の匂いのする男は口元を押さえて肩を震わせている。


「やっぱお前、あの人の子供だな。

 後先考えねぇとこも方向音痴もそっくりだ」

「あ…はあ、…ごめんなさい」

「で、帰りたいのか帰りたくねーのか、どっちだ」

「あ、う、帰、帰りたいです…できれば、大事になる前に…」

「もうなってんじゃねーの…。ま、良いや。

 病院、何てとこだ」

「ゆ、悠久の森っていう、療養施設なんですけど…」

「あー…?電話帳ねぇや…ボックスなくなんのも考えもんだな…。

 山梨さんに電話すっか…」


ボソボソと申し訳なさそうに畏縮する歌音は、男がブツブツと呟く度に肩を落とした。

零人にそっくりだと言われた事は物凄く嬉しかったが、病院を出て既に一時間以上経っている。彼の言った通り、後の事を考えもせずに飛び出したから、長閑な病院は今頃大騒ぎになっているかもしれない。

ボソボソと低いトーンで話す男の携帯から「はあーーっ?!」というジェーンの野太い叫び声が聞こえ、歌音はびくりと跳ね上がる。

男は眉を顰め、腕を伸ばして携帯を耳から数秒離すと、「送りますから、病院の場所教えて」と元のトーンで会話を再開した。



「行くぞ」

「え?あ、はい」


笑っていた時は柔和な雰囲気が見えて少し安堵したが。

男はクールな態度で出発を促すと、少し離れた駐車場へ足を進めた。



「あの…、お名前…」


会話のない車内の空気は重い。

音楽があればまだ気が楽だったかもしれないが。


「あ?ああ…言ってなかったか。

 柏井だ。柏井彰二」

「柏井さん…、ご迷惑をおかけして、すみません」

「別に。あの公園は煮詰まった時に行くんだ」

「煮詰まる?」

「仕事。あの公園、人少ないだろ。でも周りの音は適当に聞こえてくる。

 作曲する時の雰囲気に合ってんだ。俺のな」

「作曲……うわあ、歌手の人ですか?」


どこが心の病気なんだ、と思いながら窓を開けて煙を追い払う。

ワンピースパジャマという場違いな恰好の野郎がベストプレイスに居座っている、と近づいた彰二は、ホロホロと泣いていた歌音の顔を三度確認している。

何度確認しても、それは古い友人であり仲間であり尊敬していた男の面影を残していた。

こうして話す分にはどこにも異常など感じられない。


「俺は歌手じゃない。今はただの作曲家。

 昔歌ってたのはお前の親父だ」

「パ…パパ…?」

「聴くか?お嬢さんが聴くような曲じゃなくて、ウルセーだけだけどな」


こくこくと頷いた歌音は、スピーカーを割るのではないかという音量にビクッと竦みあがった。

彰二は別段慌てた様子も見せず、「あ…音上げたまんまだった…」と呟きながらのろのろと音量を下げる。

悲鳴のようなギターとそんなに叩くと割れるのではないかと思ってしまうほどの激しいドラムの音に紛れて一番初めに聞こえてきたのは叫び声だ。

髪を振り乱し、姿勢を低くして出しているような気がした。


「パパの声…」


もう忘れてしまったと思っていた父親の声だ。

たった二年しか聞いていなかった声なのに、確かに彼の声だと確信できる。

詩音の声に似ていた。もう少し歳を取れば、詩音も同じ声になるのだろう。


「パパだぁ…!」


中学レベルのヒアリング力しかないために、捲くし立てる英詩は部分部分を聞き取るしか出来ない。

はっきりとその意味は分からなかったが、父親の声がこの世に残っている事が単純に嬉しかった。

日本語詩の部分では感動も更に大きくなる。

詩音にも聞かせてあげたい。


「そんなに気に入ったんなら、やろうか?」

「え!?良いんですか?!」

「それ、焼いたヤツだし。バカみてーに売れたんだ、そのCD。

 ボーカル死んで、遺作になっちまったからな。まだレンタルしてんじゃねぇの」

「あ……そっか…、ちゃんとデビューする前に死んじゃったんだった」

「お前、知ってたのか?」

「さっきまで、忘れてたんですけど…パパの日記見ちゃったから、大体の事は知ってます。

