詩と歌の音―14―
判っていたんだ。
識っていた。
父親の駄目な部分は、全て自分が継いでいる事。
自分達を護る大人がいなくなった事を理解してから、考える事は常に「どう巧く生きるか」
それだけ。それだけが頭を占めている。
妹の手を引いて、彼女を護って、それは自分の義務でもあり使命でもあり、生き甲斐だから。
そこだけ聞けば親のいない兄妹の美談だけれど。
グネグネに歪んだその感情は、綻んだ隙間から色々な貌を生み出しただけだ。
だって、歌音には自分しかいない。
二人で産み落とされたこの世界は穢くて、冷たい。
歌音を護れる者は、自分以外にいない。
妹を護るためには幾つもの貌が必要だった。
『だから、僕を産んだんでしょう?
君達は』
瞼を開け、布団を剥いだのはほぼ同時。
上半身を起こして初めて起床を自覚した。
嫌な夢を見たような気がする。
胸焼けが酷い。こめかみの辺りがビリビリと痺れている。
誰かが、俺に話しかけた。
誰なのかは判らない。眠った気がしない。
頭が痛い。気持ちが悪い。
そういえば、昨日歌音がふらりといなくなり、捜しに出てからどうやって家に帰ったのかもあやふやだ。
あやふやと言うよりは、覚えていない。
「…何だ、コレ」
恭一郎と内容の濃い話をしていた事は覚えている。
言いたくなかった言葉を、彼に吐露した。
酷く不安になった。
酒を飲んでいたわけではないし、酔い潰れられるほど弱いわけでもない。
まるで、自分ではない誰かが自分を内から操作しているような。
不安だ。こんな事は初めてだ。
心の奥底に住まう彼らは、自分が操作しているはずなのに。
そうだ、そもそも、彼らは自ら好んで表に出ようとはしない。
表の世界がどれだけ苦しいかを識っているから。
だから詩音は、その失陥を大したものと受け止めていなかった。
出てくるなと強く制していたし、彼らはそれに従順だった。
正常な、極普通の、人間で。
だから今まで、平気でいられたのに。
こんな不安。
――悠久の森、療養棟。
「…どしたの?歌音の部屋忘れた?」
ノックも無しに扉を開けたのは、双子の片割れ。
普段なら寄り付きもしない診察室の扉を開けた詩音は、扉口に寄りかかって少し俯いている。
冗談に答えない詩音を不審に思い眉を顰めて近づくと、彼は酷く陰気な顔色をしていた。
「どうしたのさ」
「先生…、俺、昨日、どうやって帰った…?」
ベロンベロンに酔った同僚からよく聞く言葉。
恭一郎は少し笑い、けれど彼の様子に顔を引き締める。
「どうって、歌音見つかったっていうか帰って来たから、普通に帰ったよ」
「普通…普通に…?」
「うん…そだけど…」
「それ、本当に、俺だった…?」
白衣の胸元をくしゃりと掴み、搾り出した声で問う。
掠れた声の言葉が流れる度にゆっくりと持ち上がる顔の色が。
「し、詩音、どうした?」
「記憶が無い!
いなくなったって聞いて、捜しに行って、帰って来たなんて知らない!!」
「しの」
「先生、俺は普通だろ?!普通にしてきただろ!
異常しい事バレないように、努力してきたのに!!」
「…っ、詩音!コレ見て!」
ダンッと壁に背を打ち付けられ、恭一郎は咄嗟にライターを擦った。
恐怖の真髄を見たように蒼白とした顔が一瞬怯み、弾かれたように後退する。
愕然としていた眼は、ゆらゆらと揺れる炎を力なく凝視した。
「見て。ずーっと見て。
はい見てー…そうそう、じゃあ、次はゆっくり目を閉じてー…」
呟きながら、空いた手で詩音の瞼にそっと手を翳した。
手の平に触れる睫毛の感触で閉眼した事を認め、翳した時と同様に手を退ける。
気を失った詩音はがくりと膝を崩し、恭一郎は「よっこらしょ」っと椅子に掛けさせた。
力の抜けた身体は意思を持っているように、不自然にしっかりと座っている。
「どっち?」
問いかけた。
取り乱していた本来の詩音は眠っている。
ふふ、と小さな笑い声が漏れた。声と同時に両肩が微かに揺れている。
「僕です」
詩音は擡げていた頭をゆっくりと上げ、にこりと穏やかに笑みながら答えた。
「誰?」
「詩音ですよ。知ってるでしょう?」
「俺の知ってる詩音は僕なんて可愛らしい言葉は使わないよ」
「先生の知らないところじゃ使ってますよ」
「そうでしょうね。君達は本性を隠したがるから。
でも、君達の基本的な本性はさっきの詩音でしょ?」
