詩と歌の音―1―
陽光が緑の葉を柔らかく包んでいる。
さわさわと吹き抜ける風が薄茶の髪を揺らし、よく似た顔の二人は小さく微笑い合った。
「あら、今日も来てくれたの?毎日熱心ねぇ、詩音君」
少年は看護師の声に振り返り、軽く会釈を返すと再びベッドに向き直った。
口元だけを微笑ませている妹の伸びた前髪を払う途中、「あ」と呟いてポケットを探る。
しゃらりとした感触が指先を擽った。
「ほら、これ。
前、欲しいって言ってたヤツ」
華奢な鎖で出来たネックレスの先端には、三日月を象った銀色の小さな飾りがついていた。
目前にしゃら、と微かな音と共に垂らされたそれを暫く眺め、少女はふわりと微笑った。
少し肩を竦めた微笑の仕草は、男でなくとも愛らしいと思うだろう。
男女の差はあるが、兄妹とはっきり判るまでによく似た二人は同じような笑みを浮かべている。
彼らを見つめていた看護師達は、日常的に展開されるその光景に今日もまた溜息を吐いていた。
「毎度の事ですけど、お兄ちゃんが来ると歌音ちゃん落ち着きますねぇ」
「ホント。
まだ喋ってはくれてないみたいだけどね…笑顔が出るだけ前進したって事よ」
「ここに来た時は、おにんぎょさんみたいでしたもんねぇ」
うんうんと頷き合うと、「それにしても」と会話を中断し、何を話すでもなくただ微笑い合っている兄妹に目をやって色めいた息を吐いた。
ハーフである事すら疑わしいほど日本人離れした容姿の二人は、眺めているだけでぽわんとしてしまう。
人の少ない病棟だけれど、二人見たさに担当でない看護師までもが覗きに来る程だ。
所謂“癒し系”というやつか。
「うん。
やっぱ似合うわ、それ。苦労して手に入れた甲斐があった」
白肌の上で光るネックレスを嬉しそうに触る妹の頭を撫で、詩音は背凭れに上半身を埋めた。
空調の風に揺れるレースカーテンの奥、窓の外をじっと見つめる。
指を鎖に絡め、しゃらしゃらという音を楽しむ姿を視界の端に留めたまま暫く外を眺め続け、ぽんと手を打った。
「外行く?散歩」
微笑ってはいるけれど、言葉が通じているのかは判らない。
妹は小さく首を傾げ、ゆっくりと目を瞬いた。その不思議そうな仕草を微笑い、くしゃくしゃと頭を撫でる。
「最近俺が忙しかったから、散歩なんてしてないだろ。
ねぇ、田所さん。してないでしょ?」
「そうなのよー。歌音ちゃん、中々散歩してくれなくって。
外を歩くだけなら歩いてくれるんだけどね」
「……それって、散歩じゃないの?」
「ただ歩くだけじゃ駄目よ。ちゃんと周りを見て、心と一緒に歩いてもらわなきゃ。
看護師として悔しいけど、詩音君とじゃなきゃ散歩してくれないんだから」
大きく嘆息して言う田所に軽い笑いを返し、詩音はクローゼットを開けた。
カーディガンを取り出すとそれを歌音に渡し、彼女がもそもそと袖に腕を通すのを見止めながら数足ある靴に手を伸ばす。
「どれ?」
ベッドの端に並べておくと、歌音は暫く間を置いてから真ん中の靴を選んだ。
淡いピンク色のパンプスだ。
「うん」と納得したような顔で頷いた詩音は、歌音が靴を履き終わるのを待ってから手を差し出した。
きゅっと握る細い手を、ぎゅっと握り返す。
「じゃあ、行って来ます」
「いってらっしゃーい。
中庭の蛇の目エリカが咲き始めてるわよ」
二人の看護師に見送られながら、歌音の歩調に合わせてゆっくりと療養所の廊下を歩く。
暖冬の柔らかな陽光を肌に受けながら手を引く妹は、口元に微笑を浮かべたまま窓の外を眺めて歩いている。
その表情をちらりと盗み見た詩音は、満足そうに、けれど何処か淋しそうに唇を微笑ませた。
歌音が喋る事を止め、感情を棄てたのは四年前。
彼女は四年前、人を殺した。
――四年前
同じ胎から、数分違いで生まれた妹。
そっくり同じ顔で、幼い頃は見分けがつかなかった。
何でも知っているつもりだった。彼女の好みも、癖も仕草も、痛みや孤独までも。
胎児の時分から同じものを分け合ってきたのだ。
何でも分け合い、話し合い、識っているつもりで――。
「痛…っ」
左の側頭部がズキンと痛み、詩音は顔を上げた。目前に、怪訝そうな目が二つ。
「どーしたの?」
「や、ちょっと…頭痛くて。歌音が転んだかな…」
「はっは、歌音ドジだもんね。詩音とは大違い」
「有里、毒舌…」
詩音の苦笑しながらの言葉にケラケラと笑う有里は、パックジュースのストローに口をつけた。
