詩と歌の音―6―
何も無い広い処に立っている。
広いというのは、ただ広いと思っているだけで、実のところ周りを透明の硝子に覆われているだけだ。
それを、ただ只管に割る。我武者羅に割る。割れていく硝子の破片が両手に突き刺さり、入出の動作で皮膚が引き裂かれる。当然、血は噴き出るのだけれど不思議と痛くない。
だから、我武者羅になりながらも何処か漠然とした気持ちで只管硝子を割り続けるのだ。
硝子の向こうに立っている、歌音に触れるため。
歌音に近づくために、割れては再生する硝子を何十何百と割っていく。
白い肌が真っ赤になり足元に夥しい血が流れ、漸く一枚隔てた傍に近づいても、いつもその一枚が割れない。
歌音が呼んでいるのに。
まるで柔らかいプラスチックを殴るように、鈍い音だけが返ってくる。
歌音が割れないガラスに手をつけて、泣きながら呼んでいるのに。
いつも。いつもいつもいつも。
びく、と肩を竦め、詩音は目を開けた。
狭いベッドに無理矢理入り、二人きりで眠るのは何年ぶりだろう。
歌音が入院してからだから、四年ぶりか。
頭の芯が溶けるような口づけを繰り返しながらよく自制出来たものだと溜息を吐き、身体を丸めて眠る歌音の肩口を撫でた。
ふと時計を見上げると未だ午前の七時前。
よく眠っているらしい歌音を起こさないよう、そうっとベッドを抜け出してはみたものの、彼女の手はしっかりと詩音の服を握り締めている。
四苦八苦しながら漸くその手を解くと、努力も虚しく歌音は薄っすらと目を開けた。
「…シノ、ありがと…」
「何、起きて早々」
くてりと身体の力を抜き、目だけ向ける歌音は心の底からリラックスしているようだ。
くすぐったい疼きに手の平を痺れさせながら、詩音は微かに頬を染めて問う。
今更のように汗を掻く手の平と、ドキドキと煩い心臓が邪魔だ。
「我慢、したでしょ…?」
「……恥ずかしいから、言うなよ。
あーあ。風呂入って来る。平沢先生に許可貰ってくっから、お前まだ寝てろよ」
目を逸らしながら戸惑いがちに言われ、耳まで赤く染め上げた詩音はそっぽを向いた。
がしがしと頭を掻きながら、四、五日分の衣類を詰め込んでいたバッグを引っ掴む。昨日は此処ではなく、事務所に近い友人の家に泊めてもらう予定だったのだ。
羞恥心を隠したいのか、多少荒々しい仕草で部屋を出た詩音に、歌音は嬉しさと切なさにきゅうと胸を締め付けられた。
血の繋がった兄妹間での性交渉は異常で、常識外れなのだと思う。
それも、同じ顔の一卵性双生児同士でなど、他人に知られると気味悪がられるに違いない。
でも、寂しさを埋め合うのに、それは丁度良い行為だった。
それが持つ本来の意味も良く判っていない時分からその兆候はあり、初体験は多分人より数年早い。
歌音は詩音の事が好きだった。
兄としてか、それとも恋の相手としてかは未だよく判らない。
けれど、世界には自分達二人だけだと信じていて、それはこれから先もずっと変わらない。
互いを縛るのは、互いだけだからだ。
それでも詩音が誰かと付き合っていると知る度、心は醜い嫉妬の嵐に吹き荒れ、誰かに優しくしている詩音を見るとどうしようもない苛立ちが募って仕方なかった。
もやもやとした不快感を覚えながらも、歌音は知っている。
誰と付き合ってもそれは世間を欺くための道具でしかなく、感情を突き動かす心は歌音の手中にあるのだから、彼の“世渡り”に感情は無いのだ。
詩音は世渡りが上手だから、歌音はいつも彼の影でじっとしているしかない。それが心地良かったし、詩音は「それで良い」と言った。
四年前、まだ正常だった頃、
『男って下半身と心が別の生き物なんだってさ』
と、未確認物体を見たような目で言った詩音に、歌音は笑って『羨ましいな』と答えた。
詩音以外の誰かと時間を共にするなんて、まして身体を分け合うなんて、考えられない事だったから。
だから必死になってレイプされていたという事実だけは隠し通そうとしたのに。
胎の子の父親が誰なのかと、母親の夫は家族の前で敵将の首を取ったように取調べを始めた。
『言えないくらい恥ずかしい相手なのか』と哂いながら言われたから、復讐の意味も込めて父親の名前を言ってやった。
私を犯したのは、お前の死んだ息子だと。
身体を分け合うのは、同じ血と肉と骨を分けて出来た詩音だけだったはずなのに。
詩音の冷えた怒りの目を見た瞬間に、彼の手の中にある自分の心が砕けていくのが判った。
あの時司郎が生きていたら、間違いなく詩音が彼を殺しただろう。
それを防げて、それだけは良かったのかもしれない。
この四年、ぼんやりとしていて思い出そうとしても思い出せなかった記憶が蘇り、歌音は微かに震える息を吐いた。
病室の冷えた空気が白く正体を現し、すぐに消える。
正常な振りをしなければ。
詩音の傍にいれば、何も考えなくて良い。詩音の思うようにしていれば、何も怖がらなくて良い。
詩音の傍は明るいから、何処よりも安全だ。
「おーとーまーりーたーのーしーかぁーったぁー??」
「うっざ、マジウザい」
「だぁってさぁー、だぁってさぁー!