 あ、ショーちゃんって、柏井さんの事なんですね。

 ゆっくり読んでないからあんまり覚えてないけど、パパ、私達以外にもごめんって書いてたんです。その中に、ショーちゃんってありました」


パラパラと目を通したそれに、「ごめん」という文字は沢山散らばっていた。

母親への謝罪は、悲しい事に一つもなかった。

「大嫌いだ」という憎しみの滲んだ言葉は幾つもあったけれど。


「…謝るぐらいなら死ぬんじゃねぇよ」

「あの…パパの事、怒ってますか…?」

「あ?何で」

「だって、バンドがこれからっていう時に死んじゃったんでしょう…?」


おずおずとした歌音の問いに、彰二は暫く口を閉ざし、ふと微笑った。

優しい笑顔だ。

歌音は瞬き、恐る恐る答えを待つ。


「怒っちゃいない。

 あの人は生きてた時から俺ん中じゃ神様みたいなもんなんだ。

 まあ、人の親に言う言葉じゃねぇけど…生きながら死んでるみたいな人だったからな」


微笑のまま告げられた答えにほっと息を吐く。

それから病院に着くまで会話は無かったが気にもならず、歌音は煩い音楽の中で生きる父親の声を聞いていた。






歌音は帰院して早々、目を丸くした。


まず、ジェーンが一発彰二に拳をお見舞いし、彰二はその後二発お返しを贈った。

どうやらジェーンは彰二が歌音を浚ったと勘違いしていたらしい。

おいおいと泣きながら無事を喜ぶ彼の抱擁を、歌音は照れくさそうに瞬きながら受けた。

そして再び彰二に向けて喚き始めたジェーンを放って院内に戻る。

出迎え衆の中に詩音と恭一郎の姿がなく、何となく変な感じがした。


ぱたぱたと小走りになりながら通り過ぎる部屋の一つに、恭一郎の姿を見つけて足を止める。

彼は可哀想なくらいにボロボロになっていた。

小言を漏らしながらも手当てをしてやっている紗江子に話を聞くと、零人の日記を出しっ放しにしておいた事が夕実にバレ、それを歌音が見てしまったと推理した彼女が暴れたらしい。

おっとり推理は見事に的中しており、とばっちりを食らわせてしまった事を詫びてから詩音を探して院内を駆ける。

もしかすると未だ自分を探しているのかもしれない。

そう思って踵を返し、玄関へ向かう。



「カノ!」


ああ、何というか、不謹慎だ。


詩音は器用で要領も良いから、大した努力をしなくても簡単に何かを得られる。

目に見えるものも、目には見えない感情も。

だから、彼は余り焦らない。

放っておいても自分の手に入る事を識っているからだ。

必死になるのはいつも、歌音が絡んだ時だけ。


不謹慎だ。

そう思いながら、抑え切れない笑みを浮かべて両腕を開く。

息を切らす詩音は誰も目に入らないまま、腕に飛び込んだ歌音を抱き締めた。

汗が止まらない。腕が少し震えている。

抱き締めた腕で歌音の無事を実感すると、がくっと膝が折れた。


「シ、シノ?!」


ざらついた石の上に膝をつく詩音につられて姿勢を低くした歌音は、額に強烈な頭突きを喰らった。


「っ、バ、バカ!!!」

「ごっ、ごめ…!」


耳元で叫ばれ、くらりとした眩暈を感じながら手を合わせる。


「無事で、良かった…」

「ごめんね、ごめんね…」


どうしても、不謹慎だ。

心配させた事を痛切に感じ取った心が涙を流すのに、こんなにも心配される事が嬉しくて堪らない。


「…一人にしないでよ」


耳朶に触れるほんの少しだけ震える声が、歌音の心を強く揺さぶる。

こんなに好きなのに、仲の良い兄妹にしか見られず、けれどそうしていないと生きてはいけない。


ごめんね、と囁き返す歌音は未だ気づいていない。

詩音の言葉を冗談に受け取るつもりはなかったとしても、重いものだとは思わずに。

少女らしい浮かれた心は、微かに震える兄の腕には気づかないまま。





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