この子は一体、何人心の中に住まわせているのだろう。
明確な意思と行動権を持っているのは、今出てきている“彼”だけかもしれない。
「基本的なものは、ね。でも、僕は違いますよ。彼に従事していない。
他のは、僕や彼とは違って、ふわふわ漂ってるただの意思に過ぎないから」
「こうやって応えてくれたって事は、俺を信用してくれたって事?」
詩音はまた小さく笑った。
殆どと息だけの微かな笑い声。
「僕も詩音も、誰も信用してない。
歌音の事だって、本当は信用してない」
「どうしてさ」
「その理由を言って、あなたは信じる?」
「職業柄、信じるんじゃないのかな」
「先生って、お気楽ですよね。向いてないんじゃないですか、この仕事」
「…知ってるヨ」
穏やかで穏やかなだけの笑顔。
恭一郎は妙な突っ掛かりを胸に覚え、ふと眉を寄せた。
自分は、彼を知っているのではないか。
彼とは、幾度か会っているような。
冷静さを装う恭一郎は、詩音の強烈なキャラクターを再意識した。
精神科にいた頃から、様々な症状の人間を見てきたけれど、ここまで強烈な印象を与える人間は珍しい。
「昨日、あなたに告白した人格。アレは、僕が「行け」と言ったんです。
あれは子供の時の詩音。今の詩音のコアになってる、独占欲だけの子供。
一度目のカウンセリングで出てきた好戦的な詩音は、それが少しだけ成長した人格。
精神的な安堵と快楽を求める人格と、肉体的な安堵と快楽を覚えた後の人格ですよ」
「じゃあ、君は?」
「僕…?僕はね」
また微笑う。
豊かな笑みだ。
見ていて安堵するものとは掛け離れた、恐怖すら覚えるそれ。
でもやはり知っている。
「僕を創ったのは、歌音。産んだのは詩音。歌音に嫌われたくないから、僕を生んだ。
人間って、誰でも小さい人格を幾つも持っているでしょう?そんなもんでしょ?
それは所謂処世術と同じもので、TPOで顔を使い分ける。
でもね、詩音はそれが出来なかったんだ。
詩音は僕と共存しているつもりだったみたいですけど、実際は僕がコントロールしていたにすぎない。
昨日は、今まで与えていた記憶という情報を与えなかっただけ」
「どうして」
「先生、言ったでしょう。
僕は誰も信用していないんです。
詩音も、歌音も」
『しの、怒っちゃ嫌だよ…笑ってて、しの…』
十三年前、突然迎えに現れた母親に食って掛かった兄を、妹はそう言って縛り付けた。
彼女に嫌われては何も残らない兄は、従順に頷いた。
何もない心で生きていけない事は、本能が知っているから。
だから、そうして、僕は生まれた。
下らない兄妹だ。馬鹿で下等で仕様がないけれど、見ている分には飽きない環境。
内から見る二人の焦りや葛藤は最高に笑えて、最高に虚しい。
「…笑える」
「…ん?」
「歌音は大好きな母親と兄がいがみ合わないように、僕を創り出した。
僕が生み出される切っ掛けを創った。
歌音は詩音が心底母親を嫌ってる事を知っていて、残酷にも母親を取ったんだ。
捨てられたくない詩音はそれに従うしかない。
歌音の世界には初めからママだけだった。パパもシノも、付属品でしかない」
「それは、違うよ」
「そうかな…?僕はあなたと違って付き合いも長いし、何より中から全部見てきたんですよ。
昨日の彼はあなたに自分が穢いと告白しながら、それでも母親が少しでも妹に目を向けると、彼女が簡単に母親へ転ぶ事に怯えていた。子供だからね。
僕以外の二人の少しだけ他より強い人格は、いつも同じ事だけを考えてる。
どうすれば歌音から母親を排除出来るか。どうすれば歌音を縛り付けておけるか」
見てきたのだから、全部知っている。
歌音がひっそりと心を閉ざした夜、まだそれを知らない詩音は寝静まった家の中、包丁を握り締めて小一時間佇んでいた。
殺して消してしまえば詩音の心は楽になったのに、歌音の事を考えると実行できなかった。
花菜が見舞いに訪れた時、歌音があまりにも泣くから、腹の底から湧き出る罵倒を声に乗せられなかった。
馬鹿馬鹿しい。
「君、重要な事を忘れてない?
君も、所詮詩音の人格の一部でしかないんだよ?」
「そうですね。自由に動き回る事も許されていない身分ですね。
許していないつもりで、僕は出来るんだけど」
「だったらどうしてそうしないの」
「…本当に、笑えるでしょう?
