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詩と歌の音  作者: ノリコ
6/15

詩と歌の音―5―






私のものは何も無い。何一つ私のものじゃない。

名前は五歳で消えた。身体は十四歳で消えた。

心も私のものじゃない。


二歳の誕生日は特別で――パパがくれた最後のプレゼントは、とても大切な宝物になった。

子供が抱くには少し大きな可愛い熊のぬいぐるみ。

ふわふわしていて、抱き締めると凄く安心出来た。



『お姉ちゃん、それ、かなにちょうだい』


嫌だと言ったら妹は大泣きしてしまって、両親に叱られた。


『あなたはお姉ちゃんになったんだから、妹には優しくしてあげて』


ママだった人がそう言って、パパに貰った“レイちゃん”は妹のものになった。

白くてふわふわしていて、施設の先生に洗濯もしてもらっていたから、毛並みだって凄く綺麗だった。

いなくなったパパの代わりに、私を抱き締めてくれるような、大事な、宝物だったのに。


『お姉ちゃんになったんだから』


私はいつお姉ちゃんになったんだろう。

妹は新しい物を沢山持っているのに、どうして私のものばかり欲しがるんだろう。

妹のものになったレイちゃんは泥だらけになって、塵置場に座っていた。


私はいつお姉ちゃんになったの?


泣いたって、パパもレイちゃんも帰って来ない。

誰も何も無い。

私を見てくれる人、解ってくれる人、愛してくれる人は、広い世界に詩音だけ。


詩音だけ。




「演技なんでしょ?お姉ちゃん」


妹の眼が怖い。

バクバクと上がる心拍数に反して歌音の体温は少しずつ下がり、目の奥が眩み始めた。

吐き出す息は震え、乳白色の壁に添える指先も小刻みに震えている。

花菜と二人きりだという状況に気づいた歌音の緊張はピークに達していた。


「ホントはちゃんと喋れるし、自分がどうしてこんな所にずーっと入院してるかも解ってるんだよね」


そうだ、どうして、こんな所にいるんだろう。


姉の額に滲む汗に気づかないまま、花菜は喋り続ける。

自分の持っていないものばかり持っている姉が大嫌いで、大好きだった。

嫌なのだ。幼い頃から、自分を見ると怯えて目を逸らす仕草が。どうしようもなく苛めたくなってしまう。


「お兄ちゃんの気を引きたいからワザと病気のフリしてるんでしょ?」


花菜の眼が怖い。声が怖い。

刃物や銃を向けられた方が、きっとまだマシだ。

あれは身体を傷つけるだけだから。血が噴き出たとしても、傷は縫合出来るしその内治る。

でも、心臓の横を抉られる痛みは、何年経っても治らない。消えないのだ。


「……ちが…けて」

「…何?

 はっきり言ってよ。そんな声じゃ聞こえないよ」



目の奥の眩みが強くなる。

怖い。

頭の隅々が痺れ、床が波打っているような気がする。

怖い怖い怖い。

背中に当たる冷たい壁がボコボコと動いているような気がする。

怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

この部屋が、どんどん狭くなっているような。

花菜が、近づいてくる。その背後に、また別の誰か、が――



「っきゃあああ!!」


突然叫び声をあげた歌音に、花菜はびくりと肩を強張らせた。

見ると、姉の目玉は虚ろな色を浮かべたまま忙しなく右往左往動いている。

細い身体をくらくらとよろめかせ、壁に背を押し当てて更に奥へ奥へ逃げようとしているようだ。


「お、お姉ちゃん?」

「嫌だ、やだ、来ないで!

