四人目の名前
目を開けたとき、部屋は真っ暗だった。
時計を見る。
午前0時21分
さっきまで聞こえていた足音は、もうしなかった。
「……直人」
スマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
玄関のほうを見る。
誰もいない。
鍵も閉まっている。
なのに、さっき確かに聞こえた。
子供の声で、
――直人。
――開けて。
あれが夢だったとは思えなかった。
俺はベッドから降りて、机の上のカメラを手に取った。
電源は切れている。
液晶も真っ黒。
なのに、シャッターボタンに触れた瞬間、
カシャッ。
と、小さく音がした。
「……え?」
液晶が勝手に点いた。
一枚の写真が表示されている。
撮影日時。
2000/08/18 23:40
また、それだった。
写真には古いバス停が写っていた。
滝野川旧道入口。
その前に、四人の子供が立っている。
恒一。
美咲。
そして――
直人。
もう一人。
顔が見えない。
いや。
顔だけじゃない。
身体の輪郭そのものが、写真の暗闇に溶けていた。
ただ、右手だけが写っている。
白いシャツ。
短パン。
そして、その手にはカメラ。
俺と同じ型だった。
「……なんなんだよ」
写真を拡大する。
そのとき、気づいた。
四人目の子供の腕。
手首の少し上。
そこに、小さな傷がある。
俺の右手にもある傷。
でも。
違った。
写真の子供は――
左手に傷があった。
「……」
俺は自分の右手を見る。
右手の傷。
写真を見る。
左手の傷。
同じ顔。
同じカメラ。
違う傷。
「じゃあ……あいつは、俺じゃない?」
口に出した瞬間。
カメラの液晶が消えた。
そして、メールの着信音が鳴った。
一通。
差出人は、
俺自身。
件名はなかった。
本文だけ。
«四人目の名前を思い出せ。»
俺はしばらく画面を見つめていた。
返信しようとして、やめた。
代わりに美咲へ電話をかける。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
出ない。
四回目で切れた。
もう一度かける。
今度は、すぐに繋がった。
『……もしもし』
「美咲?」
『うん』
声は普通だった。
でも、どこかおかしい。
遠くから聞こえているみたいだった。
「さっきのこと、覚えてる?」
『……何のこと?』
「2000年のこと」
沈黙。
『……』
「四人目のこと」
また沈黙。
そのあと、美咲が小さく言った。
『……名前だけ、思い出した』
「なんて名前?」
『……』
「美咲?」
『直人』
背中が冷たくなった。
「それは俺の名前だろ」
『うん』
「じゃあ、四人目も直人だったってこと?」
『……違う』
「え?」
『直人は一人じゃなかった』
心臓が一度、大きく鳴った。
「どういう意味だよ」
『分からない』
美咲の声が震えていた。
『でも、私……覚えてる』
「何を?」
『2000年の8月18日』
「……」
『私たち、四人で遊んでた』
「うん」
『恒一と、私と……直人と……』
そこで美咲は黙った。
「もう一人は?」
『……』
「美咲?」
『名前が出てこない』
「さっき、直人って言っただろ」
『うん』
「じゃあ、それが名前じゃないのか?」
『違う』
「じゃあ何なんだよ」
しばらくして。
美咲が言った。
『あの子は、自分のことを直人って呼んでた』
「……自分のこと?」
『うん』
『私が「名前は?」って聞いたら』
『その子、笑って……』
美咲の声が小さくなる。
『「俺、直人」って』
「……」
『でも』
「でも?」
『そのあと、もう一人の直人が来た』
俺は息を止めた。
「……もう一人?」
『うん』
『だから四人だった』
「待って」
頭の中が追いつかない。
「恒一、美咲、俺。それともう一人だろ?」
『違う』
「何が?」
『そのときの私は……』
美咲が言葉を探すように、ゆっくり話した。
『直人が二人いると思ってた』
「……」
『でも、怖くなかった』
「どうして?」
『だって』
美咲は少し笑った。
その笑い方が、昔の美咲そのものだった。
『二人とも、直人だったから』
電話の向こうで、何かが落ちる音がした。
ガタン。
「美咲?」
返事がない。
「おい、美咲」
『……ねえ、直人』
「何?」
『今、そっちにいる直人は……どっち?』
「……は?」
『右手に傷がある?』
俺は右手を見る。
「ある」
『……そっか』
美咲が安心したように息を吐いた。
『じゃあ、まだ大丈夫』
「何が大丈夫なんだよ」
『左手の直人は』
「……」
『まだ帰ってないから』
電話が切れた。
「……帰ってない?」
画面を見る。
通話終了。
俺はすぐにかけ直した。
繋がらない。
何度かけても同じだった。
そのとき。
玄関のほうから、
コン。
と音がした。
ノック。
一回。
コン。
二回。
コン。
三回。
俺は動けなかった。
そして、向こう側から声がした。
子供の声。
『直人』
俺の名前。
『いる?』
俺は返事をしなかった。
『……お兄ちゃん』
その言葉を聞いた瞬間。
背筋に寒気が走った。
お兄ちゃん。
あの掲示板。
あの書き込み。
«お兄ちゃん、まだ起きてる?»
俺は玄関を見つめた。
『開けて』
小さな声。
『俺だよ』
カメラを握る。
液晶が勝手に点いた。
新しい写真が一枚、表示されていた。
撮影日時。
2000/08/18 23:39
場所は、滝野川旧道入口。
写真の中央に、二人の少年が立っている。
一人は、白いシャツ。
左手に傷。
もう一人は――
俺だった。
右手に傷。
二人は向かい合っている。
そして。
写真の下のほう。
地面に、誰かが指で書いたような文字があった。
「どっちが帰る?」
その下に、さらに小さな文字。
「一人は帰れる」
俺は写真を見たまま、玄関の声を聞いていた。
『直人』
『早く』
『23:40になる』
時計を見る。
23:39。
あと一分。
その瞬間。
掲示板を確認したくなった。
パソコンを起動する。
回線が繋がるまで、異様に時間がかかった。
ようやく画面が表示される。
あのスレッド。
最新レスを開く。
そこには、見覚えのない書き込みが一つだけあった。
投稿者。
◆N4oT0
本文。
«2000年8月18日
俺は、二人いた。
でも、四人だった。
だから一人が帰った。
もう一人は、帰れなかった。
2003年の直人へ。
お前が「俺」だと思ってるほうは、どっちだ?»
投稿時刻。
23:39
俺は画面を見つめた。
そして、その下に。
新しいレスが表示された。
投稿者。
◆N4oT0
本文。
«もうすぐ23:40。
写真を撮れ。
ただし、
二人を一緒に写すな。»
その瞬間。
玄関の向こうで、子供が笑った。
『間に合わなくなるよ』
時計の秒針が、
23:39:58。
23:39:59。
そして――
23:40。
カシャッ。
カメラが勝手にシャッターを切った。
俺は、画面を見ることができなかった。
なぜなら。
玄関の向こうから聞こえてきた声が、
今度は子供のものではなかったからだ。
『……俺だよ』
俺と、まったく同じ声だった。




