詩と歌の音―2―
「詩音君…お帰りなさい…」
“家”に帰るのは三日ぶりだ。
目を逸らしながら声をかける母親を冷淡な眼で見、言葉を返さないまま階段を上る。
母親が嫌いだ。
再婚相手に気を遣い、新しく生まれた妹に愛情を与え、自分達の頭すら撫でなかった。
実父が死んで直ぐに施設へ入れたような人間だ。職員は皆優しかったが、孤独感は拭えなかった。
まるで世界に歌音と二人だけのような。
絶望には程遠いが、二人一緒に孤独だった。
迎え入れられた“家”には既に一つの家族が出来上がっていて、二人の孤独感と疎外感を増幅させただけ。
部屋に入った途端、ピリリリリと単調な機械音が響いた。音源はベッドの上。
暗闇の中でただ一つ光るそれは、三日前に充電したまま放っておいた携帯電話だ。
す、と視線を下げ、液晶の画面を見つめる。
『奥田有里』と発信相手の名前が闇の中に浮かび上がり、溜息を吐いて電話を持ち上げた。
「…もしもし?」
『あー!やっと出た!ケータイまた置いてったの?』
「あー…ごめん。忘れてた。
で、何?」
『な、何って…。ねえ、また歌音の所行ってたの?』
パチ、と電気のスイッチを押す。
パリパリと微かな音を立て、部屋は明るくなった。
「そうだけど…何?」
疲労の滲む顔でそれを声には出さず、淡々と問う。
電話の向こうで、有里は小さく息を呑んだ。
詩音と付き合って四年。
年々、彼の本性が見えて来るような、どんどん遠ざかって行くような。
四年前からずっと、詩音は自分から行動を起こした事がない。
手を繋ぐ、キスをする、セックスだって、ただの一度も。
「ねえ、私の事、好き…?」
一縷の望み。それを捨てられないまま、虚しい言葉遊びを持ちかける。
答えは、解っていた。
『……好きだよ…』
いつも、困ったような声で、いつもと同じ笑顔で。
「……歌音よりも…?」
四年間、ずっと訊かなかった事。訊けなかった事。
意地で、恋人の関係を続けている。
好きで堪らなかった。今でもその想いは変わらない。けれど今では、その想いの大半が意地だ。
沈黙は、何よりも明確な答え。
「…わかった…」
歌音が入院してから、詩音は毎日見舞いに通っていた。
この四年、恋人であるはずの自分の同行は絶対に許してもらえず、病院の名前や病状すら教えてくれなかった。
『……ごめん』
そんな事、少しも思っていない癖に。
有里は何も答えず電話を切り、苛立ちに任せて投げた。
ガンッと音を立て、新機種に変えたばかりの電話は壁にぶつかって落ちる。
どんなに頑張って着飾って化粧をしても、詩音が自分を愛してくれる事はないのだ。絶対に。
二年前、その確証を見てしまった。
詩音の後を尾け辿り着いたのは、悠久の森という療養施設。
突然入院すると知らされた歌音が身体の病気ではなく心の病気だと知り、彼女に友情を寄せるこの心は確かに痛んだのに。
遠目に、歌音は感情を失くしてしまったのだろうと判る程、表情がなかった。
手を繋いでゆっくりと歩いていた二人は庭の人気のない場所に腰を下ろし、詩音は一人何か話していた。歌音の反応は無い。
細かい砂を細い手に少し掴んで、さらさらと地面に撒く。
その合間に詩音は言葉を掛け、歌音は再び砂を掴んで地面に落とす。
それを幾度か繰り返し、詩音は砂を掴み続ける手を握ると、肌に張りついたそれを優しく払った。
妹の手を握る兄は、まるで絵本の王子様がお姫様にするようにその甲へ唇をつけ。
愛おしそうに、彼女の手を自分の頬に当てた。
「好きだったのに!愛して欲しかったのに!!」
枕を引っ掴んで殴りつけ、大声で喚きながらベッドに突っ伏して無き咽ぶ。
大好きで大好きで堪らないあの人は、鏡の中の自分を愛すように不毛な愛情に憑かれたのだ。
「…ごめん、ねぇ…」
くっと哂って電話を放り投げた。それはゆっくりと弧を描き、ぽすりと枕元に落ちる。
少しも悪びれていないくせに。
言葉の裏に隠した本心は、やっと面倒な柵から解放されたと思っただけだ。
「サイテー、だな」
この言葉も、自嘲的ではあるが表情が伴っていない。
年々、自分の中の暗い部分が大きくなっているような気がする。
