詩と歌の音―13―
「僕」と「俺」
どうしても溶け合えない、二つの人格。
人の中には善と悪が必然的に在って、成長と共にそれを巧く平衡させて生く。
誰もが当然とそれを為す中で、自分だけがそれを為せない。
平然と悪事を為す大人の中に在って、たった一つ差し伸べられた手。
それを掴み取り、捉え続けていくには「俺」を消す必要があった。
だから「僕」は「俺」を扉の奥に仕舞いこんだのに。
あいつは、柔らかな暗闇の奥からじっと見つめている。
何をするでもなく。ただ、じっと。薄い嘲笑を浮かべながら。
暮野零人。
彼に関わる人は皆一様に彼を賛美する。
高潔な顔立ち、すらりとした体躯、柔らかな物腰に高い知能と体能。
生まれ持ち身につけたそれを鼻にかける素振りも無く、正に完璧な人間。
賛美の中に在りながら、彼は一人微笑う。
当たり前だ。あの人達の手を離したくない。完璧であればあるほど、信頼はついてくる。
「お前、そんなんだから捨てられんだよ」
どうしても忘れられないその言葉を思い出す度、彼は完璧を纏う努力をした。
優しい父と母。血の繋がりのない二人。
国の目が届かず、情勢の定まらない田舎の孤児院は、犯罪に塗れていた。
そこから救い出してくれたたった一つの手。
彼の手を取った瞬間から、捨てられないための努力は始まった。
幸い頭はすこぶるよく出来ていたから、異国の言葉もすんなりと覚え、自分のものにした。
まるで生まれも育ちも日本だというように、小学校の入学にあっさりと間に合った。
テストで満点を取る。当然父母は喜んでくれた。
その時の喜びは、快感に似ていた。
休みの日は家族揃って少しの遠出。母の手作りのお弁当に、父が回すビデオカメラ。
充実した日々。愛を得るために努力し、それが報われていく達成感。
ひっそりと、「僕」を見る「俺」
知らないふり。気づかないふり。
多分、歯車は、ずっと昔に狂っていたのだ。
きっと、生まれてしまったその瞬間から。
不要だから、捨てられたのだ。
娼婦街の真ん中にある孤児院に、要らない子は沢山いたから。
「レイ」
パンッと手の鳴る音が響き、零人ははっと顔を上げた。
白黒ストライプの大布がひらひらと揺れている。
「けーちゃん」
「イッてた、目」
「考え事してたから」
「考えんな。お前バカなんだから」
ふー、と吹かれた息に乗る煙が行過ぎた。
『一緒に行こう』
善悪もない汚い場所から、あの人は連れ出してくれた。
大好きなお父さん。
『あなたは今日からレージよ』
少し太った腕と胸の抱擁。栄養失調で干乾びた身体がふわりと包まれたあの瞬間。
陽だまりのようなお母さん。
「お前が心配だ。レイ」
「大丈夫」
「心配だ」
くしゃりと髪を掴むように頭を撫でる手。
この世でただ二人だけ、零人の異常を識る人間の一人。
敬輔が零人と知り合ったのは、零人が中学生の頃。
その頃から、零人は完璧に出来上がった人間の顔をしていた。
柔和そうな、それでいて中身の無い笑顔。張り付いた鉄仮面と同じだ。色がない。
それでも、遺影の中で笑う初老の夫婦の前でだけは、微かな色が見えていたのに。
「レイ」
「大丈夫だよ、けーちゃん。
僕、そんなに子供じゃない」
「お前がそうやって微笑うと、俺はどうしていいか判らなくなる」
否定ではない微笑。かといって、肯定でもない。
ただ、ここから先へは踏み入るなという、柔らかな拒絶。
零人の背後に揺れる薄暗い影を見つけた人間は、敬輔が一番初めだった。友人とどことなく似ている雰囲気が在ったからだ。
時々錯覚しそうになる。誰も彼を救えないのではないかと。
零人は望んでいないのだ。救われる事など、ほんの少しも。
だけど。
「大学、どうすんだ」
「…踏ん切りがついたよ。
あの話、ちゃんと受ける。だから、行かない」
「あいつ等は、大喜びするだろうな」
寄り添う棺の前で静かに目を伏せる男と、泣き喚く男、涙を堪える少年が一人。
ちらりとそちらに視線を流し、零人は苦笑した。
「…胸がね、スカスカなんだ。
お父さんとお母さん、ほんとに大事だったから。
歌う事に逃げてるだけかもしれない。それでも、敬ちゃんは許してくれる?」
そこに山が在るから登るのだ。
割と高い確率で見聞きする有名な言葉。
零人にそれは当てはまらない。彼はただ、そこに才能があったから歌うのだ。
歌う事自体にこれといった熱意も感情もなく、ただ本能的に才能を使う。
じっと窺うように見つめるグリーンアイは、敬輔が否と言う理由がない事を知っている。
仮メンバーとして時々ライブハウスに立つだけのヴォーカルは、客の入りを左右するのだ。
不可思議な声と、容姿と、本能の歌様に、客は惹かれていく。
「レイの気がそれで紛れるなら」
ただのミーハーと言っていいほど、暮野邸には音楽が溢れていた。
クラシックからジャズ、ロックにポップス、演歌に歌謡、果てはヘビメタまである始末。
週に一度は家族と周辺の仲間を巻き込んでのカラオケ大会。
当時高校三年だった敬輔は親に誘われ参加し、その場で零人の歌声に惚れた。
声変わりを済ませてもその魅力は健在で、彼が高二の頃バンドに誘った。
自慢の息子がステージに立つと知った時の暮野夫妻の興奮といったら。
恐らく彼らは完璧でありすぎる零人に少しの悲しみを抱いていて、彼が本当に熱中できるものを探していたのだろう。
確かに、音楽は零人にとって良い意味での逃避に成った。
今も、昔も。
「けーちゃん、子供が出来た」
「…んあ?」
「ほら、実南っちの友達の子が一回楽屋来たでしょ」
そういえば、二ヶ月だか三ヶ月だか前に一度だけ。
場に似合わない女だな、その程度の薄い印象しか持たなかった少女か?
