兆し
翌朝、目を覚ますと、蝉が鳴いていた。
時計は七時二十三分。
窓の外は、もう明るい。
カーテンを開けると、昨日と同じ田んぼが見えた。
朝露を含んだ稲が風に揺れている。
山の向こうから、薄い雲がゆっくり流れていた。
「……暑そう」
八月十八日。
夏休みも、もう半分を過ぎている。
なのに宿題にはほとんど手をつけていなかった。
まあ、なんとかなるだろ。
俺はそう思って、布団の上に放り投げていた携帯を拾った。
メールが一件。
恒一だった。
今日、滝野川の祭り行くぞ
美咲も来る
逃げんなよ
まだ朝なのに、もう予定を決められている。
返信する。
行く
何時?
すぐに返ってきた。
18時
あと写真撮ってこい
意味が分からない。
携帯を閉じる。
そのまま一階へ降りると、祖母が台所に立っていた。
「おはよう」
「おはよう、直人。よく寝たねえ」
「うん」
「朝ご飯できとるよ」
味噌汁の匂いがする。
食卓につく。
テレビでは高校野球が流れていた。
夏休みの朝は、いつも同じだ。
テレビ。
味噌汁。
蝉。
窓の向こうの田んぼ。
何も起きない。
何も起きないはずだった。
「そういえばねえ」
祖母が言った。
「昨日、夜遅くにバスの音がしたとよ」
箸が止まった。
「……バス?」
「うん。ブーンって」
「何時くらい?」
「知らんけど……夜中だったかな」
「どこから?」
「旧道のほうじゃない?」
祖母は味噌汁をよそいながら、何でもないことのように言った。
「でも、あっちはもうバス走っとらんでしょう」
「そうだよ」
「じゃあ、トラックかなんかじゃない?」
「そうかねえ」
それ以上、祖母は気にしていなかった。
俺も気にしないことにした。
昨夜、掲示板で見た書き込み。
今日、滝野川の旧道でバス見た。
たまたまだ。
たぶん。
*
昼過ぎ。
恒一から電話が来た。
「直人、今どこ?」
「家」
「暇?」
「暇」
「じゃあ来いよ」
「どこに?」
「川」
「また?」
「暑いから」
「昨日も行っただろ」
「夏だからいいんだよ」
昨日、美咲が言っていたのと同じことを言う。
「美咲は?」
「もういる」
「早すぎだろ」
「アイス食ってる」
「また?」
「また」
電話を切った。
自転車を出す。
家を出る。
昨日と同じ道を走る。
田んぼ。
電柱。
山。
そして、道路脇の古いバス停。
そこで自転車を止めた。
昨日、掲示板で見た場所。
滝野川旧道入口。
錆びたバス停の標識が立っている。
時刻表もある。
近づいて見る。
古い。
紙が黄ばんでいる。
ところどころ文字が剥がれている。
俺は何となく写真を撮った。
シャッター。
液晶を見る。
普通のバス停。
ただのバス停。
俺はそのまま自転車を走らせた。
*
「遅い!」
川に着くなり、美咲に怒られた。
「まだ一時半だぞ」
「一時半だから遅いんだよ」
「意味分かんねえ」
「女の子を待たせるのは失礼なの」
「誰が女の子だよ」
恒一が横から口を挟む。
「お前以外に誰がいるんだよ」
「恒一、あとで沈める」
「なんで俺だけ」
「うるさいから」
美咲は笑いながら川に入っていった。
昨日と同じ場所。
昨日と同じ三人。
俺はカメラを取り出した。
「また撮るの?」
「うん」
「私、昨日撮ったじゃん」
「昨日の写真と今日の写真は違うだろ」
「同じ顔で写ってるよ?」
「それはそう」
「じゃあ一緒じゃん」
「違う」
「何が?」
「……今日だから」
美咲が一瞬きょとんとして、それから笑った。
「なにそれ」
俺自身、何を言っているのか分からなかった。
でも、写真を撮る理由なんて、そんなものなのかもしれない。
同じ場所でも。
同じ人間でも。
同じ夏でも。
今日撮った写真は、今日しか撮れない。
シャッターを切る。
美咲が笑っている。
恒一は後ろで変な顔をしている。
「恒一、顔ひどい」
「お前が撮るって言うからだろ!」
「もう一枚」
「やめろ!」
またシャッターを切った。
今度は三人とも笑っていた。
俺は液晶画面を眺めた。
昨日の写真。
今日の写真。
並べてみる。
似ている。
当然だ。
同じ場所で、同じ三人を撮っている。
ただ――
昨日の写真では、川の向こうに見えていた山のお社が、
今日の写真では、少しだけ近く見えた。
「……?」
俺は写真を拡大した。
「どうした?」
恒一が覗き込んでくる。
「いや、何でもない」
「また写真?」
「うん」
「お前さ」
恒一が笑う。