俺、歌音の主治医よ?これでも一応さぁ!」
熱い湯で寝惚けた意識を大分すっきりさせ病室へ戻る途中、詩音は恭一郎に捕まっていた。
肩口に顎を乗せ、耳元でダラダラと不平を言い続けている。
入院患者は少ないといえど療養棟の廊下、しかも朝っぱらからの言い合いはぎゃあぎゃあと余計に煩い。
二人は背後から近づく足音に気づかず――
「黙れヤブ医者」
背中をガッスリと蹴られた恭一郎は、詩音の背でぐったりと口を閉じた。
「よっちゃん…蹴りは酷いよ…ヤブ医者はまあ良いけどさぁ…」
「よっちゃん言うな名前負け」
「ぎゃ!!それ言うと僕泣いちゃうよ?!
よっちゃんは良いよ…平沢芳雄だから、振り仮名振っても七文字じゃない。
僕の振り仮名、一文字ずつ分けて書かなきゃなんない用紙だったら十三文字よ?よっちゃんのほぼ倍だよ!?」
「あーはいはい。黙れ名前コンプレックス。
お、略すとナマコンだな。生コン」
「ひっ、酷い…よっちゃんは僕の事嫌いなのね…っ」
「ああ」
「!!!」
午前七時三十分過ぎ。
引継ミーティングをしているかと思えば痴話喧嘩に精を出している医者二人を、出勤した紗江子は冷めた目で見つめていた。
「あ、おはよーサエちゃん。聞いてよよっちゃんったら酷いんだから!」
「おはようございます。田所さん」
「…おはようございます。
朝っぱらから何やってるんですか。お二人とも。昨日は異常無かったんですか?」
はあ、と溜息を吐きながら紗江子も腰を下ろした。
大学時代の同期だったという全くタイプの違う二人は、これでも良い関係を築いているのだろう、とは思う。
クールな看護師に恭一郎は切なげな溜息を吐き、芳雄はすいっと夜間日誌を差し出した。
「異常は無かった。と、思うんだが」
「思う、とは?」
「うーん……自分で言うのも何だが、僕は恋愛事情に疎くてね」
「「は??」」
確かに芳雄は仕事一筋生真面目人間だが。
眉を寄せ考え込んでいるような表情で唐突な言葉を吐いた彼に、二人は怪訝に満ちた声と目を返した。
「昨日、見回りの時に偶然見てしまったんだが…」
「はあ」
「何を?!何々?!幽霊!?」
「新城先生、煩いですよ」
目をキラキラとさせて問う恭一郎に紗江子は軽く眉を寄せた。
「あの双子は、双子だよなぁ?」
「そりゃあ、あんなに顔似てるんだし。あれで他人だったらドビックリよこちとら」
「だよなぁ…いや、キスをしていたように見えたんだが」
「ふーむ」と難しげに考え込む芳雄の放った一言に紗江子は目玉を引ん剥き、恭一郎は「ぶっ」と飲んでいたお茶を噴き出した。
あのガキ…と机の下で悔しさに満ちる拳を握り締める恭一郎は、同僚二人の非難視線の対象である噴き出たお茶をそそくさと拭く。
「チュウしてたって、どんな感じで?」
「どんな感じと言われても…暗かったし、見間違いかもしれないだろう。
何せ兄妹なんだし」
「良いから!
チュって感じ?それともブチューって感じ?それとも」
「新城先生!!それ以上言うとセクハラで訴えますよ?!
