詩と歌の音―3―
『シノ。
これをシノにあげる。
カノにはこれね』
“パパ”はその日、僕と妹を動物園と遊園地に連れて行ってくれた。
朝から晩まで遊び倒して、妹は眠そうな目で差し出された封筒を受け取った。
僕にくれたものは、四角いお菓子の箱。
『シノ。約束だよ。
それは十八歳になるまで見ちゃ駄目だ。
それに、絶対誰にも渡しちゃ駄目だよ』
『ママにも?』
『うん。ママにも。
忘れないように、箱の中に約束を書いた紙をちゃんと入れたから』
『パパ、カノは?カノのも見ちゃだめ??』
妹は目を擦りながら聞いた。
“パパ”は微笑って、『いつでも見て良いよ。二人でね』 そう言った。
次の日、“パパ”がいなくなった。
“ママ”は僕たちを棄てた。
僕らは、二人だけになった。
車の排気音で目が覚め、詩音はぐっと背を伸ばした。いつにもまして眠った気がしない。
欠伸を噛み殺しながら生活臭のない部屋を見渡すと、緩慢な動作で机の引き出しを開けた。
元々出て行くつもりだった生活拠点でないこの部屋は、十五歳の頃から必需品以外がダンボールの中で眠っている。
“パパ”が好きだった菓子の箱。十八歳になった先月、箱の中にある日記帳を見てみた。
三年ダイアリーのそれは全てドイツ語で書かれていて、何がなんだか分からずに終わっている。
せめて英語だったら読めたのにと思いながらも、ドイツ語を習う気もない。
開けてはいけないパンドラの箱のような、妙に不安感を煽る物体だ。
軽く嘆息し、寝癖のついた頭を掻きながら欠伸を噛む。
その途中でピカピカと点滅する光を見つけ、携帯電話を取った。
思ったより深く眠っていたのだろうか。着信履歴が十五件も更新されていた。
三日間放置していたのだから当たり前か。
内一つは歌音の主治医、残りは全てバイト先の社長からだ。
先にどちらと連絡を取ろうかと迷い、十件以上も履歴を残している社長に決めた。
『詩音?!あんたねぇ!あれ程留守電設定しなさいって言ったでしょ?!
っつーかこのご時世に忘れないでよ面倒臭い!』
「あー、あはは、怒鳴んないで下さいよ。俺寝起きだからさー」
『んあ?!あら、あんたにしちゃお早い寝起きねぇ。
午前様かと思ったのに』
「でしょー?」
『じゃなくて!!』
低いくせにキンキンと響く声に耳元から電話を離し、詩音は乾いた声で笑った。
現時点での収入の柱はモデル業だ。六歳の時にスカウトされ、もう十二年になる。
『早速で悪いけど、明日空いてる?
急に雑誌の撮影入っちゃってー、先方があんたじゃないと嫌だってダダこねてんのよー』
「明日?うん、別に良いですよ。
学校も卒業確定したし。後は受験日だけ空けてくれたらいつでもオッケーオッケー。
昨日で他のバイト辞めましたから」
『あらそう、良かった。やっとウチ一本に絞ったのね。じゃあ明日十五時に事務所。
それからあんたまだタレントに移る気ないの?あんたならモデルやるより儲かるわよー?』
「んー…人前出るのあんま好きじゃないし。
月四、五回撮るだけで三十万も貰えたら十分でしょ。高校生の分際で」
『将来的によ将来的!
他メディアの前に出ないのかって毎日電話来るあたしの身にもなってよね。
それとさあ、アタシの歌音の復帰は未だ駄目?』
不意に、女言葉を喋るデカイ図体の男を本気で怖れていた歌音を思い出してしまった。
彼女も入院する十四まではモデルをしていて、一度きりだったが二人でコマーシャルに出た事もある。まるで他人事だが、大層な反響だったのだそうだ。
詩音は微笑いながら息を吐き、ギッと音を立てる椅子に座った。
「当分判りませんよ…こればっかりは」
『そうよねぇ…あーあ!ウチの看板商品はあんた達なんだけどねぇ…』
「って、俺一人じゃ駄目みたいな」
『駄目なのよ!あんた達が揃って最高の出来になるって川添さんも言ってるんだからー』
子供服のカメラマンだ。
子供服を着れなくなった今でも良くしてもらっている。
「酷いなぁ、川添さんも社長も」
『まあ、それだけあんた達は二人で光るって事よ。
じゃあ明日、忘れないでよ?』
「はいはい、三時ですね。じゃあ、また明日」
キィキィ喚く社長に軽く笑いながら電話を切る。
お早い寝起き、と言われて目覚ましを見ると、朝の六時半。
あの人は一体何時に寝て何時に起きてるんだろう。とても寝起きとは思えなかった声の調子に、呆れを越して尊敬の念を抱いてしまいそうになる。
もう一方の履歴の主は医者だからもう起きているだろうと発信ボタンを押すと、十回目のコールで『…眠い!』と唸る声が電話口に出た。
「ひょっとして…寝てました?」
『十分前までね。わざわざ掛けなおしてくれたんだ。珍しい』
「先生から掛けてくる方が珍しいでしょ?