 来ないで来ないで来ないで来ないで!!」

「花菜だよ?!しろ兄じゃないよ!花菜だってば!」

「やだぁ!!来なっ、たすけて!シノシノシノ!!」


パニックに陥った歌音に狼狽えた花菜は、自分よりも細い手首を掴もうと手を伸べる。

歌音は更に絶望的な悲鳴を上げ、近づけた手は彼女のものとは思えない力で撥ね退けられた。

母に連れられ一度だけ訪れた見舞いだったから、彼女が本当に重症なのだとは思わなかった。

母が一度だけで見舞いに行かなくなった理由も、何となく判った。


歌音はきっと、片割れ以外を認めていないのだ。




「なあ、詩音。少しは歌音を自由にしてやったらどうだ?」

「自由?」


カウンセリングの続きだったはずだが。

諦めた詩音が素直に席に着いていると見止めるや否や、恭一郎は素っ頓狂な事を言った。

詩音は怪訝そうに、どこか不思議そうに眉を寄せる。


「俺、別に歌音を束縛なんてしてないよ。

 兄妹で束縛するとかしないとか、変じゃないですか」

「……そう?」

「何か先生の言い方だと、束縛の強い彼氏みたいな感じ」


冷やりとしたものを感じながら、詩音はわざと触れられたくない可能性を口に出した。

法律、道徳、倫理、世間体、色々なものが純粋であるはずの想いを阻んでいる。


動揺の欠片も見せず軽く笑いながら言った詩音に、恭一郎は唇を曲げて鼻息を吐いた。

妹へ向ける愛情にしては、彼のそれや保護観念は重く、どこか歪んでいるような気がしたのだけれど。

こうさらりと、冗談を笑うような口調で返されては本心を量りきれない。


「さっきのカウンセリングだけど、内容覚えてる?」

「んー……実はあんまりよく覚えてないんすよね。

 赤は夕焼けとか言ってたような気はするんですけど」

「そっかそっか」

「別にオカシイ所なんてなかったでしょ?俺普通だもん。

 倒れたのだって多分、最近寝不足だったせいだと思うし」


だらりと椅子に腰掛け、ブツブツと不平を漏らす口調で言い訳染みた言葉を繰り出す様を注意深く見つめる。

普通なら、ただ妹を取るかもしれないという仮定の話で「殺す」などという物騒な言葉は使わない。

しかも微笑って、至極当然だという風に軽い調子では言えないはずだ。


「歌音の事好き?」

「そりゃ、妹ですから。それも双子の」

「家族として?」

「わかんない人だなぁ。家族として好きじゃなかったらどう好きなんですか。

 それに俺、彼女いますよ」


昨日、終止符を打たれたけれど。

体の良いカモフラージュと言い訳にしか使わなかった、可哀想な女の子。

ちらりと有里の顔が脳裏を掠め、詩音は思わず自嘲染みた笑みを唇に浮かべた。


「いるんだ彼女!何で紹介してくんないのよぉ〜」

「そうやって干渉されるから嫌なんです」

「冷たいなぁ、詩音君は…四年の付き合いだってのにさぁ」

「あーもー…カウンセリングしないんだったら俺帰りますよ?暇じゃないんだから」

「あーっと冗談冗談待ってよもう!折角捕まえたのに離すわけ無いでしょ!

