バス停へ行くな
朝、目を覚ましたとき。
昨日のメールのことを、俺は夢だったことにしようと思った。
布団の中で携帯を開く。
受信メールは一件。
昨日と同じ。
明日はバス停に行くな。
送信者は、俺自身。
削除してしまえば、それで終わる気がした。
でも、指が動かなかった。
「……なんだよ、これ」
送信履歴を開く。
そこには何もなかった。
俺が送った形跡はない。
受信したメールだけが残っている。
時間は、
23:41。
昨日、バスの音が聞こえた直後。
偶然。
ただの悪戯。
誰かが俺のアドレスを使った。
たぶん、それだけだ。
そう考えながら一階へ降りる。
「おはよう」
「おはよう、直人」
祖母が朝飯を並べている。
テレビでは天気予報。
今日も晴れ。
最高気温、三十六度。
「暑いねえ」
「うん」
味噌汁を飲む。
いつもと同じ味。
昨日と何も変わらない。
だからこそ、少し安心した。
俺は携帯をポケットに入れた。
今日はバス停に行かなければいい。
それで終わりだ。
*
午前十時。
携帯が鳴った。
恒一から電話。
「おい、直人」
「ん?」
「今日暇?」
「暇だけど」
「じゃあ川行こうぜ」
「……今日はやめとこう」
「なんで?」
「暑いから」
「昨日も暑かっただろ」
「今日はもっと暑い」
「意味分かんねえ」
少し間があった。
「……美咲も来るぞ」
「いや、今日は――」
「あと、昨日のバス停も見に行こうぜ」
心臓が跳ねた。
「……何で?」
「何でって、昨日聞こえただろ」
「俺たち、あれがバスだったって決めつけてないだろ」
「でも気になるじゃん」
「俺は気にならない」
「嘘つけ」
「本当だよ」
「じゃあ俺一人で行くわ」
「やめろ」
思わず声が大きくなった。
電話の向こうが静かになる。
「……何?」
「いや」
「お前、なんか知ってんの?」
「知らない」
「じゃあいいじゃん」
「……」
「一緒に来いよ」
俺は返事をしなかった。
昨日のメールが頭に浮かぶ。
明日はバス停に行くな。
明日。
つまり、今日のことだ。
誰が書いた?
なぜ俺に送った?
どうして「バス停に行くな」と言った?
「直人?」
「……分かった」
「よし」
「ただし、明るいうちに帰るぞ」
「分かった分かった」
電話が切れる。
俺はしばらく携帯を見つめていた。
そして、もう一度メールを開いた。
やっぱり同じ。
明日はバス停に行くな。
そのとき。
メールの下に、小さな添付ファイルがあることに気づいた。
「……何だこれ」
昨日は気づかなかった。
写真だった。
開く。
画面いっぱいに、暗い道路が映った。
街灯が一つ。
田んぼ。
山。
そして中央に――
バス停。
古びた標識。
その前に、
誰かが立っている。
背中しか見えない。
白いTシャツ。
短パン。
年齢は、俺と同じくらい。
「……誰だよ」
画像の詳細を見る。
撮影日時。
2003年8月19日 23:40
「……は?」
今はまだ、
8月19日の午前10時。
撮影時刻が、未来になっている。
俺は写真を閉じた。
もう一度開く。
同じ。
撮影日時は変わらない。
俺の背中に汗が流れた。
暑さのせいなのか、分からなかった。
*
午後四時。
俺たちは川に集まった。
「遅い」
美咲が言った。
「ごめん」
「今日、なんか変じゃない?」
「何が?」
「直人が」
「いつも変だろ」
恒一が言う。
「お前は黙ってて」
「なんで俺だけ」
俺は笑えなかった。
ポケットの中の携帯が重い。
メール。
写真。
23:40。
全部、俺にしか見えていない。
「直人?」
「ん?」
「顔色悪いよ」
「寝不足」
「ちゃんと寝なよ」
「うん」
美咲は俺の顔をしばらく見ていた。
「……昨日、何かあった?」
心臓が止まりそうになった。
「何で?」