「そのうち写真の中に幽霊でも探し始めるんじゃね?」
「いたら面白いけどな」
「やめろよ、そういうの」
美咲が急に言った。
俺と恒一が顔を向ける。
「……何?」
「いや」
美咲は少しだけ視線を逸らした。
「そういうの、嫌いだから」
「心霊系?」
「うん」
「珍しいな」
「何が?」
「美咲って、そういうの平気そうじゃん」
「平気じゃないよ」
「昨日も山見て帰ろうって言ってたし」
「……昨日は」
美咲が言葉を止める。
「昨日は、暗くなってきたから」
「ふーん」
「何、その顔」
「別に」
美咲は少し怒ったように水を蹴った。
水しぶきが俺の足にかかる。
「冷たっ!」
「仕返し」
「何の?」
「知らない」
また笑った。
そのときは、俺も笑った。
ただ。
後から思えば。
あのとき美咲が何かを知っていたことを、俺は見逃していた。
*
夕方。
空が赤くなり始めた。
昨日と同じように、ひぐらしが鳴き始める。
カナカナカナ――。
俺たちは川を出た。
帰り道。
昨日と同じバス停の前を通る。
俺は自転車を止めた。
「何してんの?」
美咲が振り返る。
「昨日の写真、撮り直そうと思って」
「バス停?」
「うん」
カメラを構える。
シャッター。
液晶に写真が表示される。
昨日とほとんど同じ構図。
でも、今日は時刻表が少し見やすかった。
俺は写真を拡大する。
「……あれ?」
「今度は何?」
恒一が嫌そうな顔をする。
「この時刻表」
「ん?」
「昨日、こんなのあったっけ?」
時刻表の下のほう。
古い紙に、赤い文字が残っている。
最終 23:40
俺はバス停を直接見た。
紙はボロボロで、文字がほとんど読めない。
「……あるじゃん」
恒一が言う。
「いや」
「何?」
「昨日の写真にはなかった」
「撮り方じゃね?」
「そうかな」
美咲が黙って写真を見ていた。
「美咲?」
「……これ」
「ん?」
「このバス停、まだ使ってるの?」
「知らない」
「じゃあ、なんで時刻表あるの?」
「昔のじゃない?」
「でも……」
美咲は時刻表を見上げた。
「最終が23時40分って、おかしくない?」
「まあ、田舎だし」
「田舎でもおかしいよ」
恒一が笑った。
「じゃあ今夜見に来れば?」
冗談だった。
俺もそう思った。
美咲だけが笑わなかった。
「……やめようよ」
「なんで?」
「嫌な感じする」
「何が?」
「分かんないけど」
ひぐらしが鳴く。
カナカナカナ――。
その声が、やけに大きく聞こえた。
俺はもう一度、時刻表を撮った。
シャッターを切る。
その瞬間。
山のほうから、
バスのクラクションが聞こえた。
プッ。
三人とも動きを止めた。
「……今の」
恒一が言った。
「バス?」
俺が答える。
誰も笑わなかった。
旧道は、俺たちのいる道から少し離れている。
この時間にバスが来るとは思えない。
まして、ここはもう使われていない路線だ。
それでも。
山の向こうから、
エンジン音が聞こえた。
低い音。
ゆっくり近づいてくる。
美咲が俺の腕を掴んだ。
「……帰ろ」
「うん」
俺たちは自転車に飛び乗った。
後ろを振り返らずに走った。
*
その夜。
俺は昨日と同じように掲示板を開いた。
地元スレッド。
新しい書き込みが増えている。
スクロールする。
そして、昨日の書き込みを見つけた。
今日、滝野川の旧道でバス見た。
あそこって夜バス走ってたっけ?
その下。
新しいレスが一つ増えていた。
見たなら乗った?
投稿時間。
19:02。
俺は少し考えて、
乗ってない
と書き込んだ。
すぐに返信が来た。
乗らない方がいいよ
「……なんだこれ」
釣りだろう。
そう思った。
俺は画面を閉じた。
布団に入る。
目を閉じる。
しばらくすると、遠くでひぐらしが鳴いた。
カナカナカナ――。
時計を見る。
23:39。
その一分後。
家の外から、
低いエンジン音が聞こえた。
俺は布団の中で息を止めた。
ブゥゥゥン……。
ゆっくり。
ゆっくりと近づいてくる。
そして。
家の前を通り過ぎる直前。
プシュッ。
バスのドアが開く音がした。
俺は窓へ走った。
カーテンを少しだけ開ける。
道路には、何もいない。
ただ、暗い田んぼが広がっている。
俺は時計を見る。
23:41。
そして、その瞬間。
携帯が鳴った。
メールだった。
差出人は――
俺自身のメールアドレス。
本文は一行だけだった。
明日はバス停に行くな。