記憶を手繰り寄せながら首を捻る敬輔の横で、零人は肩を震わせた。
むっとした目で零人を見る。
「喰ったのか?」
「今までのタイプと違ってたから、つい」
「……実南のダチっつったら、大抵お嬢だろ。
やめとけ。堕ろさせたがマシだ」
「ヤだ」
「どうせ長続きしない」
「そうかもね。それにあの子、僕の嫌いなタイプだし」
「じゃあ何で意味深な報告?」
微笑う。
肯定でもない否定でもない。
「捨てられないんだ。勿体無くて。
圭子ちゃんも、子供も、勿体無くて」
「後悔するぞ」
「長続きしないから?」
「犬猫拾うのとは違うんだ。でかくなりゃあ人格が出来る。
人間養うってのは、面倒だ」
「正論だね」
敬輔はいつも正しい事を言う。
それは零人を束縛するし、解放もする。
今回もきっと、敬輔の言う通りにすれば後々は楽だ。
救いを求めていないくせに、零人はどこかで期待している。
いつか、二つの自分が融合する事。誰かがその切っ掛けを与えてくれる事。
良い機会だと思った。
甘える事を決意する前に断絶されてしまった、父母が生きていた頃の、彼らが作っていたあの暖かい世界にもう一度触れられれば。
他の誰でもない、自分の子供を使って。
「零人さん!結婚するってホントですか?!」
「うん、ほんとほんとー。来年には子供も生まれるよん」
「何っだよ!!俺越されたじゃん!」
「涼太は新婚ホヤホヤだからねぇ。
でもまぁ、敬輔がよく許したね」
「けーちゃんは結局、僕に甘いから」
ショックを顔面全体で表現するバンド最年少ギタリストの彰二、ベーシストの彩、ドラムの涼太は、突然の入籍報告に各々の反応を見せた。
特に、零人を敬愛する彰二は顔を青くさせてブツブツと不平を漏らしている。
「しょーちゃんは僕が結婚するの反対?」
「女は男を腑抜けにさせます!」
真剣な顔の表情は怖ろしげなもの。
ピチピチの十六歳男子の発言とは思えないそれに三人は瞬き、唐突に吹き出した。
「お前武士かよ!武士か!!よう野武士!」
「ちょっ、やめて下さいよ!涼さん!」
「やだねぇ、ショーは純情なんだか老けてんだか。
心配しなくてもレイは腑抜けないよ。女じゃ。ねぇ?レイ」
敬輔の他に、零人の本質を見抜いているのは彩だけだ。
意味深な笑みと問いを、零人は笑って流す。
彼の言う通り、腑抜けはしないだろう。
敬輔も彩も、そんな事は欠片も心配していない。
もっと先の、奥の、深い、別のものを。
愛らしい二つの命を抱いた瞬間、流れた涙は贋物ではないはずなのに。
「双子ちゃん元気?」
「元気だよ。パパって言えるようになった」
「…どうしてそんなに浮かない顔?」
「さーちゃん、人間の情って怖いね」
妻として母親として、そんなものを圭子に望んではいない。
過程がどうであれ、彼女は自分にとって大切な家族を産み落としてくれた大切な人だ。
それを想うと、愛おしくて堪らなくなる。
あの頃は、そんな感情を持つなんて思ってもいなかったのに。
圭子はただ、自分勝手に求める温暖を与えてくれる道具に過ぎなかったはずだった。
「辛いの?」
「…圭子はね、多分、僕を捨てるよ。
でも、それは辛くない。けーちゃんも長続きしないって言ったし、僕もそう思ってたから」
「じゃあ、何が辛いの?」
「……判らない。何が辛いんだろう。
だって圭子は僕を好きだけど、愛してはいない。
でも自分が腹痛めて産んだ子だから、双子の事は愛そうとしてる。
…圭子がね、時々、怯えた目で僕を見るんだ」
まるで、「俺」を知っているかのような目で。
敬輔と彩は、「俺」を見抜いた上で、無視をした。
「俺」が引き摺り出されたくない事を知っていたし、プラスになるはずもない事を解っていたから。
だけど、何も知らない圭子は、零人を見ているようで見ていない。
完璧に作り上げた「僕」を通り越し、卑怯で凶暴な「俺」を見ている。
「圭子、婚約者がいたんだよ。最近、その男と会ってるみたいだ」