平沢先生の見間違いですよ。確かにあの双子ちゃんは仲良いですけど、微笑ましい兄妹じゃないですか!」
非難轟々、バシンと頬を叩き挟まれた恭一郎はジンジンと痛む患部を押さえ、漸く黙った。
多分、詩音が歌音へ寄せる感情は自分の勘が訴える通り、兄の枠を完全に逸したものだろう。
二人が身を寄せていたという施設の文集。五歳の子供が綴ったとは思えない短文を、両頬の痛みに耐えながらふと思い出した。
――せかいに ぼくらはふたりだけ。
うまれるとき てをはなしたから ぜったいはなさない。
せかいは くらくて ひろくて せまいけど かのんがいるから あかるいんだよ――
歌音の作文は確か、『しのん だいすき。ぱぱもだいすき。れいちゃんもだいすき』という物凄く短くも五歳児らしいものだった。
「兄妹で、恋愛感情なんて…もし本当だったら…」
「異常、だと思う?」
複雑そうに眉を寄せて言葉を呑んだ紗江子に、恭一郎は呑み込まれた続きの言葉を躊躇なく吐いた。
普段と変わらない柔和な表情で何の戸惑いもなく言い放たれ、益々複雑になった紗江子は散々迷ってから小さく首を縦に振る。
「そうかなぁ。異常かなぁ…」
恭一郎はぽつりと呟き、ペットボトルのお茶を飲んだ。
彼らには、彼らしかいなかったのだ。双子の世界の中に、互い以外存在していなかったのだ。
そんな環境を作ったのは彼らの父親であり、母親であり、新しく出来た家族。
恋愛感情と家族愛を擬似て重ねているのかもしれないが、詩音は多分はっきりとした感情を歌音に向けているだろう。
詩音が歌音を愛し、歌音が詩音を愛してしまった事。
正常であるはずの世界が正常でなかったのに、二人が持つ互いへの感情を異常と言えるのかどうか。
乾いていない喉へ無意味に茶を流し込んだところで、確たる答えが出るはずもなかった。
「先…生…、おはよう、ございます……」
うろうろ、と視線を床に這わせてはいたが、「やっほー!おっはよー!」と飛び込んで来た恭一郎に、歌音はもぞもぞと朝の挨拶を返した。
まさかきちんとした返答があるとは思ってもいなかった恭一郎は、口をあんぐりと開け目玉を引ん剥いて歌音を見つめている。
「しししし、かかかが、ここここ」
「……気持ち悪…っ」
「って何だその反応!
うわあうわあ超ウレシー!歌音、おはよ!ってもっかい言ってみ?」
「お、おはようございます……」
「うふあー!しっ、幸せ…!」
今度はおずおずと顔を上げ、少し怯えながらもきちんと目を見て答えた。その反応に恭一郎はがくりと崩れ落ち、おいおいと肩を震わせて咽び泣いている。
歌音はドキドキと緊張しながらも、上手く正常な振りを出来た事に小さく息を吐いた。
入院している間の事はよく覚えていない。だから、恭一郎の事も、紗江子や夕実の事も実のところよく分からない。
「はーい、歌音ちゃん朝ご飯ですよー」
「いっだ!サエちゃん今蹴ったでしょ!」
「え?何の事ですか?
あ、詩音くんは朝ご飯どうする?食堂もう空いてるけど…こっちで食べる?」
「いやー…あっちで食べます。歌音、田所さんと話してみたいらしいし」
詩音の言葉に歌音を見ると、彼女は少し頬を染めてこくこくと頷いている。
愛らしい仕草にキュンと胸を鷲掴みにされ、紗江子はほくほくの笑顔で盆を机の上に置いた。
「皆、俺の事完全スルー…?
まあ、良いよ。人生こんなもんだから…って事で詩音。飯食いに行くか!」
「は?!せ、先生仕事は?」
「良いの良いの。どうせ今日も暇だから」
それは医者としてどうなのだ。と思いつつ、詩音は仕方なく彼と共に食堂へ赴く事にした。
他の入院患者三名を知る限り思い出してみたが、内二人はカーテンで内部が分からないくらい完全に部屋を閉じ切っているため顔もよく分からない。
もう一人は歌音と同じような状態の男の子だ。確か、母親とその再婚相手に虐待されていたと聞いた事がある。身体中痣だらけでニコニコとしていて、その表情以外は棄ててしまったらしい。
余所者だという雰囲気と言葉に暴力が加わっていれば、二人揃ってあんな状態になったのだろうかと考えた事があったが、多分そうなる前にあの家に火を放っていただろう。
ぶすぶすと風呂吹き大根を箸先で刺しながら、詩音は思いついた結果を思い出しふと微笑った。
「なー…単刀直入に訊いても良い?」
「はあ…何をです?」
二人以外の人気はなく、狭い割りにガラリと広い印象を残す食堂で、恭一郎は声を潜めて言った。
チャラチャラとした印象の顔が真剣そのもので、詩音は訝しげに眉を顰める。
「あのさ、異常だと思ってる?」
「…はあ?」
「好きなんだろ?歌音の事」
甘い味付けに胸が焼けるのか、それともまた見破られそうだからか。
詩音は言葉にして返す事が出来ず、思わず恭一郎を睨みつけていた。
「独占欲の延長線上で恋愛感情が芽生えたのか、それとも環境のせいか。
どう思う?自分の感情。
それを隠さなきゃならない世の中だから広いくせに狭くて暗いのか?」
「………」
「歌音もお前が好きなんだろ?
