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帰ったのは1人

 朝になった。


 蝉が鳴いていた。


 昨日までと何も変わらない。


 窓から見える田んぼ。


 川の向こうの山。


 古い道路。


 そして。


 いつもの夏。


 俺は布団の上に座っていた。


 何か、とても長い夢を見ていた気がする。


 2000年。


 バス。


 美咲。


 恒一。


 もう一人の俺。


 写真。


 23時40分。


 どれも。


 夢だったような気がした。


「……」


 右手を見る。


 傷がある。


 いつもの傷。


 俺は少し安心した。


 机の上にはカメラが置いてある。


 電源を入れる。


 写真は全部消えていた。


 2000年の写真も。


 2002年の写真も。


 バスの写真も。


 白いシャツの子供も。


 全部。


 何も残っていない。


 ただ、一枚だけ。


 最後に撮った写真が残っていた。


 開く。


 滝野川の川辺。


 夏。


 子供が三人写っている。


 恒一。


 美咲。


 そして。


 俺。


 普通の写真だった。


「……終わったのか」


 そう思った。


 そのとき。


 ドアが開いた。


「直人ー」


 美咲だった。


「いる?」


「ああ」


 美咲が部屋に入ってくる。


「昨日、大丈夫だった?」


「昨日?」


「昨日の夜」


「……何かあった?」


 美咲は不思議そうな顔をした。


「何もないよ」


「そっか」


 俺は笑った。


 美咲も笑った。


 なんとなく。


 昔と同じだった。


「ねえ」


「ん?」


「今日、川行かない?」


「いいけど」


「恒一も呼ぼう」


「あいつ絶対来るだろ」


「うん」


 美咲が笑う。


 その笑顔を見て。


 俺は、なぜか胸が苦しくなった。


 理由は分からない。


 ただ。


 何か大切なものを忘れている。


 そんな気がした。


 昼過ぎ。


 三人で川へ行った。


 恒一は相変わらず騒がしかった。


「暑っ!」


「お前、毎年それ言ってんな」


「暑いもんは暑いんだよ!」


 美咲が笑う。


 俺も笑った。


 何もおかしくない。


 何も怖くない。


 ただの夏。


 俺はカメラを構えた。


「写真撮るぞ」


「また?」


 美咲が笑う。


「いいじゃん」


 恒一がピースする。


 美咲も笑う。


 俺はシャッターを押した。


 カシャッ。


 その瞬間。


 ほんの一瞬だけ。


 液晶に。


 四人目が見えた。


「……」


 俺は画面を確認する。


 三人。


 俺。


 恒一。


 美咲。


 それだけ。


「どうした?」


 恒一が覗き込む。


「いや」


「変なもんでも写ってた?」


「……何も」


 カメラをしまった。


 夕方。


 帰り道。


 蝉の声が少しずつ小さくなっていく。


 山のほうから。


 ひぐらしが鳴いていた。


 カナカナカナ――。


 美咲が突然立ち止まった。


「ねえ」


「何?」


「この道」


「ん?」


「前にも通ったことある?」


「あるだろ」


「……そうだよね」


 美咲はそれ以上言わなかった。


 俺たちはそのまま歩いた。


 古いバス停の前を通る。


 滝野川旧道入口。


 もう使われていない。


 時刻表もない。


 ただ、古い看板だけが残っている。


 俺は何となく足を止めた。


「……23:40」


 小さく呟いた。


「え?」


 美咲が振り返る。


「いや、何でもない」


 看板には何も書いていなかった。


 俺たちは帰った。


 その夜。


 俺は掲示板を開いた。


 なぜ開いたのか分からない。


 お気に入りに入っていた。


 古いスレッド。


«【田舎の怖い話】伊毬市の旧道について»


 スレッドを開く。


 書き込みは少ない。


 ほとんどが何年も前のものだった。


 2001年。


 2002年。


 2003年。


 でも。


 昨日まであったはずの書き込みが。


 消えている。


 ◆N4oT0のレスもない。


 「23:40までに帰れ」


 も。


 「写真を信じるな」


 も。


 何もない。


 俺は少し笑った。


「……夢だったのかな」


 パソコンを閉じようとした。


 そのとき。


 新着レスが一つ。


 表示された。


 投稿者。


◆N4oT0


 俺は手を止めた。


 本文。


«2003年8月19日


帰った。»


