故郷の夏
夏休みになると、滝野川は少しだけ時間の流れが遅くなる。
――と、俺は昔から思っていた。
別に時計が遅れるわけじゃない。
朝になれば蝉が鳴いて、昼になれば川が光って、夕方になれば山の向こうへ太陽が沈む。
いつも通りだ。
ただ、街にいるときより、一日が長い。
やることがないからだ。
高校二年の夏休みなんて、普通ならもっと忙しいのかもしれない。
部活だとか、受験だとか、彼女だとか。
俺には、どれも関係なかった。
だから今年も、祖父母の家がある滝野川に来ている。
「暑っ……」
玄関を出た瞬間、眼鏡が曇った。
「直人ー! 遅い!」
道路の向こうから声がした。
恒一だった。
自転車にまたがって、片足を地面につけている。
相変わらず日焼けしていた。
「お前、毎年黒くなってんな」
「お前が白すぎんだよ。病人か?」
「うるせえ」
「あと眼鏡」
「これは関係ないだろ」
恒一が笑った。
その笑い声に混じって、蝉の声が山から降ってくる。
ミーン、ミーン、ミーン。
うるさい。
うるさいはずなのに、滝野川に来ると不思議と嫌じゃなかった。
道路の両側には田んぼが広がっている。
緑色の稲が風に揺れて、その向こうには山。
山の中腹には、小さなお社がひとつ見えた。
子供の頃から何度も見ている。
名前は知らない。
誰に聞いても、
「昔からある」
としか言わない。
「なあ直人」
「ん?」
「今年も写真撮ってんの?」
俺の首から下がったデジカメを見て、恒一が言った。
「撮るよ」
「また?」
「また」
「何が面白いんだよ」
「後で見返すのが面白いんだよ」
「おっさんかよ」
「うるせえ」
俺はデジカメを取り出した。
田んぼ。
山。
電柱。
夏空。
特別なものなんて何もない。
だから撮る。
何年か経ったときに、
「あの夏、ここにいた」
と思えるように。
シャッターを切った。
液晶画面に、いつもの滝野川が映る。
「何撮った?」
「別に」
「見せろよ」
「嫌だ」
「なんでだよ」
「なんとなく」
恒一が呆れた顔をした。
「お前、昔からそういうとこあるよな」
「何が?」
「写真撮ってるくせに、人に見せたがらない」
そう言われて、少し考えた。
確かにそうかもしれない。
写真を撮るのは好きだ。
でも、撮った写真を誰かに見せるのは、あまり好きじゃない。
自分の記憶を覗かれるような気がするからだ。
「それより、どこ行くんだよ」
「川」
「暑いぞ」
「川なら涼しいだろ」
「泳ぐの?」
「泳ぐ」
「水着持ってきてない」
「馬鹿だな、お前」
「お前が急に誘ったんだろ」
そんな話をしながら、自転車を押して歩いた。
坂を下る。
田んぼの間を抜ける。
しばらくすると、川の音が聞こえてきた。
その頃には、蝉の声がさらに大きくなっていた。
滝野川の夏は、音が多い。
蝉。
川。
風。
遠くを走る車。
そして夕方になると、ひぐらし。
それが昔から変わらない。
「直人!」
川原から声がした。
美咲だった。
麦わら帽子をかぶって、サンダルを片方だけ脱いでいる。
「遅い!」
「恒一が勝手に待ち合わせ時間変えたんだよ」
「変えてないって」
「変えたよ」
「変えてねえよ」
「どっちでもいいじゃん」
美咲が笑った。
「ほら、早く来て。アイス溶けるよ」
「なんで川にアイス持ってきてんだよ」
「夏だから」
「理由になってない」
「夏だからいいの」
美咲はそう言って、俺に一本投げてきた。
ソーダ味。
俺が受け取る。
「サンキュ」
「百円ね」
「金取るのかよ」
「冗談」
美咲が笑う。
恒一が、
「俺のは?」
「自分で買えば?」
「なんで俺だけ」
「日頃の行い」
「俺、何したんだよ」
くだらない。
本当にくだらない。
