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あの日の23時40分

 暗闇の中で、誰かが俺の手を握った。


 小さな手だった。


「……こっち」


 声は俺だった。


 子供の声。


 俺は振り払えなかった。


 気づいたときには、目の前が真っ白になっていた。


 蝉。


 川。


 夕焼け。


 濡れた土の匂い。


 俺は立っていた。


 滝野川。


 2000年8月18日。


 それが分かったのは、少し離れたところにある看板を見たからだった。


 そして。


「直人!」


 振り返る。


 恒一。


 美咲。


 まだ八歳の二人。


 その隣に――


 白いTシャツの子供がいた。


 左手に傷。


 俺と同じ顔。


 でも。


 今まで見た写真とは違った。


 写真の中じゃない。


 目の前にいる。


「……お前」


 俺が言うと、そいつは笑った。


「やっと来た」


「……ここ、2000年なのか?」


「うん」


「お前は誰なんだ」


 子供は首を傾げた。


「直人」


「それは俺の名前だ」


「俺の名前でもあるよ」


 それ以上、何も言えなかった。


 恒一が不思議そうに俺たちを見る。


「何やってんだよ、二人とも」


 美咲は何も言わない。


 ただ、俺を見ていた。


 まるで。


 ずっと前から知っていたみたいに。


「直人」


「何?」


「もうすぐだから」


「何が?」


「23時40分」


 子供が答えた。


「帰る時間」


 その言葉を聞いた瞬間。


 全部思い出した。


 いや。


 思い出したというより。


 思い出させられた。


 2000年8月18日。


 俺たちは四人で川にいた。


 昼間は何もなかった。


 ただ遊んで。


 写真を撮って。


 暗くなってから帰ろうとした。


 そのとき。


 俺たちは、バスを見つけた。


 古いバス停。


 もう使われていないはずの道路。


 そして。


 23時40分に来るはずのないバス。


 最初に見つけたのは、俺だった。


「乗ってみよう」


 そう言った。


 俺が。


 ……いや。


 違う。


 あのとき、そう言ったのは――


「俺じゃない」


 俺が呟く。


 子供の直人が笑った。


「そうだよ」


「じゃあ、誰だよ」


「俺」


「……」


「未来から来た俺」


 俺は言葉を失った。


 子供の直人はカメラを持っていた。


 俺のカメラと同じもの。


「このカメラ、どうした?」


「お前からもらった」


「俺?」


「未来のお前」


 その瞬間。


 頭の奥で、シャッター音がした。


 カシャッ。


 記憶が繋がる。


 2003年。


 俺はこのカメラを持っている。


 そして2000年。


 俺はこのカメラを渡している。


 その間に。


 何があった?


