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23時40分

 シャッターが切れたあと、部屋は静かになった。


 時計を見る。


 23時40分。


 玄関の向こうから聞こえていた声も消えている。


 俺はカメラを握ったまま、しばらく動けなかった。


 さっきの写真。


 まだ見ていない。


 見るな、と言われたわけじゃない。


 むしろ、撮れと言われた。


 でも。


 13章の最後に見た書き込みが頭から離れない。


«二人を一緒に写すな。»


 それなのに、俺は撮ってしまった。


 玄関。


 俺。


 そして、向こう側にいる「もう一人」。


 もし写真に二人が写っていたら。


 何が起きる?


 怖かった。


 だけど、それ以上に知りたかった。


 俺は液晶を点けた。


 写真が表示される。


「……」


 玄関が写っている。


 俺の部屋。


 閉じたドア。


 何もいない。


「……?」


 おかしい。


 俺はシャッターを切ったとき、確かに玄関の前に立っていた。


 なのに、写真には誰もいない。


 さらに拡大する。


 ドアの下。


 暗い廊下。


 その奥に――


 赤い光。


 バスのテールランプ。


 そして。


 写真の隅に、文字があった。


 壁に貼られた紙。


 さっきまでなかった。


«帰ったことにするな»


 その下。


«23:40までに一人だけ»


「……一人だけ?」


 その瞬間、電話が鳴った。


 美咲だった。


「もしもし!」


『直人』


「美咲、今どこ?」


『……分からない』


「は?」


『さっきまで、川にいた』


「川?」


『うん』


 美咲の声が震えている。


『2000年の川』


 俺は黙った。


『私、思い出した』


「何を?」


『あの日のこと』


 蝉の声が電話越しに聞こえる。


 ジジジジジ――。


 その音の奥に、水の流れる音まで混じっていた。


『2000年8月18日』


「……」


『私たちは、四人で川に行った』


「うん」


『でも、四人目は……途中からいなかった』


「え?」


『最初はいた』


『写真にも写ってる』


『でも、途中から誰も、その子のことを覚えてない』


 心臓が嫌な音を立てた。


「じゃあ、なんで写真には残ってるんだよ」


『分からない』


「美咲」


『うん』


「その子……本当に俺だったの?」


 電話の向こうで、美咲が黙った。


『……似てた』


「似てた?」


『直人に』


「俺じゃない?」


『違うと思う』


「じゃあ誰なんだよ」


『分からない』


 少し間があった。


『でも、その子はずっと言ってた』


「何を?」


『帰らなきゃって』


「……」


『23時40分までに帰らなきゃって』


 俺は時計を見た。


 23時43分。


「でも、23時40分はもう過ぎてる」


『違う』


「え?」


『そうじゃない』


 美咲の声が低くなった。


『あの日の23時40分は、普通の23時40分じゃない』


 その言葉を聞いた瞬間。


 パソコンの画面が勝手に切り替わった。


 掲示板。


 新しいレス。


 投稿者。


◆N4oT0


«そう。


23:40は「時刻」じゃない。


境目だ。»


 続けて、もう一つ。


«2000/8/18 23:39


まだ四人。»


«23:40


一人が帰る。»


«23:41


三人になる。»


 そして最後に。


«でも、本当は


二人帰った。»


「……二人?」


 俺は呟いた。


 美咲が電話の向こうで聞き返す。


『何?』


「掲示板に書いてある」


『何て?』


「二人、帰ったって」


 美咲は黙った。


『……そう』


「知ってたのか?」


『ううん』


「じゃあ――」


『でも』


 美咲が遮った。


『私は、一人が帰るところしか見てない』


「……誰が?」


『直人』


「俺?」


『違う』


 また、その言葉だった。


『私が見たのは、直人じゃない直人』


 背筋が凍る。


『あの子がバスに乗った』


「バスに?」


『うん』


「でも、11章で見たとき……」


 俺は言葉を止めた。


 2000年。


 23時40分。


 バス。


 白いTシャツの子供。


 左手の傷。


 そして、俺。


 あのとき俺は、あの子がバスに乗ったのを見ている。


 なのに。


『直人』


「何?」


『あの子、バスに乗る前に何て言ったと思う?』


「……知らない」


『「俺が行く」って』


 息が止まる。


『「未来に行く」って』


「……」


『それから』


 美咲が言った。


『私にカメラを渡した』


「カメラ?」


『うん』


「じゃあ、あのカメラは――」


『今、直人が持ってるものと同じ』


 俺は手元を見る。


 古いデジタルカメラ。


 何度も写真を撮った。


 2000年。


 2002年。


 2003年。


 全部、こいつで。


「……待って」


 あることに気づいた。


「じゃあ、あの子がカメラを持ってたってことは」


『うん』


「2000年に、あのカメラが存在してた?」


『そう』


「でも、そのカメラは俺が――」


 言葉が止まる。


 俺は自分の記憶を思い返した。


 このカメラを、いつ手に入れた?