高校へは入学当初から留年しない程度に通い、日々の大半をアルバイトに費やしている。
家に帰りたくないから、友人の家を転々とした。
高校生の分際で三つもバイトを掛け持つのは、家を出る資金を貯めるためだった。
それも、既に十分な額になっている。
「詩音…?」
コンコンと扉を叩く音が響き、詩音はベッドに腰を下ろした。
「何?」と短く答えると、僅かな沈黙の後に扉が開く。
「今日も歌音の所へ行っていたの…?」
「……悪い…?」
機嫌を窺うような声色に、睨みつけながら問い返した。
あなたは、一度も見舞いに行かないではないか。そう、言いたげな眼で。
「そ、そうじゃないの…。
ねぇ、家を出るのは構わないわ…」
「あの人もそれを望んでるから。でしょ?」
冷めた息子の眼差しに怖気て後退する。
双子は亡夫に似すぎていて、母親はそれを恐ろしく思っていた。
まるで自分の遺伝子が無いみたいだ。それに、ずっと幼い頃から双子は見えない何かで繋がっていて、産みの母親なのに疎外感を拭えない。
現夫は、そんな双子を毛嫌いした。
息子もまた義父を嫌った。多分一度捨てた自分の事も心底から嫌っている。
「そういう事を、言わないで…。
家を出るのは構わないから…大学だけは出て頂戴…?お願いよ…」
いつもおどおどとして、他人の顔色を窺う母親が大嫌いだ。
この人は知っているのだろうか。自分の産んだ子供達が、陰で義理の父親から「お前達はそっくりすぎて気味が悪い」と言われていた事を。
「…ねえ。そんなにあの人が怖いの?
母さん、そんなに俺達が怖い?“パパ”を思い出すから嫌なの?
どうして俺の目を見ないの?どうして歌音を庇わないの?見舞いに行ってやらないの?」
問い続ける。淡々とした、感情の灯らない声で。
立ち上がり、後退する母親を追い詰めるようにゆっくりと、歩きながら。
「カノがレイプされたって知って、どうして怒らなかった?
腸が煮えくり返るほど憎くならなかった?
アイツが死んでなかったら、俺が殺してたよ。
ねえ、母さん、どうして俺達を引き取ったの?
愛しもしないくせに」
たった二歳で、親に棄てられた事を理解した。
施設の職員は皆優しかった。愛してくれた。愛を教えようとしてくれた。
愛なら知っている。孤独も知っている。疎外も知っている。
全部全部、歌音と分け合ってきた。何もかも。
後退する母の背が扉にぶつかり、止まった。
幽霊を見るような目。恐れの色を一杯に浮かべ、少し震えている。
ダンッと、彼女の顔の両脇に拳を叩きつけた。
眼は、冷然とした、感情の灯らない無色のまま。
質問の残酷さとは裏腹に、揺れてもいない。
「カノは、あんたを欲してたのに。
あんたはどうして、花菜だけ可愛がったの」
この家に連れて来られた時、異父妹は二歳だった。
母によく似た、可愛らしい女の子。
彼女は母と父の愛を一身に受け、家族の愛に満たされていた。
二人は、愛で満たされているはずの家庭という狭い世界に入れられても二人きりだった。
狭くて暗い世界で立っている事、ひっそりと息をしている事だけは、許された。
家族ではない。
二人一緒に、愛されていない。
「あなたの夫のために、大学に入れたら出てあげる。
長男が死んで、長女は精神疾患。次女は我侭放題の馬鹿。
まともな肩書き作れるの、俺だけだもんね」
数十秒か、数十分か。
沈黙の中、初めて詩音の眼に感情が灯り、母はその眼差しに心をグサグサと抉られた。
冷たい声で言い放ち、柔和な笑顔を浮かべている。
この子をこんな風にしてしまったのは、自分だ。
夫を酷い形で喪って、一人で生きてはいけなかった。
一度は愛した人の面影を濃く残す双子を、真正面から見れなかった。
弱すぎる自分が招いた、償いようのない大罪なのだ。
今の夫の息子が死んだ事も、前夫との娘が心を病んだ事も。
その片割れが、正常なふりをしてどこか歪な事も。
「ごめんなさ…」
戦慄きながら呟く母を一瞥し、詩音はすっとその身を離した。
首を傾げ、哀れんだ眼で微笑んでいる。
「家は出るよ。仕送りも要らない。
あの人の事だから、早坂家の子供の肩書きのために、学費だけは出すんでしょう?
