23時40分
俺は、バスから目を離せなかった。
エンジンはかかっている。
ヘッドライトが、俺たち三人を照らしている。
なのに、車内だけが異様に暗かった。
窓ガラスに反射しているはずの光さえ、吸い込まれているみたいだった。
「……直人」
美咲の声が聞こえる。
「帰ろう」
分かってる。
俺だって帰りたい。
でも、足が動かなかった。
バスの中から、まだ俺を見ている。
そんな気がする。
そして、携帯の画面にはさっきの写真。
暗い車内。
一番後ろの座席。
そこに座っている俺。
撮影日時は、
2003年8月19日 23:40。
「それ……何?」
恒一が聞いた。
「……写真」
「見せろ」
「駄目だ」
「なんでだよ」
「いいから」
俺は携帯をポケットに突っ込んだ。
その瞬間。
バスの中で何かが動いた。
ガタン。
座席が軋んだような音。
俺たちは一斉に黙った。
運転席を見る。
運転手は動かない。
顔も見えない。
黒い影みたいに、ただ前を向いている。
そして――
もう一度、声がした。
「……直人」
今度は、さっきより近かった。
俺は息を止めた。
「……誰だよ」
声を出した自分が馬鹿みたいだった。
返事はない。
代わりに、車内の照明が一つだけ点いた。
奥の座席。
薄暗い蛍光灯。
その下に、
誰かが座っている。
顔は見えない。
俯いている。
白いシャツ。
黒いズボン。
年齢は分からない。
でも、
その座り方だけは妙に見覚えがあった。
「……あれ」
恒一が呟いた。
「何?」
「いや……」
恒一が目を細める。
「俺、あいつ知ってる気がする」
背筋が冷たくなった。
「誰だよ」
「分かんねえ」
「じゃあ知らないだろ」
「そうなんだけど……」
恒一は頭を掻いた。
「なんか、昔から知ってる気がする」
美咲が突然、
「見ちゃ駄目」
と言った。
俺たちは振り返った。
美咲はバスから目を逸らしていた。
「……どうした?」
「見ちゃ駄目だよ」
「何で?」
「分からない」
美咲の声が震えている。
「でも、あれを見てたら……」
「見てたら?」
「……忘れそう」
「何を?」
美咲は答えなかった。
ただ、両手で自分の腕を抱えていた。
そのとき。
バスのドアが、
プシュッ
と閉まった。
「行くぞ!」
恒一が叫んだ。
俺たちは自転車に飛び乗った。
ペダルを踏む。
後ろからエンジン音。
バスも動き始めた。
俺は振り返らなかった。
振り返ってはいけない。
そんな気がした。
*
家に帰るまで、誰も口を開かなかった。
それぞれの家に着く直前、恒一が言った。
「なあ」
「ん?」
「今日のこと、誰にも言うなよ」
「……分かった」
「親にも」
「うん」
「絶対な」
そう言って、恒一は自転車を走らせた。
美咲も少し遅れて帰っていった。
俺は一人になった。
家に入る。
祖母は台所にいた。
「遅かったね」
「うん」
「ご飯、温めようか?」
「いい。もう食べてきた」
嘘だった。
でも食欲なんてなかった。
自分の部屋に戻る。
鍵を閉める。
携帯を取り出す。
さっきの写真を見る。
バスの車内。
一番後ろに座っている俺。
拡大する。
顔ははっきり写っていない。
でも、服は分かる。
今日着ていたTシャツ。
間違いない。
「……何なんだよ」
写真を閉じる。
メールを見る。
乗るな。
送信者は俺。
添付写真の撮影日時は未来。
そして、今日実際にバスが現れた。
ここまではいい。
いや、全然よくない。
でも問題は、
俺がまだ乗っていないことだ。
なのに写真には、
俺が乗っている。
「未来の俺が撮った……?」
呟いてみる。
あり得ない。
そもそも、
どうやって過去の俺にメールを送っている?
時間を越えている?
だったら、
未来の俺は何のために俺を止めている?
考えれば考えるほど分からなくなる。
俺は写真を閉じた。
そのままベッドに倒れ込む。
目を閉じる。
眠れるはずがなかった。
*
午前二時。
喉が渇いて目を覚ました。
部屋は真っ暗だった。
時計を見る。
2:03。
水を飲みに行こうと立ち上がる。
そのとき。
窓の外から、
音がした。
ブゥゥゥン……。
俺は固まった。
まただ。
バス。
こんな時間に?