「……じゃあ、このカメラは」


「ずっと同じ」


「時間を回ってる?」


「うん」


「誰が最初に持ってた?」


 子供は答えなかった。


 ただ笑った。


「分からない」


 それが答えだった。


 午後11時35分。


 俺たちはバス停にいた。


 四人。


 俺。


 恒一。


 美咲。


 そして。


 もう一人の直人。


 四人なのに。


 俺は妙な違和感を覚えた。


 誰かが足りない。


 そんな気がした。


 でも。


 誰が足りないのか分からない。


 23時37分。


 遠くからエンジン音がした。


 23時38分。


 赤い光が見えた。


 23時39分。


 バスが止まった。


 ドアが開く。


 運転席には誰もいなかった。


 車内の照明だけが点いている。


 子供の直人が俺を見る。


「俺が行く」


「どこへ?」


「未来」


「待て」


「大丈夫」


「乗るな」


 俺はそう言った。


 でも。


 自分でも分かっていた。


 これは、何度も聞いた言葉だ。


 掲示板で。


 メールで。


 写真で。


 全部。


 俺自身が言っていた。


「直人」


 美咲が俺の服を掴んだ。


「どうするの?」


 答えられない。


 そのとき。


 バスの中から声がした。


『帰る人』


 子供の直人が一歩進んだ。


『乗る人』


 もう一歩。


『一人』


 子供が振り返った。


「じゃあな」


「待て!」


 俺は腕を掴んだ。


 左手。


 傷。


 その瞬間。


 頭の中に未来が流れ込んできた。


 2003年。


 写真。


 掲示板。


 美咲。


 恒一。


 祖母。


 そして。


 俺。


 右手の傷。


 全部。


 全部見えた。


 俺は理解した。


 この子を帰してはいけない。


 いや。


 この子を帰さなければならない。


 どちらが正しいのか分からなかった。


 ただ。


 その瞬間。


 俺の手の傷が痛んだ。


 右手。


 白い光。


 そして。


 子供の左手にも同じ痛み。


「……俺たち」


 俺が言った。


「同じ人間なのか?」


 子供は首を振った。


「分からない」


「じゃあ、何なんだよ」


「俺たちは」


 子供が笑った。


「帰る場所が同じなんだよ」


 バスのドアが閉まる。


「待て!」


 俺は叫んだ。


 でも。


 子供は窓の向こうから手を振った。


「直人」


「……」


「写真、撮って」


 俺はカメラを構えた。


 シャッターを切る。


 カシャッ。


 その瞬間。


 バスが消えた。


 音も。


 光も。


 何もかも。


 残ったのは。


 四人分の足跡だけ。


 俺は写真を見る。


 そこには。


 バス停に立つ四人の子供が写っていた。


 俺。


 恒一。


 美咲。


 そして、直人。


 でも。


 写真の右端に。


 もう一人。


 俺がいた。


「……五人」


 俺が呟く。


 美咲が言った。


「違うよ」


「え?」


「五人じゃない」


 美咲は写真を指差した。


「四人だよ」


 よく見る。


 確かに。


 四人しかいない。


 俺。


 恒一。


 美咲。


 直人。


 ただ。


 その四人のうち。


 一人だけが。


 カメラを持っている。


 そして。


 その写真を撮ったのも。


 直人。


 俺はそこで気づいた。


 写真に写っている俺と。


 写真を撮っている俺。


 同じ場所にいる。


 同じ時間にいる。


 なのに。


 同じ一人ではない。


 23時40分。


 俺は帰らなかった。


 家にも帰らなかった。


 バスにも乗らなかった。


 ただ。


 その場に残った。


 それが――


 最初だった。


 そして。


 次の瞬間。


 目の前が真っ白になった。


 気づくと。


 俺は2003年の自分の部屋にいた。


 カメラを握っている。


 時計を見る。


 23時40分。


 また。


 同じ時間。


 パソコンの画面を見る。


 掲示板。


 新しいレス。


◆N4oT0


«帰った?»


 俺はキーボードに手を置いた。


 そして。


 自分でも気づかないうちに。


 こう打っていた。


«まだ。»


 送信。


 その瞬間。


 俺は理解した。


 ◆N4oT0。


 この名前を。


 何度も見た。


 2001年。


 2002年。


 2003年。


 ずっと。


 でも。


 誰が書いていたのか。


 考えたことがなかった。


 俺は画面を見つめた。


 自分の指が。


 勝手にキーボードを叩いていく。


«23:40までに帰れ。»


«バスには乗るな。»


«写真を信じるな。»


«帰ったことにするな。»


 そして最後に。


«俺は、お前じゃない。»


 送信。


 俺は椅子から立ち上がった。


 窓の外を見る。


 道路に。


 古いバスが止まっている。


 車内には。


 白いTシャツの子供が一人。


 こちらを見ている。


 俺はカメラを握った。


 そして。


 ようやく分かった。


 あの日。


 帰ったのは。


 一人だった。


 でも。


 帰れなかったのも。


 一人だった。


 そして。


 その二人の間に。


 俺がいる。

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