それに歌音の主治医なんだから、何かあったのかって思うじゃないですか」
至極当然の反論に、恭一郎は寝惚けた声で『そうねー』 と答えた。
『あのさぁ、昨日歌音が自分から喋ったんだけど、君、何かした?』
それか、と、目の前に恭一郎がいるわけではないのに目を逸らす。
キスは二人の間でさして珍しい行為ではなかったが、世間からすると異様な光景だろうし異常な行為だろう。
暫く沈黙した後、詩音は口を開いた。
「手、握ってましたけど」
『それだけ?何か言ってやったりしなかった?』
「あー……気に病む事はないって言ったような気がするけど…」
『ふうん…そっか。
ああ、詩音、今日も来るだろ?』
「そのつもりですけど」
『よしよし。来い来い是非来い。そして俺のカウンセ』
「カウンセリングは受けませんからね。俺には必要ないでしょ。
っと…それより先生」
ガラ、っと引き出しを開ける。
解読不可能な、実父の三年ダイアリー。
パンドラの箱を開けてはならないと頭の端が訴え続けて一ヶ月。
それでも“パパ”は『十八になったら読んで』、と言いたげなニュアンスで約束を取りつけた。
「先生のカルテってドイツ語でしょ?ドイツ語って読める?」
『えー?ドイツ語ー??何となく読めるけど、ちゃんと読めるのは医学用語だけだよ。
あ、でも待てよ…?夕実ちゃんが読めたような…確か前にドイツ文学専攻してたって。
ゲーテがどうのロマン主義がどうのテオドールがどうの…って、何で?』
「いや、別に…ちょっと訳してもらいたいもんがありまして。っていうか、鮫島さんって益々謎だな…」
『夕実ちゃんは不思議ちゃんだからねぇ。
で、何訳すの?気取って原版の本買ってみたけど読めなーいって感じー?』
寝起きだと呻いていた割りに恭一郎は饒舌で、朝から気だるくなる。
ケラケラと軽く笑いながら一昔前の若者口調で喋る医者に嘆息し、詩音は箱の中で眠る日記帳を取り出した。
「……違いますよ。
日記です日記。実の父親の」
『ああ、そういやお父さんドイツ人だって言ってたっけ。
何?息子のお前が読めないの?』
「俺達は日本生まれの日本育ちです。
今日鮫島さん出勤ですか?」
『うん。朝勤だよ。八時から六時まで』
「俺も今日一日フリーだから、朝からそっち行きますね」
『詩音くーん、俺のカウン』
「じゃあ、また病院で」
にこっと笑い、詩音は躊躇無く断話ボタンを押した。
恐らくあの医者とは思えない医者は電話の向こうで歯軋りしているだろう。
パンドラの箱かもしれないものを、開けるのだ。少し緊張する。
「……パパ…」
歌音に託された封筒は、今パンドラの箱と一緒に菓子箱の中に入れている。
色褪せたそれに入っているのは、遊び倒したあの日の写真。
ブロンドの青年は、彼によく似た二人の子供を抱いて楽しそうに笑っている。
確か、通りすがりの人にシャッターを押してもらったのだ。
日記の一番最後のページ。暮野 零人という名前だけが、日本語だった。
面会開始時間の十時を前に病棟へ入れてもらって夕実に日記を渡し、その足で歌音の部屋へ向かう。
既に朝食を済ませていた彼女は、詩音の姿を見つけて嬉しそうに微笑った。
「……シノ…」
表面に浮かべた表情とは裏腹に、幼い子供が親に指されたものの名前を言うようにぽつりと詩音を呼ぶ。
それでも、か細い声で呼ばれた詩音は擽ったそうな笑顔を浮かべた。
「カノ、調子はどう?」
「……大丈夫…」
「朝御飯、嫌いなもの出なかった?」
「…うん…」
「ちゃんと全部食べた?」
「……少し、残した…」
「んー…じゃあ、昼は残すなよ?