 祖母の家にあった。


 ずっと昔から。


 俺はそう思っていた。


 でも。


 誰から?


 いつ?


 思い出せない。


「……美咲」


『うん』


「俺、このカメラ……いつから持ってた?」


 沈黙。


『知らない』


「俺も分からない」


『……』


「なあ、美咲」


『何?』


「2000年のあの日」


「このカメラで、誰が写真を撮ったんだ?」


 美咲は答えなかった。


 代わりに、遠くで何かが鳴った。


 プァ――。


 低いクラクション。


 バス。


『直人』


「……何?」


『今、そっちにバスの音した?』


「ああ」


『私のところでも聞こえた』


「……」


『でも、ここ』


 美咲の声が震える。


『2000年なの』


 電話が切れた。


 俺は立ち上がった。


 窓を見る。


 外は真っ暗。


 時計は23時47分。


 なのに。


 庭の向こうから。


 赤い光が見えた。


 バスが走っている。


 古い道を。


 ありえない速度で。


 そして。


 そのバスの窓から、誰かがこちらを見ていた。


 白いシャツ。


 子供。


 左手。


 傷。


「……直人」


 俺は無意識に名前を呼んだ。


 バスが止まった。


 家の前で。


 ドアが開く。


 誰も降りてこない。


 ただ、車内の奥に一人だけ座っている。


 俺と同じ顔。


 左手に傷。


 そいつが、窓越しに俺を見る。


 そして。


 口を動かした。


 声は聞こえなかった。


 でも、何を言っているのか分かった。


 ――帰って。


 次の瞬間。


 カメラが震えた。


 液晶に文字が表示される。


«2000年8月18日 23:40»


 その下。


«撮影者:直人»


 そして、その写真が開いた。


 そこには――


 バス停。


 四人の子供。


 そして。


 その後ろに立っている、もう一人の俺。


 合計で五人。


「……五人?」


 写真を拡大する。


 おかしい。


 さっきまで四人だったはずだ。


 俺。


 恒一。


 美咲。


 もう一人。


 それなのに。


 写真には、もう一人いる。


 五人目は。


 カメラを持っていた。


 顔は写っていない。


 ただ、手だけが見える。


 右手。


 傷がある。


 俺と同じ。


 俺は写真を見つめた。


 そして気づいた。


 写真の中の「俺」が。


 一人、こちらを向いていた。


 右手に傷。


 もう一人の俺は。


 左手に傷。


 そして。


 五人目は――


 傷がない。


 その瞬間。


 写真の中の五人目が、ゆっくり顔を上げた。


 写真なのに。


 目が合った。


 そして、口が動いた。


 声は聞こえない。


 でも。


 今度は、はっきり読めた。


 ――まだ一人、帰ってない。


 液晶が暗くなった。


 窓の外を見る。


 バスはもういない。


 ただ、道路の真ん中に。


 一枚の写真が落ちていた。


 俺は拾わなかった。


 怖かったからじゃない。


 写真の裏側に。


 何か書いてあるのが見えたからだ。


 白い紙。


 黒い文字。


«次は、14年前じゃない。»


«14年後だ。»


 俺はそこで初めて気づいた。


 2000年から2003年へ。


 俺はずっとそう思っていた。


 時間を戻ったり、進んだりしているのだと。


 でも。


 もし違うなら。


 もし、この出来事が一方向じゃないなら。


 俺たちは――


 同じ三年間を、何度も繰り返している。


 そして。


 23時40分は、そのたびに。


 一人を選んでいる。


 誰かを。


 「帰す」ために。


 俺は写真から目を逸らした。


 そのとき。


 背後から声がした。


「直人」


 振り返る。


 誰もいない。


 ただ。


 机の上のカメラだけが。


 ゆっくりと。


 俺のほうを向いていた。

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