でも、こういう時間が俺は好きだった。
川に足を入れる。
冷たい。
蝉の声が遠くなる。
水面が夏の光を反射している。
俺はカメラを取り出した。
「また撮るの?」
美咲が言った。
「撮る」
「じゃあ私も入れて」
「嫌だ」
「なんでよ!」
「アイス食ってる顔だから」
「それは今だけじゃん!」
「じゃあ食べ終わってから」
「もう溶けてるし!」
美咲が笑う。
俺も笑った。
シャッターを切る。
三人。
川。
山。
夏。
その写真が、後になって何度も俺の目に入ることになる。
何度見ても、同じ写真だった。
……少なくとも、最初はそう思っていた。
*
夕方になった。
山の向こうに太陽が沈み始める。
空がオレンジ色になっていく。
蝉の声が少しずつ減って、その代わりに、ひぐらしが鳴き始めた。
カナカナカナ――。
美咲が空を見上げる。
「もう帰る?」
「まだいいだろ」
恒一が川原の石を蹴った。
「晩飯、何?」
「知らない」
「直人んとこは?」
「ばあちゃんが作ってる」
「何?」
「知らない」
「使えねえな」
「自分で聞けよ」
また笑う。
そのときだった。
山の奥から、
カナカナカナ――
と、ひぐらしが一斉に鳴いた。
三人とも、何となく黙った。
夕暮れの滝川内は、少しだけ怖い。
子供の頃からそうだった。
昼間はあんなに明るいのに、日が落ち始めると山の色が変わる。
黒くなる。
お社も見えなくなる。
「……帰ろっか」
美咲が言った。
「珍しいな。お前が怖がるの」
「怖がってないし」
「じゃあ帰らなくていいじゃん」
「帰るの!」
「はいはい」
俺たちは荷物をまとめた。
自転車にまたがる。
俺は最後に一枚だけ写真を撮った。
夕暮れの山。
ひぐらしの鳴く山。
小さなお社。
そして、その手前を通る細い道。
シャッターを切る。
液晶に表示された写真を見て、
「……ん?」
少しだけ違和感があった。
「どうした?」
恒一が聞いた。
「いや」
画面を見直す。
普通の写真だった。
山。
田んぼ。
夕焼け。
何もおかしくない。
「何でもない」
カメラをポケットにしまった。
そのまま三人で帰った。
*
その夜。
俺は布団の上で、今日撮った写真を整理していた。
2003年8月18日。
ファイル名を日付にして保存する。
川。
美咲。
恒一。
夕暮れ。
何枚か削除して、最後の写真を開いた。
山の写真。
俺がさっき違和感を覚えた写真だ。
拡大する。
何もない。
もう一度見る。
やっぱり何もない。
「……気のせいか」
カメラの電源を切る。
そのとき、外から音がした。
カナカナカナ――。
ひぐらし。
時計を見る。
21:17。
「……まだ鳴いてんのか」
窓を閉めようとして、外を見る。
真っ暗な田んぼ。
その向こうに山。
昼間に見えたお社は、もう見えない。
俺はカーテンを閉めた。
布団に戻る。
携帯を開く。
メールはない。
暇だったので、久しぶりに掲示板を見る。
地元のスレッド。
くだらない書き込みばかりだった。
祭りがどうとか。
花火がどうとか。
どこの店が潰れたとか。
適当にスクロールする。
そして、ひとつの書き込みで指が止まった。
【伊毬市】変なバス見た
投稿時間は、
20:56。
内容は短かった。
今日、滝野川の旧道でバス見た。
あそこって夜バス走ってたっけ?
その下に、
何時?
とレスが一つ。
さらに、
23時くらい
と返信。
俺は少し笑った。
「こんな時間にバス走るわけねえだろ」
そう呟いて、ページを閉じた。
そのときは、それだけだった。
本当に、それだけだった。
この書き込みが、
4年後の俺自身によって書かれたものだと知るまでは。
※滝野川=町の名前