「なんとなく」
「別に」
「そう?」
「うん」
美咲はそれ以上聞かなかった。
俺は川に足を入れた。
冷たい。
水が流れている。
蝉が鳴いている。
いつもの夏。
いつもの三人。
なのに、昨日までとは違って見える。
俺はカメラを取り出した。
「写真撮るの?」
「うん」
「今日は何撮るの?」
「……何でも」
シャッターを切る。
三人。
川。
山。
空。
液晶を見る。
普通の写真。
何もない。
俺は少し安心した。
「見せて」
美咲が近づいてくる。
「嫌だ」
「また?」
「うん」
「なんでよ」
「何となく」
美咲が頬を膨らませる。
「ケチ」
「ごめん」
そのとき、恒一が言った。
「そういやさ」
「何?」
「昨日のバス停、今日も見に行くんだろ?」
俺は答えなかった。
「……行くの?」
美咲が聞く。
「俺は行かない」
「え?」
「今日は行かない」
恒一が笑う。
「なんだよ、怖くなったのか?」
「そうじゃない」
「じゃあ何?」
「……」
俺は携帯を握った。
見せるべきか。
迷った。
昨日のメール。
未来の写真。
全部。
でも、もし見せたら。
二人まで巻き込む気がした。
「直人?」
「……やっぱり俺も行く」
「お、やっぱりな」
「ただし、見るだけ」
「はいはい」
美咲が不安そうな顔をした。
「本当に行くの?」
「大丈夫」
そう答えた。
自分に言い聞かせるように。
*
日が沈み始める。
俺たちは旧道へ向かった。
昨日と同じ道。
田んぼ。
電柱。
山。
ひぐらし。
カナカナカナ――。
バス停が見えてくる。
俺は自転車を止めた。
「……何もないな」
恒一が言う。
古びた標識。
壊れかけたベンチ。
時刻表。
昨日と変わらない。
俺はカメラを向けた。
シャッター。
写真を見る。
――おかしい。
「どうした?」
恒一が覗き込む。
「いや……」
写真の中では、
バス停の時計が23:40を指していた。
そんな時計、実物にはない。
「これ……」
美咲が呟く。
俺は顔を上げた。
「何?」
「この写真……」
美咲の顔が青ざめる。
「昨日の写真と同じだよ」
「え?」
「ほら」
美咲が俺のカメラを指差す。
俺は昨日撮った写真を開いた。
昨日のバス停。
今日のバス停。
同じ構図。
同じ色。
同じ雲。
同じ位置にある鳥。
そして――
同じ時計。
「……何で?」
恒一が言った。
俺は答えられなかった。
そのとき。
遠くから音がした。
ブゥゥゥン……。
エンジン音。
昨日と同じ。
「……来る」
美咲が言った。
「何が?」
「バス」
山の向こう。
ヘッドライトが二つ。
ゆっくり近づいてくる。
俺たちは動けなかった。
バスが旧道を曲がる。
古い車体。
塗装は見たことのない色。
行き先表示は真っ黒。
そして。
俺たちの前で、
停車した。
プシュッ。
ドアが開く。
中は暗い。
運転席に誰かいる。
顔は見えない。
俺たちは誰も乗らない。
乗れるはずがない。
そう思っていた。
すると。
車内から声がした。
「……直人」
俺の名前。
低い男の声。
俺は一歩後ろに下がった。
「……誰?」
返事はない。
代わりに、
車内の奥から、
誰かがこちらを見ている気配がした。
俺は逃げようとした。
その瞬間。
携帯が鳴った。
画面を見る。
新着メール。
差出人――
俺自身。
本文は一行。
乗るな。
俺は息を呑んだ。
そして、もう一つ。
その下に添付されていた写真。
開く。
真っ暗なバスの車内。
座席が並んでいる。
その一番後ろに、
俺が座っていた。
写真の撮影日時。
2003年8月19日 23:40。
俺は画面を見つめたまま、
初めて思った。
もしかしたら。
このバスは――
俺が乗るのを待っているんじゃない。
俺が乗ったことを、もう知っているんじゃないか。