甘い液体を吸い上げながら、つい先月ただの友人から恋人に昇格した少年を眺める。
有里にとっては初恋の相手と晴れて付き合えるようになったのだが、詩音にとっては三人目の彼女だ。
『あんたもすぐアイツに愛想尽かすわよ。何かあったら歌音歌音って。
あの娘がいる限り、誰も詩音の心なんて手に入れられないんだから』
先月詩音と切れたという先輩の言葉が、有里の心に引っかかっていた。
確かに、彼女の言う通りではある。付き合うようになって一ヶ月経ったが、デートすらまともに完遂した事がない。
詩音は大抵、途中でふらりと帰ってしまう。
一緒に帰る約束も取り付けてさえいなければ妹とさっさと帰ってしまう「彼氏」は、起き立ての寝惚けた目で、自分の向こう側、窓外の空を見つめている。
その頭の中は、転んだのかもしれない妹の事で一杯だろう。
けれど、有里は愛想を尽かさないという自信に満ちていた。
彼らとは小学五年生の頃からの付き合いだし、詩音が過保護な兄である事は昔からだ。
双子の妹は、聡明で明朗な兄に比べ、少し愚図で身体も弱い。
他人の自分でさえ保護者心が疼くのだから、兄である詩音は尚更だろう。
「そろそろ帰る?」
「んー…帰るのもダルイくらい眠い…」
詩音はそう言いながらもダラダラと起き上がり、背伸びと共に欠伸を噛み殺した。
鞄を肩に掛け、夕陽に薄茶の髪を煌かせて笑う。
人外、という言葉が似合う綺麗な笑顔に数秒見惚れ、有里はぷるぷると頭を振ると立ち上がった。
他愛の無い会話を繰り返し、有里の家の数メートル手前で立ち止まる。
詩音は今日も、自分から手を繋いでくれなかった。
「詩音」
陽が落ち、街灯に光がポツポツと灯っていく。
呼び掛けに、詩音は穏やかな笑みを浮かべて有里の言葉を待った。
感じの好い、けれどやんわりと拒絶するような微笑。
「何?どうしたの」
両手を握り締める有里は何となく縋るような目で見上げたまま黙している。
言葉の続きを催促したのは、早く帰りたかったからだ。
妹がもし本当に転んだのだとしたなら怪我をしていないか心配だし、そもそも左側頭部が痛む時は大抵彼女の身に何かが起こっている。
更に眠気を伴うのは、熱でも出したか或いは生理痛か。
「えと…キ、キス…してほしいなぁ、なんて…」
有里は頬を染め、おずおずと言った。
詩音はぽかんと口を開け、それからすぐにいつもの笑みを浮かべると、ぎゅっと目を閉じて待つ有里の頬に唇を掠めた。
「また明日ね」
ムッと目を見開いた有里に手を振り、返事も待たずに駆け出した。
ちらりと時計を見ると、もう十八時を三十分も過ぎている。
最初の痛みがあってから、既に一時間以上経っていた。
この通りから自分の家までは電車を使って三十分かかる。
走りながら、詩音は有里の事を少しだけ考えた。
可哀想な事をしている、それは解っていた。
恋愛感情も抱いていないのに付き合って、感情がないからキスは頬にする。
あの、愕然とした、期待を裏切られたような目。
可哀想と思いながら、くっと喉の奥で嘲笑った。
いつ頃からか、詩音の中には二つの感情というか、いや多分それよりも多い何かが在って、それはどんな時にも心の端や真ん中に鎮座している。
愛想の良い自分、明るい自分、人付き合いの巧い、処世術を心得た多くの自分達。
幾つもの顔を使い分ける内に、同様の数の影が生まれた。
そいつらは孤独の中でじっとしていて、暗く淀んで冷淡な眼をしている。
自宅に着いたのは、十九時を回り切った頃。
家の灯りは点いておらず、人の気配も無い。
そういえば両親は末の妹を連れて立食パーティーだとか何かに出かけると言っていたような。
玄関の灯りを点けると、靴は歌音の通学用のものしかなく、義兄もまだ帰っていないようだ。
「カノ?寝てんの?」
暗い廊下や部屋の灯りを点けながら声をかける。
返答は無く、詩音は首を傾げながら歌音の部屋の扉をノックした。それにも返事が無い。
益々首を傾げ、そろりとノブを回す。
「カノ…?」
歌音は布団を頭から被り、小さく震えているようだった。
怪訝に思いながらそっと手を置くと、丸まった布団がびくりと震える。
「…寒いの?」
風邪でも引いたのかと問うと、暫く経ってから、「うん…」とくぐもった声が返ってきた。
「薬、飲んだ?」
「……ううん…」
「飲んでないの?
