俺の記憶
カメラが、また一度だけ光った。
カシャッ。
俺は反射的に目を閉じた。
しばらく待ってから、ゆっくり目を開ける。
部屋は何も変わっていない。
机。
ベッド。
窓。
古いカメラ。
時計。
午前〇時五十二分。
「……何なんだよ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
カメラを持ち上げる。
液晶には、新しい写真が表示されていた。
撮影日時。
2000/08/18 23:40
まただ。
俺は写真を開いた。
滝野川旧道入口。
古いバス停。
その前に、子供たちが立っている。
恒一。
美咲。
白いシャツの直人。
そして――
俺。
右手に傷がある。
写真の中で、俺だけがこちらを向いていた。
「……俺、ここにいたのか?」
そう呟いた瞬間。
頭の奥が、ズキッと痛んだ。
「っ……!」
視界が白くなる。
耳鳴り。
蝉の声。
川の音。
誰かの笑い声。
そして。
シャッター音。
カシャッ。
「……」
俺は床に手をついた。
今のは。
記憶だった。
夢じゃない。
俺は知っている。
この場所を。
この日を。
2000年8月18日。
でも。
俺は8歳のとき、この町に来たことがあるのか?
記憶では――
ない。
少なくとも、俺の記憶では。
俺は8歳の夏を、ほとんど覚えていない。
祖母の家に来たことも。
川で遊んだことも。
美咲や恒一と四人で遊んだことも。
全部、写真の中の出来事だと思っていた。
でも。
違う。
俺は今、思い出した。
川辺に立っていた。
暑かった。
蝉がうるさかった。
美咲が水に入るなと言っていた。
恒一が石を投げていた。
そして――
もう一人の直人がいた。
「……」
そこで、記憶が途切れた。
俺は必死に思い出そうとした。
あの子は誰だった?
俺と同じ顔。
左手の傷。
カメラ。
白いシャツ。
でも。
俺はそいつを「知らない」。
いや。
違う。
知っているのに、知らないことになっている。
その感覚が、一番怖かった。
もう一度、写真を見る。
四人。
いや。
五人目がいる。
写真の端。
木の陰。
誰かが立っている。
今度は、顔が見えた。
「……俺?」
五人目も、俺だった。
ただし。
傷がない。
俺は写真を見つめた。
五人目。
右手に傷がない。
左手にも傷がない。
そして、カメラも持っていない。
ただ立っている。
こっちを見ている。
俺は拡大した。
さらに拡大する。
そこで。
気づいた。
五人目の口が動いている。
写真なのに。
まるで、今ここで話しているみたいに。
俺は無意識に口元を読む。
――「お前が撮ったんだろ」
「……」
写真を落とした。
床に当たったカメラが、勝手に次の写真を表示した。
今度は川。
2000年8月18日。
昼。
四人の子供。
恒一。
美咲。
白いシャツの直人。
そして――
カメラを構えている俺。
「……俺が撮ってる」
シャッターを切っている。
写真の中の俺が。
俺自身を撮影している。
意味が分からない。
俺はその写真を撮っていない。
撮れるはずがない。
なのに。
写真の右下には、
撮影者:直人
と表示されている。
「……じゃあ」
喉が乾いた。
「俺は誰なんだよ」
その瞬間。
パソコンから通知音が鳴った。
掲示板。
新着レス。
投稿者は――
◆N4oT0
«思い出した?»
俺は何も打ち込んでいない。
すぐに次のレス。
«お前は、2000年にいた。»
次。
«でも、お前は
2000年から来たんじゃない。»
次。
«2003年から来たんでもない。»
俺は画面を睨んだ。
«お前は「帰ったあと」に生まれた。»
「……は?」
意味が分からない。
すぐに返信を書く。
«お前は誰だ。»
送信。
数秒後。
«直人。»
「それは名前だろ」
«そう。»
«だから分からない。»
«俺が誰なのか。»
俺は息を止めた。
さらにレスが続く。
«2000年8月18日。»
«23:40。»
«バスに乗ったのは一人。»
«でも、帰ったのは二人。»
«その二人が
2003年に重なった。»
«片方には右手の傷。»
«片方には左手の傷。»
そこまで読んで。
俺は気づいた。
ずっと勘違いしていた。
「二人戻った」というのは。
二人の人間が2003年に来た、という意味じゃない。
二人分の記憶が、同じ場所に戻った。
だから。
俺の中に、覚えていない記憶がある。
だから写真には、俺が二人写る。
だから美咲は。
「直人が二人いた」と言った。
でも。
まだ分からないことがある。
なぜ俺には右手の傷がある?
なぜ、あの子には左手の傷がある?
そして。
五人目は誰なんだ?
掲示板が更新された。
«五人目を探すな。»
俺は手を止めた。
«五人目は「人」じゃない。»
画面を見つめる。
«あれは、お前が帰るときに置いてきたものだ。»
「……置いてきた?」
«記憶。»
次のレス。
«名前。»
次。
«時間。»
次。
«そして――»
投稿が止まった。
数秒後。
«「直人だった」という事実。»
俺は意味を理解できなかった。
でも。
その瞬間。
背後から声がした。
「違うよ」
振り返る。
美咲が立っていた。
「……美咲?」
いつの間に入ってきたのか分からない。
玄関は閉まっている。
鍵もかかっている。
なのに、美咲はそこにいた。
ただ。
様子がおかしい。
髪が濡れている。
服も濡れている。
まるで川から上がったばかりみたいだった。
「美咲……?」
「五人目は、人じゃない」
「掲示板にもそう書いてある」
「うん」
美咲は頷いた。
そして。
俺の手を見た。
「右手」
「……何?」
「その傷」
美咲の顔が青ざめる。
「それ、本当に直人の傷?」
「……どういう意味?」
「私、思い出した」
美咲が一歩近づく。
「2000年のあの日」
「23時40分の前」
「直人が二人いたんじゃない」
俺は黙った。
「一人だった」
「……」
「最初から、ずっと一人」
美咲が俺を見つめる。
「じゃあ、もう一人は?」
「もう一人じゃない」
美咲が首を振った。
「途中から、二人になったの。」
その瞬間。
部屋の電気が消えた。
真っ暗になる。
カメラの液晶だけが光っている。
そこに、新しい写真が表示された。
2000年8月18日。
23時39分。
バス停。
子供たち。
そして。
写真の中央にいる俺。
右手を見る。
傷がある。
その隣。
白いシャツの子供。
左手を見る。
傷がある。
そして二人の間。
誰もいないはずの場所に――
三つ目の影があった。
その影には。
傷がなかった。
美咲が小さく呟いた。
「……これ」
「何?」
「直人が帰る前に」
美咲の声が震えた。
「置いていったもの」
写真の三つ目の影が。
ゆっくりとこちらを向いた。
そして。
液晶の中で。
笑った。
――カシャッ。
写真が切り替わる。
23:40
文字が一つだけ表示された。
«帰るのは、一人。»
その下に。
«残るのは、一人。»
さらに。
«生まれるのは――»
そこで画面が消えた。
暗闇の中。
俺のすぐ隣から。
子供の声がした。
「……俺だよ」
俺は振り向けなかった。
その声が。
自分の声だったからだ。