先生、僕は歌音を信用していませんけど、結局、愛してはいるんですよ」
嫌われたくないのは同じ。
だからこそ滑稽だ。
縛れているのは自分も同じなのだと、出て来る度に自覚する。させられる。
虚しい。
昨日、歌音を連れ帰ったという男に、詩音は軽い会釈と黙礼を返した。
本来の詩音ならば、有無を言わさず殴りかかっただろう。
争いと暴力を極端に嫌う歌音が傍にいたから、咄嗟に「僕」が出た。
黙礼の後に「ありがとうございました」と言って歌音を安心させ、そのまま帰った。
「今まで巧く操作していたんなら、どうして昨日記憶を渡さなかったの」
「癪だったから、ですよ」
「癪?」
「コントロールは出来るのに、どうしても抗えない。僕は笑って見ているしかない。
本当の意味で歌音に触れられるのは、詩音が操作している人格だけ。
詩音と本当に共存して、年々彼に溶け込もうとしている彼らだけ。
処世術の道具としては使えないのに、彼らはもうすぐ詩音と一つになる。
そうしたら、バランスが取れなくなって、僕はきっと消えてしまう。
僕が出来るはずの事をわざとしないのは、結局、妹が妹でなかったから」
「それは、自由に動き回る事?
それとも詩音を飲み込んで、彼に成り代わろうとする事?」
「…ヤだな。僕は所詮詩音の一部だから、成り代わるも何も。
でも…そうだね。二人は歌音が愛してるのは元の詩音だって事を認めているから、溶け込もうとしている。
僕は中途半端に意思を確立してしまったから、歌音に僕だけを見て欲しいと思ってる。
でもそれじゃあ、ダメなんですよ」
何だ。案外良識的な人格ではないか。
恭一郎はほっと安堵の息を吐こうと空気を飲み込んだ。
それを見透かしたように、詩音の眼は微笑いに歪んだ。
「僕だと、見ていてほしくてどうしようもなくて、簡単に歌音を殺してしまう。
本気でそう思えるのは僕ら皆同じだけど、彼らは到底実行できない。躊躇うから。
僕は躊躇わない。他の誰かに見られたり、他の誰かを見る事も許せないから。
だから僕は今まで意識的に、極力表に出ないようにしていたんですよ」
「でも機会はあったでしょう。どうしてそれをしなかったの?」
「先生、馬鹿だね。それともこう言って欲しいんですか?
僕は所詮跡付けの人格だから、マスターである人格の隋には逆らえない。
そう、確かに、機会は腐るほどあったよ。詩音が眠っている時は、自由に起き出せたし。
でも…さっきも言ったけど、結局は僕も歌音に縛られてるだけだ。
詩音を殺さないと、歌音を殺そうとした時点で詩音に無理矢理引き摺り下ろされる。
だからって詩音を殺せば、歌音はすぐに違いに気づいて、僕に「返して」って言う。
そんな事耐えられない。歌音が望んだから僕は生まれたのに、彼女に否定されたら、」
心だけの詩音は呟きながら俯いて言葉を切ると、微笑と共に顔を上げた。
『それ、地の俺だ。裏じゃない』
目を見張らせていないと気づかないような、ほんの僅かな狂気。
それを覆い隠せる空虚な微笑で、あの日詩音は微笑った。
俺、と言っていたけれど、あの日の詩音はきっと彼だ。
「君は、もう気づいてるんじゃないの?」
恭一郎は詩音の目を覗き込んだ。
そこに、初めて感情の色が滲んだからだ。
「君も、もうすぐ飲み込まれるんでしょう」
だから、「此処にいるんだ」と言うように記憶を渡さなかった。
身勝手に創られた人格はいつも、身勝手に捨てられるのだ。
もう不要だと。
「今は、飲み込まれるかもしれない。でも、先生はよく知ってるでしょう。
詩音は不安定だ。神経質で、被害者思想で、自虐的。物凄く不安定だ。
今は飲み込まれても、またいつか出てくるかもしれない。
僕が飲み込まれるのは、あの子に、少しでも望んでしまったから」
『ごめんね、ごめんね…』
泣きながら言ったあの子は識らない。
綺麗な目で、綺麗な涙だった。同じ顔、とは思えないほど。
魂ではないただの心は何処へ行けば良いのか。
『…一人にしないでよ』
独りになりたくなかった。
詩音ではなく、「僕」を見て欲しいのに。
無垢な目で、綺麗な目で涙で、繊細な声は、詩音だけを呼ぶ。
欲しいものは全て、詩音に向けられる。
「辛いんです。だから、僕も飲まれようかと思って。
元々、もう、限界だったんだ。
四年前の、あの時から。あの時、それでも繋がってた僕と詩音の間には、確かな亀裂が出来た。