俺は窓に近づいた。
カーテンには触れない。
ただ、隙間から外を見る。
道路には何もない。
でも、
田んぼの向こう。
山のほうに、
小さな赤い光が見えた。
テールランプ。
バスが走っている。
旧道へ向かっている。
俺は携帯を握った。
新しいメールはない。
その代わり、
カメラの電源が勝手に入った。
「……え?」
液晶画面が光る。
撮影モード。
何も触っていない。
画面の中央に、
23:40
という数字が表示された。
時計じゃない。
撮影時刻でもない。
画面の隅に、小さく文字がある。
REC
録画が始まっている。
「何だよ……」
俺はカメラを止めようとした。
その瞬間。
液晶に映っていた部屋の景色が、
別の場所に変わった。
「……は?」
自分の部屋じゃない。
古いバスの車内。
暗い。
誰もいない。
カメラを持っている手だけが映っている。
そして、その手が、
座席の背もたれを掴んでいた。
画面の中の俺が、
ゆっくり顔を上げる。
カメラが前を向く。
運転席。
そこにいる男が、
バックミラー越しにこちらを見る。
顔は見えない。
でも、
声だけは聞こえた。
「次は――」
ノイズ。
「……滝野川」
画面が暗転した。
俺はカメラを落とした。
床に転がったカメラから、
小さく音声だけが流れる。
「……23時40分」
俺は息を止めた。
それから、
もう一度。
「……23時40分」
録画が終了した。
画面には、
2003/08/19 23:40
と表示されていた。
*
翌朝。
俺は恒一に電話した。
「昨日のバス、見た?」
「見た」
「……そうか」
「お前もだろ」
「うん」
「美咲も見たって」
少し安心した。
自分だけじゃなかった。
夢じゃない。
「なあ恒一」
「ん?」
「あのバスさ」
「うん」
「どこのバス会社だと思う?」
「知らねえよ」
「車体の色、見た?」
「暗くて分からなかった」
「行き先表示は?」
「真っ黒だった」
俺は黙った。
昨日の写真を思い出す。
そして、ふと気づいた。
「……恒一」
「何?」
「お前、昨日バスに乗ったことある?」
「は?」
「いや、昔」
「あるわけねえだろ」
「だよな」
「何で?」
「……何でもない」
電話を切る。
俺はパソコンを起動した。
昨日撮った写真を全部コピーする。
ファイルを並べる。
川。
美咲。
恒一。
バス停。
バス。
そして未来の車内。
撮影日時を確認する。
8月19日。
まだ今日の朝なのに、
未来の日付が混ざっている。
俺は一枚ずつ開いた。
その中に、
一枚だけ見覚えのない写真があった。
「……これ、いつ撮った?」
滝野川の旧道。
夕暮れ。
バス停。
俺たち三人が写っている。
少し遠くから撮った写真。
俺は撮っていない。
恒一も撮っていない。
美咲も、
そんなカメラを持っていなかった。
そして。
三人の後ろ。
バス停の陰に、
もう一人立っている。
顔は見えない。
白いTシャツ。
黒い短パン。
俺は拡大した。
その人物が手に持っているものが見える。
古いデジタルカメラ。
俺が今使っているものと、
同じ機種だった。
写真の撮影日時を見る。
2000年8月18日 23:40。
俺は画面から目を離せなかった。
2000年。
三年前。
その頃の俺は、
まだ小学生だった。
いや。
それ以前に――
この写真が撮られた場所には、
今と同じバス停が写っている。
そして画面の端に、
小さく文字があった。
写真に直接書き込まれたものではない。
カメラのファイル名。
NAOTO_0001.JPG
俺は椅子から立ち上がった。
手が震えていた。
なぜだ。
どうして三年前の写真が、
俺のパソコンにある。
どうしてファイル名が、
NAOTO_0001なんだ。
そして何より。
この写真を見た瞬間、
俺の頭の中に、
知らない記憶が流れ込んできた。
夕暮れの川。
蝉の声。
美咲の笑い声。
恒一の声。
そして――
誰かが言う。
「また来年な」
俺は目を閉じた。
その声を、
俺は知っている。
でも。
誰の声なのか、
どうしても思い出せなかった。