 それだけだった。


 投稿時刻。


23:39


「……」


 俺は時計を見る。


 23時39分。


 あと一分。


 背中が冷たくなった。


 でも。


 何も起きない。


 23時40分。


 時計の数字が変わる。


 23:40。


 静かだった。


 バスの音もしない。


 ノックもない。


 電話も鳴らない。


 俺は息を吐いた。


「……終わった」


 そう呟いた。


 そのとき。


 カメラが一度だけ鳴った。


 カシャッ。


 俺はゆっくり振り返る。


 机の上。


 カメラの液晶が点いている。


 新しい写真。


 俺の部屋。


 俺が写っている。


 机の前に座っている。


 右手に傷。


 いつもの俺。


 その後ろ。


 窓。


 そして。


 窓の外に。


 バス停が写っていた。


 ありえない。


 俺の家からバス停は見えない。


 写真を拡大する。


 バス停の前に。


 一人の少年が立っている。


 白いTシャツ。


 短パン。


 左手に傷。


 俺と同じ顔。


 その少年が。


 こちらを見ている。


 そして。


 その隣に。


 もう一人。


 少年が立っている。


 傷はない。


 カメラも持っていない。


 顔は。


 俺だった。


 写真の中の三人が。


 それぞれ違う方向を向いている。


 右手の傷の俺は、こちらを見ている。


 左手の傷の俺は、バスを見ている。


 傷のない俺は――


 後ろを見ている。


 俺は写真を閉じた。


 怖くなったからじゃない。


 分かったからだ。


 五人目は。


 人じゃなかった。


 あれは。


 俺が「帰った」ときに。


 置いてきたもの。


 記憶でも。


 名前でも。


 時間でもない。


 もっと簡単なものだった。


 「俺が俺である」という感覚。


 2000年の俺。


 2003年の俺。


 帰れなかった俺。


 帰った俺。


 全部が重なって。


 その境目に。


 誰でもない「俺」が残った。


 だから写真には写る。


 だから誰も覚えていない。


 だから。


 写真を消しても消えない。


 俺はカメラを机に置いた。


 そして。


 パソコンを閉じた。


 もう二度と掲示板を見ることはない。


 そう思った。


 翌朝。


 祖母が朝食を作っていた。


「直人」


「ん?」


「昨日の夜、バスの音しなかった?」


 箸が止まった。


「……バス?」


「うん」


「何時?」


 祖母は少し考えて。


「23時40分くらいだったかな」


「……」


 俺は何も答えなかった。


 祖母は味噌汁をよそった。


「変ねえ」


「何が?」


「昨日から」


「?」


「直人が二人いるような気がするのよ」


 味噌汁の椀を置く。


「……え?」


 祖母は笑った。


「何言ってるんだろうね、私」


「……ばあちゃん」


「ん?」


「俺って」


 聞こうとして。


 やめた。


 俺は自分の右手を見た。


 傷がある。


 ちゃんとある。


 だから。


 大丈夫。


 そう思った。


 その日の午後。


 美咲と恒一と三人で川へ行った。


 昨日と同じ場所。


 昨日と同じ夏。


 俺はカメラを取り出した。


「写真撮ろうぜ」


 恒一が笑う。


「またかよ」


「いいじゃん」


 美咲が言った。


「三人で撮ろう」


 三人で並ぶ。


 俺はタイマーをセットした。


 カメラを置く。


 川。


 山。


 蝉。


 夏。


 何も変わらない。


 シャッターが切れる。


 カシャッ。


 俺は写真を確認した。


 三人。


 俺。


 恒一。


 美咲。


 普通の写真。


 ただ。


 写真の端。


 遠くのバス停の前に。


 一人だけ。


 白いTシャツの子供が立っていた。


 俺は拡大しなかった。


 見なかったことにした。


 そのままカメラを閉じた。


 帰り道。


 美咲が言った。


「直人」


「ん?」


「……また来年も、ここ来ようね」


「ああ」


 俺は答えた。


「来年もな」


 その瞬間。


 山の奥から。


 バスのクラクションが聞こえた。


 プァ――。


 三人とも振り返った。


 誰もいない。


 道路だけ。


 夕暮れの道路だけが伸びている。


 美咲が小さく言った。


「……今の」


「聞こえた?」


「うん」


 恒一も頷いた。


 三人で道路を見る。


 何も来ない。


 しばらくして。


 俺たちは歩き出した。


 誰も気づかなかった。


 道路の向こう。


 古いバス停の影に。


 一人の少年が立っていたことに。


 白いTシャツ。


 短パン。


 左手に傷。


 そして。


 その少年の隣には。


 もう一人。


 右手に傷のある少年が立っていた。


 二人は。


 同じ方向を見ていた。


 バス停の時計。


 針は。


 23時40分を指している。


 けれど。


 その場所には。


 時計なんて存在しなかった。


 少年の一人が言った。


「帰ろう」


 もう一人が答えた。


「どこに?」


 少しの沈黙。


「……分からない」


 そして。


 二人とも笑った。


 その夜。


 伊毬市の古い掲示板に。


 一件だけ書き込みがあった。


 投稿者。


◆N4oT0


 本文。


«23:40までに帰れ。»


 その一分後。


 別の投稿が書き込まれた。


 投稿者は――


◆N4oT0


«帰ったのは、一人。»


 そして。


 誰も気づかなかった。


 その書き込みの日付が。


2000年8月18日


になっていたことを。

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