じゃあ、持ってくるから。あ、お粥も要るだろ?」
歌音は熱を出すと機嫌が悪くなる。
言葉少ない返事もそのせいだろうと軽く布団を叩き、すくりと立ち上がった。
直後、バッと細い腕が布団から飛び出し、離れようとする詩音の腕を掴んだ。
「な、何…」
どうしたの、と言いかけた言葉を呑む。
何枚か服を着込んでいる様子の歌音はカタカタと唇を震わせ、頬を涙で濡らしていた。
顔色も酷く悪い。
「そ、そんなに寒い…?」
高熱で心細くなっているのかと額に手を当てると、そこは僅かに熱を持っているだけだ。
兄の呆気に取られたような目と声の問いに、また暫く間を置いて頷く。
詩音は笑いながら嘆息し、「待ってな」と妹の頭を撫でる。
必死に向けられる縋るような目に、後ろ髪を引かれる思いで階下に向かった。
その四日後だ。
歌音は二つ年上の義兄・司郎を階段の上から突き飛ばし、彼は死んだ。
更に二ヶ月後、妊娠が判り中絶。
歌音は精神を患い、現在も療養所に入院している。
「お前が気に病むこと、ないんだよ…」
ぽとりと落ちた小さな花を手の甲に乗せ、穏やかな目でそれを眺める妹の右手を握る。
どうして歌音は心を閉ざしたのだろう。
子供を無理矢理殺したから?
否、妊娠が判った時、彼女は発狂してしまったかのように泣き叫んでいた。
義兄を好いていたなどという事は絶対に無い。
だって、歌音の心は自分のものだ。
事故だったとはいえ、人を殺してしまったからだろうか。
いいや、あの時、歌音は酷く錯乱していたものの感情までは手放していなかった。
多分、妊娠していると判った時、父親の名前を家族の前で無理矢理自供させられてからだ。
自暴自棄に司郎の名を叫んだ翌日。
いつも綺麗に輝いていた歌音の灰色の瞳は死んだ魚の様に淀み、唇は無意味に薄く開いたまま、何も誰も見止めない。
二年前、漸く自分をそこに映すようになってくれた。最近では微かな笑顔も見せてくれるようになった。
「綺麗…?」
膝を抱きその上に頬を置いて、左手の甲に乗せた花を見つめ続ける妹に問う。
歌音は微笑んだままゆっくりと頷いた。
「カノ、俺を呼んで」
折った膝に頬を寄せ、花を見つめ続ける瞳を見上げる。
同じ顔の灰色の瞳が、優しく詩音を見つめた。
「ねぇ、呼んでよ…カノ。
俺を、呼んで…」
愛している。同じ胎から数分遅れで生まれた、同じ顔の、双子の妹を。
温かいと同時に冷たい印象を与える眼の際に沿って、涙が――。
「シノ」
囁く声の呼び掛けに、浮かんでいた涙がぼろりと落ちた。
どうしてあの日、気づいてやれなかったのだろう。
歌音は確かに信号を発していた。判り易過ぎる救難信号を出していたのに。
膝の小さな山を挟み、間近にある唇へそっと近づく。
同じ顔。
幼い頃、養護施設の職員をからかって遊んだ。
ウィッグをつけて、歌音の服を着る。歌音は帽子で髪を隠し詩音の服を着て、「どっちがどっち?」と問って回るのだ。わざと反対の変装をした事もある。
それくらい、似ていた顔、声、仕草。
でも、愛しているのだ。
愛してしまった。
触れただけの唇を離し、溜息を吐く。
「あったかいね…シノ…」
ぽつりと言葉を綴った歌音の瞳から、涙が一つ筋を作った。