 今日は朝まで飲もうぜ詩音!」

「……じゃあ、失礼します」

「イヤー!待ってー!!」


ガタンと席を立ち丁寧に頭を下げた詩音の動きは、ノブに手をかけたところでピタリと止まった。

ワシッと背後から彼の服を掴んだ恭一郎は、中々返ってこない反応に首を傾げる。


「詩音?」

「い!!たぃ…っ」


くしゃりと髪を握り潰し、左即頭部を押さえ、詩音は呻いた。

恭一郎は思わず掴んでいた服を離し、偏頭痛でも起きたのかと詩音の顔を覗き込む。余程の激痛なのか、彼は眉間に深い皺を刻みギリリと奥歯を噛んでいた。


「詩音?どうした?」

「カノ…が!」


まさか今朝のカウンセリングが障ったのか、と不安になりながら問うと、詩音は肩に置かれた手を乱暴に払って駆け出した。

痛みに歪んでいた顔はそれとはまた別のものに蒼白になり、眼は確かな焦りを孕んでいる。

迷わず歌音の病室へ向かう詩音の後を、恭一郎は首を捻りながらも追った。




「カノ!?」


バタンッと大きな音を立てて開いた扉に驚いたのは、花菜一人だった。

歌音は部屋の隅に逃れ、小さく蹲ってガタガタと震えている。

二人を見比べた詩音は、眼にあからさまな敵意を浮かべて花菜を睨みつけた。


「花菜、何もしてな」

「帰れっつっただろ」

「お姉ちゃんと話してただけだもん!」

「話せるわけないだろ!」

「お兄ちゃんとは話したって先生が言った!!」

「俺としか話さないんだよ!!」


花菜は大きな目に見る見る涙を溜める。

姉の主治医だという先生は、「詩音と話せるようになったのだから、努力すれば君とも話してくれるようになる」と言ったから。

詩音はギリリと目元を歪めて花菜を睨みながら、部屋の隅で震える歌音の肩にそうっと手を置いた。びくりと細い身体が震え上がる。


「さわっ、やだ!!シノ!助けっ」

「カノ、シノだよ。シノだから、ちゃんと見て」


細い両腕を盾に更に隠れようと縮こまる歌音の顔を無理矢理持ち上げ、ぐっと額を寄せる。

花菜へ向けていた憎しみの色は消え、優しいながらも寂しさを滲ませる目が歌音の目の前にあった。

鏡を見るように同じ灰色の目。


「し…っ、しのん……」

「…そう、俺だよ」


わなわなと唇を戦慄かせ、幻の世界から現実の兄を見つけ出した歌音は声を上げて泣き始める。

宥めようと背を撫ぜる詩音に縋りついて泣く姿と声は、まるで親とはぐれた幼い子供のようだ。

息を切らせながら追いついた恭一郎はその様子に呆気に取られ、花菜は遣る瀬無さそうに眉を歪めて拳を握り締めた。



「帰れよ。二度と来るな」


歌音の腹底からの泣き声は暫く続いたが、今はひくひくと喉を痙攣させる程度に治まっている。

ずっと穏やかに平行線を辿っていた感情が爆発した、と恭一郎は頭の中のカルテに書き込みながら、詩音と花菜へ目をやった。

彼は歌音と同じはずの実妹を見ているとは思えない冷たい目を彼女へ向けている。

花菜は拳を握り締めたまま、唇をぎゅっと噛み締めて双子の兄姉を見ていた。


「花菜は、お姉ちゃんの邪魔なの…?」

「邪魔だよ。お前は、カノのものならなんでも欲しがるだろ」

「もう、欲しがらないよ。お姉ちゃんがほんとに病気なんて知らなかったんだもん!

 知ってたら、知ってたら」

「お前は、母さんの大事な一人娘だろ?

 俺達には必要ないから、帰れよ」


にっこりと、優しい笑み。初めて向けられたその顔は、今まで向けられたどの冷たい顔よりも一層冷たく思えた。

泣き出したいのを抑え、花菜は乱暴に病室の扉を閉める。

家族が増えた事が単純に嬉しくて、一度に出来た兄姉が美人だった事が嬉しくて、自慢の一つになった事が本当に嬉しくて、歌音のようになれない事が物凄く悔しかった。


司郎とは違うタイプの新しいお兄ちゃんはお姉ちゃんとしか遊ばない。

お姉ちゃんにしか優しくしない。私だって同じ妹なのに、いつもイエスかノーの反応ばかり。

歌音のようになれば、お姉ちゃんのようになれば、同じ妹として接してくれると思ったのに。

だから、歌音のものばかり欲しがった。欲しがる度に、手に入れる度に、歌音も詩音もどんどん遠ざかってばかり。


「お姉ちゃんの事、大好きだよ…」


二人は自分を見てくれないのだ。

二人は自分を家族だなんて思ってくれていないのだ。

特に歌音は、姉のくせに怯えた目で見る。

大好きで、大嫌いだ。お姉ちゃんなんていなくなればいい。

「自分が奪ってきたものへの復讐」などと、人が良くて自分の意思のない姉がそんな事を考えつくわけもないだろうけれど。

司郎という兄を奪い、詩音という兄を独占する歌音が、憎くて大嫌いで――けれどやはり、大好きだった。


「ほんとに、大好きだよ…」


もう二度と、こんな所へ来るものか。

花菜は寂しさを大きな瞳一杯に映したままそう決意し、療養棟を見上げて呟くと、さっと背を向けた。




「歌音、俺、帰らないと…」


面会時間の終了規定時間は午後八時だ。三十分前にその時間は過ぎた。

夜勤の者との引継を終え帰る準備をしっかりと整えた恭一郎も、詩音と同じく困り果てた顔で歌音のベッド脇に立っていた。


「歌音、詩音ならまた明日来てくれるよ」


恭一郎の言葉にぶんぶんと首を振る。

「お」と、歌音が反応した事に恭一郎は眉を跳ねさせた。

鼻筋まで布団を被った歌音は、右手でしっかりと詩音のコートを握り締めている。

専属モデルをしている雑誌が特集した人気ブランドの秋の新作だったコートにはベルトが沢山ついていて、歌音はそれの一つにぐるぐると手を巻きつけているのだ。

泣きじゃくった歌音は直後に眠ったのだが、二時間前に目を覚まして以降は詩音にベッタリだった。


「せんせー…俺、泊まってっても良いかなぁ…」

「え゛ー?なら俺も泊まるー!」

「…何で。

 ふざけてんじゃなくてさ。歌音、可哀想じゃん」


花菜によって恐怖という感情を爆発させた歌音は、微笑以外は無表情だった顔に変化を見せている。今はむっと眉を寄せ、縋るような目で詩音を切々と見つめていた。

切っ掛けは恐怖というあまりよくないものではあったものの、ずっと閉ざしていた感情そのものを見せ始めているのだ。

少し幼児退行の毛色はあるものの、良い傾向も確かに出て来ている。


「あーあ、楽しそうだなぁ、お泊り…」

「って事は、オッケ?」

「あーあーあーあー楽しそうだなぁ!お泊りー!」

「先生は可愛い奥さんが待ってるんでしょ」

「はっ!そうだった!菜々ちゃん!