「気に食わないの」
「だから、情って、怖いね。
別れてって言われたら、僕はあっさり別れるんだろうけど。
俺、を見抜かれ始めて、僕を無視して、俺は時々圭子をどうにかしてやりたくなるよ」
零人は敬輔の前で「俺」を出さない。
敬輔も彩も同じくらい好きだけれど、同類の匂いを持つ彩は敬輔とはまた違う安堵感を得られる。
彩は穏やかに微笑い、零人の肩を抱いて軽く叩いた。
「怖いんだね」
「うん…怖い。
俺が前へ前へ、来てる。
圭子を傷つける事も怖い。双子を、俺のせいで失う事も怖い。
愛してるんだ。あの子達、二人は、俺も僕も愛してくれるから」
「レイはもっと我侭になればいいよ」
「もう、良いんだ。シノとカノが生きてれば、もう良いんだよ」
可愛くて可愛くて堪らない双子。
掛け値なしの愛情を与えてくれる、たった二つの存在。
でももうきっと手遅れだ。
零人はぼんやりとそんな事を考えるようになった。
零人は簡単に諦める事がどんなに楽かを知りすぎている。
きっと、この手で不幸にしてしまう。誰にも渡したくなくて、見せたくなくて。
可愛い可愛い自分の分身達。
愛して愛して止まない、二つの命。
辛うじて正常を保っていた琴線が切れたのは、双子が二つに成って数日後の朝。
予定よりも早く打ち合わせが終わり、それでも家に帰りついたのは早朝だった。
一組の布団で丸まって眠る幼子の隣に、彼らの母親がいるはずだった。
零人は、知らなかったのだ。圭子が他の男に気を揺るがせている事は知っていても。
食卓も兼用した小さなテーブルにあるのは冷えた一つの弁当。
「パパ!」
物音に起き出した双子は嬉しそうな声を上げ、頼りない足取りで駆け寄って来た。
抱き上げて、抱き締める。
「…ママは」
「いないよ」
「いないの」
「パパがいない日は、いつもこう?」
「うん」
「そうなの」
知らなかった。
浮気でも不倫でも、彼女が子供を愛そうとしてさえいればそれで良かった。
妻として母親として、そんな事は望んでいなかったはずなのに。
ゆらりと怒りが揺れた。何に対しての怒りかも判らない。
「シノ、カノ、お出かけしよう」
愕然とした表情を即座に隠し、零人は微笑った。
双子は突然の申し出に歓喜の悲鳴を上げ、大慌てで箪笥へと駆けて行く。
弁当を無造作にゴミ箱へ捨て、淡々と冷えた眼でペンを走らせた。
死のうと思うのは簡単な事だ。
それを実行する事も、零人には簡単だった。
圭子への情と、双子への強い愛情と、二つに分かれた人格と。
元々長く生きる自信がなかったのだ。
双子を愛しく思えば思うほどに、柔らかな闇の中で嘲笑っている「俺」は着実に前進する。
その恐怖は、零人にしか解らない。
「俺」が鎮座している闇が、どんなに心地いい場所か、零人は識っている。
だからこそ、恐怖は肥大していくのだ。
『後悔するぞ』
彩はそう言わなかったけれど、きっと敬輔と同じ危惧を持っていただろう。
溜まった闇と膿が、予想以上に深刻で深いものだと知っていたから。
「けーちゃんとさーちゃんには、ちゃんと言わなくちゃって」
遊びつかれていた歌音はファミレスでの夕食を終え、零人の腕で眠っている。詩音も腕に寄りかかり、うつらうつらと船を漕いでいた。
呼び出された理由は、零人の一言で何となく判った。
「逃げるの」
「ごめんね」
「だから、後悔するって言ったんだ。
俺は許さねぇぞ。そいつらどうなるんだ」
「無責任だよね。この子達には僕しかいないのに」
「解ってんなら!!」
「ケイ」
「彩!レイは死ぬつもりなんだぞ!!」
「…ごめんね」
生まれたばかりの双子を抱いた時、温かさと重みに涙が溢れた。
あれは純粋な感動のもので、それは贋物ではなかったはずなのに。
双子が成長する度にどんどんと溢れる執着と独占欲。
長続きしないと判った上での結婚なのに、何故か溢れていく「裏切られた」という感情。
「もう、駄目なんだ。
判るんだ、自分で。判るんだよ。