自分で生んだくせに、世渡り上手で善い人の「僕」がいるから殺せなかったって、詩音は確かにそう言った。彼がそう意識していなくても、詩音が詩音を否定する事は、僕を否定する事に繋がるから。だからもう、限界は近かったんです」
ふう、と溜息を吐きながら背当てに凭れ、詩音は浮かべている微笑を僅かに濃くした。
それは穏やかなものではなくて、少しの凶暴さを滲ませた、限りなく詩音に近い貌。
「さよなら先生。
最後に良い事を教えてあげる。
詩音は、今、起きてるよ。
詩音に、今、良いものをあげたよ…」
僅かに濃くなっていた微笑はどんどんとその色を増し、恭一郎は二つのアッシュカラーの眼玉がこちらへ迫り来ているような錯覚を覚えた。
思わず上半身を引いたと同時に、詩音の頭ががくりと背凭れに落ちる。
落ちた頭がゆっくりと持ち上がり、開いた目は怯えたように揺れていた。
『ねぇ、シノ。
パパはねぇ、ママの事、ほんとは大嫌いなんだよ。
シノだって嫌いでしょう。ママは、カノを取るもんね』
壊れたグリーンの眼。
ふわふわと微笑いながら、その実泣いているような掠れた声で。
頭と頬撫でる手は大きく温かく、こんなにも柔らかな愛情を伝えているのに。
『カノはシノの半分だから、誰にも渡しちゃ駄目だよ。
シノとカノはパパの全部だから、誰にもあげない。
ママにもあげない。絶対あげない。シノとカノはパパの全部なんだよ』
パパはいつだって優しくて、いつだって詩音と歌音を間違えなかった。
怒られる年頃まで一緒にいなかったから、怒られた事などない。
パパはいつだって優しくて、ママを愛していて、双子を愛していた。
「せんせい」
瞳が愕然と揺れている。
手は、注意深く見なくとも微震していた。声もまた同様に。
「アイツが生まれたのは、五歳ん時、のはずだよ。
何で、アイツが、パパの記憶、」
「詩音?」
『ねぇ、シノ。
パパはアタマがオカシイみたいなんだけど。
シノはそれでもパパを愛してくれるかなぁ…?』
壊れた、ロボットみたいだ。精巧に出来た人形みたいに綺麗だ。
眼の際に溜まっている涙は不思議と零れず、声は何処か機械的で、それでも人間の熱を持っている。
頬と頭を撫でる手は、それだけは、子供の心に滲む愛情を持っていて、だから、膝に抱かれている詩音は歪な父親に怯えなかった。
でも、識らない。
パパはまるで、今の自分のように。
歪んでいて異常で、怖ろしい事を平気で口にした。
そんなパパは、識らない。
『あげるよ。
多分、君と僕が入れ替わるのは、これで最後だから』
僕、と言う人格が、初めて自分の手を離れ、他人と喋っていた。
それだけでもショックが大きかったのに、彼は溶ける前に大層な土産をくれた。
識らないパパの記憶。
壊れる事を怖れて、でも壊れてしまっていたパパの本当の姿。
「詩音、落ち着いたら話して」
感情がついて行かない涙はただ生理的に零れるだけ。
混乱してしまった詩音を、恭一郎は優しい声色で遠ざけた。
今、彼の混乱を問い質せば、きっと詩音の線は切れてしまう。
簡単に、あっさりと自ら命を絶った彼の父親のように。
ボロボロと溢れ零れる涙を両手で拭いながら、詩音は頷いた。
心の中は何故かすっきりしていた。
何も解決していないのに、荷物を纏めた自室のようにすっきりと。
幾つもの人格を無造作に創り続けて、彼らはあっさりと自分の中へ溶け込んだ。
それは、考えてみると、当たり前の事なのだ。
所詮は弱い自分が生み出した人格なのだから、我慢の限界がくれば躊躇いなく退く。
自分では歌音に触れる事さえ出来ないのだと、彼らは理解したのだ。
自分にさえ捨てられた。
独りだ。
「レ……詩音、何て顔してるの」
孤独に気づいた瞬間、焦りを感じた。
“どう取り繕えば良い?”
擦れて赤くなった目元を、流れては溢れる涙がしつこく通っている。
それを拭う気力ももはや無かった。ただ、呆然とソファーに座っている。
歌音に会いたかった。自分で会いに行く勇気が無いから、ここで座って待っている。
姑息な手に引っかかったのは目当ての人ではなく、見知らぬ男。
ぼやけた視界で声の方向へ顔を向け、再び視線を前に戻すと呆然と壁を見つめる。
「詩音、俺はね、君のパパの友達なんだ」
「……パパ…」
優しくて、愛してくれていて、繊細だった人。
それとも、気が狂っていて、頭の異常しかった人?
「どっちの、パパの、友達…?」
「両方、かな」
詩音は強く瞼を閉じた。
ブツブツと涙が切れ、一瞬だけ視界が鮮明になる。
初めてきちんと向けた視界の中、背の高い男は目の前で、何故だか安心する笑顔を浮かべていた。