 って事で、平沢くんには伝えとくから、後で付添宿泊の手続きしといてー」

「あ、はい。じゃあおやすみなさい」


パジャマパーティに参加できない中学生のように唇を尖らせる恭一郎は、小石を蹴る真似をしながらぶっすりと唇を尖らせて「おやすみぃ」と恨めしそうな声を返した。

二度目のカウンセリングと称して核心をついた質問をされた時は肝が冷えたが、こうあっさりと宿泊を許してくれるのだから妙な疑いは晴れたのだろう。

とぼとぼと扉を閉める後姿に手を振り、詩音は軽く息を吐きながら歌音に目をやった。


「いて…くれる…?」

「うん。

 明日は仕事入ってるから、昼飯食ったら行くけど…今日はずっと一緒にいられる」


おずおずと問う歌音の目には遠慮という感情があった。

詩音は昨日の紗江子の言葉を思い出し、こういう事かと納得する。

歌音の破片と、四年ぶりに再会しているのだ。

コートのベルトに絡まっている手を解きながら腰を屈め、詩音は熱くなる涙腺を抑えて微笑った。



後は、面倒なあの医者をどうにかして騙せれば、それで良い。


何をするでもなくただ手を繋いでぼんやりと過しながら、詩音はそんな事を考えていた。

自分でも、異常なのだと解っている。

常軌を逸した過保護だというわけでもなく、心配で堪らないからというわけでもない。

ただ、好きなのだ。

それを見抜こうとしている恭一郎が怖い。あの若さで何千という人間を診てきた医者の眼は、包み隠した嘘の皮をゆっくり確実に剥ごうとするのだ。

胸の中央で疼くこの感情を自覚してから、想いの正体が露見して引き離される事を恐れている。

どうやって騙そう。どうやれば、勘と理論を兼ね備えているあの医者を騙せるだろう。



「シノ…」


繋いだ手をそのままに身体を捻った歌音は、ぼんやりと壁を見つめる詩音の前髪に反対の手で触れた。


「私、死ねば良いって、思ったの…。

 あの人…だけじゃなくて、母さんも、父さんも、花菜も、いなくなれば…良い…って、ずっと…」


ぽつぽつと喋る声に、詩音は壁から歌音へと視線を移した。

繋いだ手の肘をつき、上半身を浮かせて話す歌音は何処となく呆けた目をしている。


「腕、掴まれて、怖くなって、振り解いたら、あの人、落ちてった」

「歌音…?」

「あの人、謝ろうとしてた…でも、怖くて、怖くて、怖くて怖くて怖くて怖くて!!」


呆けていた目の中の感情が膨らみ、恐怖を思い出した声は震えながら音量を上げる。


落ちていく司郎の、呆気に取られた顔。

完全に落下するまで数秒しか掛からなかったはずなのに、数十分も掛かったかのように克明に脳裏に焼きついている。

頭が地面に着く間際、司郎は絶望を孕んだ目で自分を見た。

つもりがなくても、殺したのだ。この手で。この手が。

死ねば良いと思っていた、この手が、意識が。


「カノが殺したんじゃないよ」


震える妹の肩を抱き、詩音は至極優しい声で囁いた。


「あの人は、運が悪かっただけ。

 自分の罪を自分で償っただけだから、カノは気に病まなくて良い。

 だから、こんな所早く出よう。早く出て、二人に戻ろう」


胎の中から二人きりで、外へ出てもすぐに二人きりになった。

四年も離れ離れだったから、元々歪だった心はどんどんその歪を拡げたような気がする。


「シノは、私がいなくて淋しかった…?」

「今も死にそうなくらい、淋しい」

「ごめんね…シノは、一人が嫌いなのにね…」

「…うん。

 だから、カノ、二人で先生を騙そう」


細い手を兄の白い頬に添えて、感情の一片を取り戻した妹は微笑う。

縋りつくように抱き締めるように首に腕を回し、寄り添って目を閉じた。



一つだけ、在った。

自分のもの。

誰にも奪えない、自分だけのもの。


当然だというように、詩音は歌音の唇を食んだ。

甘いのに何処か苦いキスに身体の自由を奪われながら、歌音は一人微笑う。


詩音の心は、歌音のもの。

歌音の心は、詩音のもの。

何を奪われても、これだけは、互いが持つ誰にも奪われない唯一つの、もの。





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