お父さんとお母さんが死んだ時、胸がスカスカになった。
シノとカノがそこを満たしてくれる度に、俺の異常さが膨れ上がるんだ。
それを誇示したくなってる。このままだと、俺は、圭子もこの子達も殺して、満足して、」
怖い。
無理矢理押し隠した「俺」の長年の鬱憤はもう抑えられない。
圭子の行動の全てを識った今、そうしてしまう自分が簡単に想像できた。
それはただの小さな切っ掛け。
殺して、誰の目にも届かない場所に隠して、生活をしているつもりで生きるのだろう。
心から笑い、話しかけ、おやすみとおはようのキスをする。
幸福に浸れる。養父母の与えてくれた環境をコピーした、けれど時を止めた生活を。
満たしては乾き、乾いては妄想で満たし。
「これ以上壊れたくない、壊したくない。
僕は思うんだ。それなら、この子達には綺麗な記憶のままの僕で、圭子にはささやかな復讐を。
許せないんだよ。俺も圭子も、どうしてもシノとカノを不幸にする。
僕がいれば良かったのにって、そんな記憶と渇望を与えて、逃げたいんだ。
怖いから。俺は、醜いから。最初から、捨てておけば、楽だったけど」
圭子に捨てられるのは辛くない。
なのにどうしてこんなにも苛立つのか。
辛いのは、双子に見限られる事。
今は自我らしい自我も薄い年頃で、けれど彼らは確実に成長する。
二人が自分の意思で行動し始めた時、ただでさえ此方に近づいている「俺」は迷いもなく二人を永遠のものにするだろう。
『お前、そんなんだから捨てられんだよ』
あれはもう記憶も殆ど残っていない、母国での一言。
細くて小さく、鈍間で臆病。
犯罪組織と殆ど変わらない孤児院の中で、使えない子供はお荷物だった。
当然食事も真っ当なものは与えられない。
光と共に差し出された手に縋り、その光の中で安穏と過したいがために自我の一つを封印した。
これはそのツケ。ニヤケて「僕」を軽蔑している本当の自分の自分への周囲を巻き込んだ復讐。
「ケイ、ケイには理解できないかもしれないね。
レイは、レイの苦しみは、レイにしか解らない。
止められるなら止めたいけど、それをしない俺もまた逃げた事になるんだろうね」
「…どうして、お前はそんなに冷静なんだ」
「…冷静だと思う?レイは、俺の仲間だよ。
ケイの愛情は護ろうとするもので、俺の愛情は認めようとする事。
質の違いで、俺は今、冷静じゃない」
子供が生まれた半年後から、零人は死後の準備をしていたと言った。
実の親に捨てられたという事実は、感情になって残らなくても、零人の中に確かな疵を残した。
愛されたいと望みながら完璧でないと愛されないと思い込み、遠慮の中で育てた愛情は不完全なまま成長を止めた。
歪んだまま、救いの手を望んでいないのに、無意識の内に自覚し、己の中の欲望に気づいて愕然とする。
零人は宣言通り、翌日自ら命を絶った。
遺書は無い。
デビューを目前にしたバンドのヴォーカルの自殺は時代を少しだけ彩り、やがて風化する。
全てを呪っているような歌詞は、全て自分自身への鬱憤。
「俺」の微かな自己主張。
零人は圭子を愛していたのだ。
父母と友人への親愛しか識らなかったから、自ら複雑にして明らかにしない内に閉じ込めた。
可哀想に。裏切られる事を怖れて悲しい先手を打つしかなかった。
愛して止まない己の化身とも言える双児に、柔らかで悲しい記憶を刻みつけ。
彼らは零人の死後程なくどこかの施設へ入れられたと風の噂で聞き、消息を探しても見つからなかった。
そうして十六年の時が流れ、彩はふらりと悠久の森を訪れた。
彰二から、「直接双子に会った」という連絡を受けたからだ。
敬輔と涼太は突然の事に戸惑い、会う事を拒んでいる。
「レ……詩音、何て顔してるの」
第一診察室と書かれた部屋の前、座り心地の良さそうなソファー。
零人が生き返ったかと思うほど瓜二つの少年は、焦燥を眼に宿し、呆然と座っていた。




