2000年8月18日
その日の夜、俺は祖母の家の物置にいた。
電気をつけても、部屋の隅までは明るくならない。
古い家だから、仕方ない。
そう思っていた。
けれど、今は違う気がした。
物置の奥にある段ボール箱を、俺は一つずつ開けていた。
探しているのは、昔のアルバムだった。
2002年の写真。
2001年の写真。
そして――2000年。
特に、8月18日。
あの日の写真だけが、どうしても見つからなかった。
「……ないな」
何冊目かのアルバムを閉じる。
埃が舞った。
その向こうに、古いビデオテープが何本か並んでいた。
ラベルには、祖母の字で日付が書かれている。
『2000 夏』
『2000 お盆』
『2001 川』
そして、一番下。
『2000 8/18』
俺の手が止まった。
胸の奥が、嫌な感じに冷たくなった。
テープを持って居間に戻る。
「ばあちゃん」
返事がない。
「ばあちゃん?」
台所にもいなかった。
家の中は妙に静かだった。
俺はテレビの横に置かれた古いビデオデッキにテープを入れた。
再生。
画面が砂嵐になる。
ザーッ、という音。
しばらくすると、映像が出た。
川だった。
今とほとんど変わらない。
濁っていない水。
夏の強い日差し。
川原で走り回る子供たち。
俺は画面を見つめた。
「……三人」
恒一。
美咲。
そして、俺。
少なくとも映像の中では、そう見えた。
子供の俺がカメラに向かって笑っている。
恒一が後ろから肩を押す。
美咲が何か叫んでいる。
音声はノイズだらけだった。
俺は早送りした。
夕方。
川から帰る場面。
画面の端に、古いバス停が映った。
滝野川旧道入口。
今は使われていない。
そのはずだった。
画面の中では、三人の子供がバス停の前に立っている。
そして――
もう一人いた。
「……え?」
俺は停止ボタンを押した。
画面が止まる。
四人目。
白いTシャツ。
短パン。
顔は見えない。
ちょうど木の影に隠れている。
俺は息を止めた。
その子供の右手に、何かがあった。
カメラ。
俺が今使っているものと、同じ型だった。
「なんで……」
その瞬間。
テレビのスピーカーから、声がした。
『直人』
俺は飛び上がった。
映像の中の誰かが、俺の名前を呼んだ。
ノイズ混じりの、子供の声。
『直人、もう帰ろう』
違う。
俺はこの映像を見たことがない。
それなのに。
その声を知っている気がした。
映像の中で、四人の子供が歩き始める。
川原から旧道へ。
バス停へ。
そして時計が映った。
画面右上の家庭用ビデオカメラの日付表示。
2000/08/18
時刻。
23:37。
「……」
俺は立ち上がった。
映像の中の子供たちは、バス停にいた。
23:38。
23:39。
誰も喋らない。
蝉の声もない。
ただ、遠くから何かが近づいてくる音だけが聞こえる。
ゴォォォ……
低いエンジン音。
俺はテレビの音量を上げた。
そして――
23:40。
画面の奥から、バスが現れた。
俺が昨日見たものと同じだった。
古い車体。
黒い行き先表示。
暗い車内。
そして、バスが止まる。
プシューッ。
ドアが開いた。
四人の子供は動かなかった。
恒一も。
美咲も。
俺も。
そして四人目も。
誰も乗らない。
俺は少しだけ安心した。
これなら何も起きていない。
そう思った。
その瞬間だった。
画面の中の四人目が、俺たち三人から離れた。
一人でバスに近づいていく。
「おい……」
映像の中の俺が、その子供の腕を掴んだ。
四人目が振り返る。
顔が――
見えない。
いや。
見えないんじゃない。
そこだけ、映像が壊れていた。
顔の部分だけが、黒い。
ビデオテープの劣化とは思えないほど、不自然に。
俺は画面に近づいた。
四人目が何かを言っている。
音声を最大まで上げる。
ザーッ。
ザーッ。
その奥から、かすかに声が聞こえた。
『……帰らなきゃ』
俺は固まった。
『23時40分までに……』
そこで映像が一度乱れた。
そして、戻った。
四人目がいない。
「……え?」
バスのドアが閉まる。
走り去っていく。
三人だけがバス停に残されていた。
映像の中の俺が、泣いていた。
恒一も何か叫んでいる。
美咲は――
ただ、バスが消えていった方向を見ていた。
画面が暗転する。
そこでビデオは終わった。
俺はしばらく動けなかった。
時計を見る。
23:12。
まだ23:40じゃない。
なのに、背中が汗で濡れていた。
「……四人目は、バスに乗った?」
違う。
映像には、乗った瞬間が映っていない。
ただ。
いなくなった。
それだけだ。
俺はビデオデッキからテープを取り出した。
その時。
テープのケースの裏に、小さな紙が挟まっていることに気づいた。
メモだった。
古い字。
祖母の字ではない。
短い一文だけ。
『23:40を過ぎたら、帰ったことにするな』
「……何だよ、それ」
意味が分からなかった。
俺はメモを裏返した。
何もない。
もう一度表を見る。
すると。
さっきまではなかった文字が、そこにあった。
『次は直人』
心臓が跳ねた。
俺は紙を落とした。
床に落ちた紙を拾おうとして――
ふと気づいた。
物置のほうから音がする。
カタ。
何かが倒れた音。
俺はゆっくり振り返った。
暗い廊下。
その奥に、物置のドア。
開いている。
「……ばあちゃん?」
返事はない。
一歩。
また一歩。
物置に入る。
さっきまで見ていた段ボール箱が、床に散らばっていた。
そして、その一番奥。
古いアルバムが一冊、開かれていた。
俺は近づいた。
ページには、2000年8月18日の写真。
川原。
子供たち。
三人。
俺。
恒一。
美咲。
でも、その写真の端に――
白い指が一本だけ写っていた。
写真の外から伸びているように見える。
俺は息を呑んだ。
指には、小さな傷があった。
右手。
同じ場所。
俺の傷と。
「……俺?」
その瞬間。
携帯が鳴った。
メール。
差出人――俺。
件名はなかった。
本文だけ。
『2000年8月18日の23:40に、俺は帰っていない。』
そして、その下にもう一行。
『だから2003年の俺が、帰らなきゃいけない。』
俺は画面を見つめた。
意味が分からない。
いや。
分かりたくなかった。
もし、このメールが本当なら。
2000年に帰らなかった「俺」と。
2003年に帰らなければならない「俺」は。
同じ俺なのか。
それとも――
別の俺なのか。
携帯の画面が、もう一度光った。
新しいメール。
今度は、本文が一行だけだった。
『23:40を守れば、8月18日は終わる。』
俺は時計を見た。
23:19。
あと21分。
その時、外から。
バスのクラクションが聞こえた。
――プァン。
俺は窓の外を見た。
旧道のほう。
街灯のない暗闇の中に。
赤いテールランプが一つだけ浮かんでいた。