今日は俺、一緒に食えるから」
こくんと頷く歌音に、詩音はふつふつと湧き上がる感動に口元を緩めた。
言葉を投げると答えが返ってくる。形だけだとしても、歌音と会話をしている。
何て楽しいんだろう。何て嬉しいんだろう。
顔に浮かぶ微笑に、感情はないけれど。
「詩音となら会話成立、と」
「うわっ、吃驚した!ちゃんと気配出して来て下さいよ…」
ぬっと背後から顔を出し、カルテにさらさらと記入する恭一郎に眉を寄せた。
詩音の不平は聞かなかった事として、パタンとカルテを閉じる。
「さてと。詩音。おいで」
「い、嫌だ」
「お・い・で」
メールだったら語尾にハートマークがついただろう。
満面に柔和な、けれど強制的な何かをを匂わせる笑顔を浮かべ、恭一郎はパチンと指を鳴らした。
扉口に待機していたのか、古株の看護師と屈強な看護士がザッと現れた。
「はい、第一診察室に連行ー」
「「了解です!新城先生!」」
「ちょっと待てよ何だこれ!
ああーっ、田所さん助けてー!」
がし、がしっと両脇を掴まれ悲痛な声を上げる詩音に、通りかかった紗江子は瞬いた。
が、その後ろで人差し指を振る恭一郎を見つけて嘆息する。
「詩音君……ご愁傷様…」
「いやーーっ!!」
少年の抵抗は虚しく、彼はずるずると引き摺られて階下へ消えた。
突然の拉致に、不思議そうにゆっくりと瞬いた歌音が、「シノ…」と小さく呟いている。
ベッドに座り兄の消えた扉口を見つめる彼女に苦笑して見せ、紗江子は付属している机を引き出すとその上に絵本を置いた。
「何もしないと暇でしょう。
読めると思ったら読んでみてね」
相変わらず目を合わせてくれない歌音の頭を優しく撫で、数冊の絵本をタイトルが見えるように並べ直した。
歌音は暫くそれらを見つめ、こくんと小さく頷いた。
――第一診察室
「さーてと。尋問に入るか!」
「カウンセリングでしょ!」
「あら、認めるの?詩音くーん」
「……こんなの絶対医者じゃない…」
てきぱきと手際よく椅子に固定され、詩音はブスッと唇を尖らせた。
抵抗できないようにロープで縛るなんていつか訴えられるぞ、と思ったが、新城にこんな荒業をさせるほど、詩音は彼の興味を惹いているのだ。
「まあ、世間話って事で」
「暇なんですか?この病院」
「ん〜、この病棟は比較的ね。
知らない?一昨日一人退院して、入院してるの歌音入れて四人だけなんだよ」
歌音の入院から四年目にして、詩音は初めてこの病棟の人の少なさに納得した。
医師らしい恰好の人間は常勤の新城を入れて三人しか見た事がないし、看護師だって併設されている精神科に比べればそう多くない。というより、棟自体が隣の精神科に比べるとかなりの小規模だ。
「儲かってないんですね」
「失礼な。僕は療養棟の担当なだけであって心療科は儲かってるもん!」
ふんっと唇を曲げて言う恭一郎に「はは」と乾いた笑みを漏らす。
ぷんぷんと首を振りながら、恭一郎は酷く冷めた様子の詩音の目を見止めた。
ずっと不審に思って来たが、やはりこの子は何処か変だ。
「詩音、子供の頃の記憶って、何歳くらいからある?」
「…信じます?」
「信じるよ?この分野は信頼関係が一番だからね」
さっきとは違う真剣な目に、詩音は嘆息した。
誰も信じないから、同様の内容を含んだ話題が出ると「五歳くらいから」と言っているが。
そもそも、彼には嘘を吐いても直ぐバレるような気がする。
「生まれる前から」
パチパチと恭一郎の目が瞬いた。「わお」と言いたげな表情だ。
「へーへーへー!すっごいなそれ。
もしかして歌音もそう?」
「ご明察、そうですよ。二人して胎ん中から聞いてた両親の会話も覚えてます」
「うわぁうわぁ希少!お前ら超希少!