それと……」
微笑が消える。
瞼が僅かに下がり、長い睫が白い頬に影を落とした。
「歌音が退院出来るようになったら、俺が引き取るから。
あんたには渡さない。絶対に」
実の母親に向けているとは思えない、禍々しいものを見るような眼で、言い放った。
――悠久の森、療養棟。
持っていたカルテの束がバサバサと白い床に落ちた。
田所 紗江子は言葉をなくし、隣の鮫島 夕実も同様に立ち尽くしていた。
目の前の少女は口元にだけ微笑を浮かべ、すうっと目線を下げる。
「かかか歌音ちゃん!ちょっと待って!待って?!
ええええええー?!」
「た、田所先輩、落ち着いて下さいよー」
「おっ、落ち着けって!あんた何でそんな落ち着いてんのよ!
この子!今!」
「お話してくれましたねぇ…」
おっとりした口調でほのぼのと返す後輩にカーッと苛立ちのボルテージを上げたが、視線を彷徨わせている歌音にはっと向き直る。
彼女はついさっき、「田所さん…」と蚊の鳴くような声で声を掛けてきた。
「歌音ちゃん、新城先生を…呼んでも良い?」
四年間たった一度も声を出さなかった患者の急変に戸惑いながら問いかける。
歌音は視線を下げたまま何度かゆっくりと瞬いた後、こくんと小さく頷いた。
心療科と精神科が併設されている病棟の、心療寄りの入院棟。
四季様々な種類の木や花が植えられ、一年中何かしらの花が咲いている。
この一角は、心療で請け負うには重いが精神科に入れるよりは軽い患者が入院している、療養所の一種だ。
比較的穏やかな時間が流れている病棟の廊下を、バタバタと慌しい足音が駆け抜けて行った。
「歌音が?喋ったって?」
「は、はい…。散歩から帰って、ついさっき…」
「そっかー。やっと喋ってくれる気になったか。
詩音は何か言ってた?」
「い、いいえ?『じゃ、また明日ー』って帰りましたよ」
三十分程前に帰った彼女の兄の様子に先日と変わったところは何らなかった。
ふんふんと相槌を打ち、新城は「よっこらしょっ」と立ち上がる。
興奮した様子の紗江子に、新城 恭一郎はにっこりと笑って見せた。
「はい、君の名前は?」
「……、歌音…」
「うん。よく言えました。はいこれご褒美」
白衣のポケットから飴玉を取り出し、向かいに座る歌音に差し出す。
視線を合わせようとはしない歌音へ暫く手を伸べていたが、飴玉を受け取る素振りを見せない彼女に肩を竦めて机の上に置いた。
「どうして、話をしてくれる気になったの?」
「………シノが…」
耳を澄ませていないと聞き取れないほどの小声で兄の名を呟くと、左下の床を見ていた目線を右へ移す。
頬杖をついて耳を傾ける恭一郎は、やっぱりか、と目を細めた。
表情らしい表情といえば微笑だけだが、それを引き出したのも彼女の兄だ。
「詩音がどうしたの?」
彼女の症状は外傷性精神障害と診断されている。
食事、入浴、排泄といった生活能力はあるが、コミュニケーション能力、感情を喪失している状態ではろくなカウンセリングも出来ず、最近まではクレヨンを握って紙に何かを描くという行為すらしようとしなかった。
兄の名を呟いたまま黙り、右往左往と視線を彷徨わせて十分は経っただろうか。歌音は小さく溜息を吐いた。
「…シノ、が……あったかい…」
ぽつりと呟き、灰色の瞳は机上に置いた自分の手をじっと見つめる。
『信じて良いのは、シノだけだよ』
幼い声が耳の奥にさわりと触れる。
歌音にしか聞こえない声に、歌音は頷いた。
『カノと、シノしかいないんだよ』
もう一度頷く。
信じられるのも、心を許して良いのも、詩音だけだ。
世界は真っ暗なのだ。明るいのは、詩音の周りだけ。其処にいれば安全だ。
二度頷いた歌音はゆっくりと目を閉じる。
自分の右手が握る左手は、詩音の手に握られているように温かかった。
遂に目を合わせなかった歌音が不意に目を閉じ、恭一郎はパチパチと目を瞬かせた。
む、と眉を寄せ、静かに顔を近づけてみると、微かに寝息が聞こえてくる。
「先生?」
「電池切れ、寝ちゃった」
「やだ、疲れちゃったんだわ」
やれやれと小さく首を振りながら、浮かせていた腰を再び椅子に落ち着けた。
「シノがあったかい…か。
この手の病気は何がきっかけに快方に向かうのか判らないもんだけど、今回もまた難題だねぇ」
これを切っ掛けにカウンセリングに応じてくれると良いのだが。
二人掛りでベッドに運ばれる歌音を眺め、恭一郎は苦笑した。