俺は別に異常とは思っちゃいないんだけど、さ」
食べる事を止め、むすりとした目で斜め横を睨みつけていた詩音の片耳は、恭一郎の一言にぴくりと動いた。
異常じゃない?
この、醜くて純粋な想いの塊と、どうしようもない欲求が。
「先生は、俺たちが十三でセックスをしたって知っても…異常じゃないと思いますか」
ぶっと噴き出しそうになるのを押さえ、恭一郎は目を瞬くと「それが?」と言いたげな表情を取り繕った。
思わぬ告白に、背中には冷や汗が流れている。
「…最初は、淋しくて堪らなかったから。
でも、俺は…一線を越える前から好きだった。
世界はどんどん広がっていくのに、歌音がいないと意味なんて無いし…何も感じない。
歌音は双子の妹で、異常だって解ってるから、これは勘違いだって思おうともしたけど…」
結局は無理だった。
だって、症状が同じなのだ。
誰かを好きになったという友人達と。
歌音を見ていると、ドキドキと早鳴る心臓に押された心が浮ついて落ち着かなくなる。
頭の先から足の先まで痺れて、おかしくなってしまいそうになる。
同じ家にいて同じ学校に通って同じ空間にいるのに、もっともっと歌音の心の奥底まで識りたくなる。
嫉妬に心は荒れるし、よく判らない温もりに安堵もする。
表裏一体の感情に、人間は恋という名前を与えた。
ただ、その相手が血を分けた双子の妹だっただけ。
だけどそれは、殊更異常な事。識っている。解っている。
でも、この想いだけはどうしようもないのだ。
「だから、束縛したいの?」
「…自分でも、どうすれば良いのか判らない。
束縛もしたいし、あいつが思って感じる通りに生きれたら良いとも思ってる」
「でも、歌音が自分の意思で動き始めたら、棄てられるんじゃないかって、怖いんだろ?」
詩音は不思議そうな目で恭一郎を見つめた。それから、小さく頷く。白い頬が微かに赤らんでいた。
「何で判るんだって思っただろ」
「……うん」
「俺は人生の先輩よ?っていうか俺も似たような道通ったし」
「え?」
「俺の奥さんね、従妹なの。
五つ下だからそりゃー小さい頃から可愛がってね。苛める奴は片っ端からぶん殴ってた。
完全に妹と同じ感覚で接してたから、自分の気持ちに気づいた時は焦ったよ。
自分が気持ち悪かったしね。顔も少しは似てるわ血は繋がってるわ妹同然だったわで」
はあーっと溜息を吐きながら言う恭一郎の表情に嘘は見当たらず、朝食を忘れ去った詩音は真剣な目で彼を見つめた。
恭一郎は十年前を振り返っているのか、目を細めている。
「でも…好きなんだよな。頭ぶっ壊れそうで、まともに物事考えられなくなるくらい。
だから、何となくだけど、解るよ。そりゃあ、俺はお前より楽な道だったかもしれないけど。
だからまあ、医者としてって言うよりは兄貴分として、詩音が自分の気持ちを俺に認めてくれたのが嬉しいの。誰かに言うと、ほんの少しでも軽くなるだろ?悶々としてるもんがさ」
ニッと歯を見せて笑う恭一郎に、詩音はおずおずと目線を下げた。
ほんの一瞬でも頼れる兄貴分的な感情を抱いてしまった自分が恥ずかしい。
どう反応して良いか解らない詩音が黙々と白米を突いていると、満足そうに笑う恭一郎のポケットからピーピーという呼び出し音が鳴った。
「うお、ちょっと行ってくるわ。
あ、歌音の部屋じゃないから、心配しないでゆっくり食べなー」
小さな電子器具をポケットに戻すと、恭一郎は早足で食堂を出た。
詩音はすっかり冷えてしまった白飯の一塊を二度三度箸で転がし、持ち上げて口に含む。
「歌音が、いなくなったら……」
もし、もしも、歌音が自分の世界を広げ、もしも、好きな人を見つけてしまったら。
「俺…どうなるんだろう……」
考え、口にするだけでもぞっとする。
時々デパートで見かける、聞き分けのない子供のように「嫌だ」という言葉が溢れて止まらなかった。
本当にどうなるんだろう。
今以上に狂って、きっと何を仕出かすか、判らない。
笑って認めるなんて、絶対に出来ない。
「壊れる…かな…」
ぽつりと呟き、ふと微笑った。
壊れた方が、案外楽なのかもしれない。
そう思いつくと、可笑しくて、ほんの少しだけ哀しかった。