そっかそっかー。胎児の時の記憶があんのかぁ…羨ましいなぁ。
じゃ、次」
感動の割りにあっさりと話題を変更した恭一郎に、彼の後ろに立っている看護士はガクっと肩を落とした。
詩音を取り押さえた二人の内の一人である彼は興味津々と目を輝かせていたのだが。
「自分で思うトラウマとかってある?」
「トラウマ…?…トラウマ…。
遊園地と動物園、かなぁ…」
「あら珍しい。楽しいじゃない。僕、奥さんとよくデートするよ?」
「…楽しいけど…楽しかったけど…そんなのは一時の感情でしょ?」
窓の外を見つめてぽつりと言う。
酷く冷めた目だ。苦い思い出の残る遠い過去を振り返る人間の目。
ふむ、と、恭一郎はペン先の蓋に唇を当てた。
「じゃあゲームしよう。連想ゲーム。僕の言う単語に直感で答えてネ!
黄色は?」
「バナナ?」
「バナナ…と。じゃあ赤は?」
「夕日…」
「ふむ、次はー…日本」
「日本?相撲?」
「でかいよねー力士。見た事ある?超デカイよ。
じゃあー、世界」
ぐん、と、詩音の目が見開いた。ような気がした。
詩音は浅く息を吸い、深く吐き出した。
「……暗くて、狭い…」
「…ふむー…。
次、恋」
「…叶わない」
「愛」
「…消耗品」
「仕事」
「金」
「勉強」
「建前」
「資格」
「肩書き」
「性欲」
「本能」
「母親」
「裏切る」
「父親」
「届かない」
「家族」
「贋物」
どんどんとテンポの速くなる問答に、待機する看護士は「う」と息を呑んだ。
恭一郎のペンはさらさらと進み止らない。詩音の眼はどんどん見開いていく。
いつも見る穏やかな目元と口元はなく、ゲームが進む毎に無機質なものになっていった。
「病院」
「薬くさい」
「教師」
「偽善者」
「黒」
「優しい」
「青」
「怖い」
「動物」
「汚い」
恭一郎が言った言葉は全て、双子の母親や調査の結果判った彼に身近な言葉だ。
数あるキーワードの中で、タブーに最も近い言葉を、
「歌音を取る人間」
放つ。
詩音は無機質な眼をそのままにピタリと黙った。
知らず知らず、彼はトランス状態に入っている。
柔和で人懐っこい笑顔の裏に貼り付けたもう一つの貌。
「殺す」
すう、と眼を細め、詩音は微笑って言った。
いつも浮かべている笑顔。それに酷似した、全く別物の、笑顔。
恭一郎はごくりと生唾を飲み、微かに震える手で答えを記入した。
ふ、っと詩音の身体から力が抜け、瞼が落ちる。
がくんと机に向かって落下する頭を、寸でのところで受け止めた。
「先生…」
慌てて介助に走り寄った看護士が唖然とした表情で呟く。
恭一郎は大きく溜息を吐いた。
「今のがこの子の本来の姿…かな?本来じゃあないか…」
「多重人格…ですか?」
「いや…そこまで重くはないけど、多分、詩音は自分の裏面を自覚している。
やだなぁ、難しいな…治療も必要だけど、こういう自覚のあるタイプが一番厄介だ。
多分ね、この子は裏の自分と共存してて、理性を失くすタイプじゃないよ。逃避しないタイプだ。
正常に近いけど、やっぱちょっと違う」
空きベッドに寝かすよう指示を出し、恭一郎は益々大きな溜息を吐いた。
実父が自殺している事、その前日の楽しい思い出、父親の死後直ぐに養護施設へ入れられた事。
施設を去る一ヶ月前に作られた文集の、五歳の子供が書いたとは思えない文章。
厄介なものに興味を抱いてしまった。
その頃、「暇だったら優先的にやったげて」と上司に言われ、淡々と日記帳を訳していた夕実は、ページの中程でキーボードを叩く手を止めた。
「こんなの…見せちゃ駄目だと思うんだけどなぁ…」
双子の実父が書いたという三年ダイアリー。
『愛してるよ。詩音、歌音。
でもパパには、ママだけなんだ』
そこで止めた文の続きを、困惑しながら打ち始める。
『だから、
パパは、
ママを許せない。
大嫌いだ』




