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12/17

23時39分

 蝉の声がしていた。


 昼間みたいに明るい。


 川の水面が、太陽の光を反射している。


 なのに。


 俺は知っていた。


 ここは夜だ。


 時刻は23時39分。


 ありえない。


 俺は川原に立っていた。


 足元の砂。


 湿った土。


 草の匂い。


 全部、本物みたいだった。


「……ここ、どこだ」


 俺が呟くと、恒一が振り返った。


「何言ってんだよ」


 子供の恒一。


 俺が知っている恒一より、ずっと小さい。


「早く行こうぜ」


「どこへ?」


「バス停」


 心臓が嫌な音を立てた。


 美咲もいた。


 幼い美咲。


 俺を見て、少し困ったように笑っている。


「直人、どうしたの?」


「……美咲」


「なに?」


「俺たち、何歳?」


 美咲が不思議そうな顔をした。


「八歳」


 八歳。


 俺は自分の手を見る。


 確かに小さい。


 右手の傷もない。


 今の俺ではない。


 なら。


 俺は――


 この子供の直人の意識なのか?


 それとも。


 この場所そのものが、過去なのか。


「なあ」


 少し離れたところにいる、白いTシャツの子供を見る。


 さっきから、そいつだけが何も言わない。


 俺と同じ顔。


 左手の傷。


 カメラ。


「お前、誰?」


 子供は笑った。


「直人」


「俺も直人だ」


「知ってる」


「じゃあ、どっちが本物なんだよ」


 子供は首を傾げた。


「本物って何?」


 答えられない。


 その子供はカメラを持ち上げた。


「写真撮ろうよ」


「……写真?」


「うん」


 俺は嫌な予感がした。


 このカメラ。


 今の俺のカメラと同じだ。


 いや。


 正確には違う。


 古い。


 でも。


 レンズの傷の位置まで同じだった。


「そのカメラ、どこで買った?」


「もらった」


「誰から?」


 子供は答えなかった。


 代わりに、川の向こうを指差した。


「もうすぐ来るよ」


 ゴォォォ……


 遠くから音がする。


 エンジン。


 俺は立ち上がった。


「バス……?」


 恒一が笑った。


「そうだよ」


 美咲の顔だけが青ざめる。


「……来ちゃった」


「何が?」


「バス」


 23:39。


 まだ一分ある。


 俺は思った。


 逃げればいい。


 ここから離れればいい。


 そうすれば。


 2000年の事件を変えられる。


 そう考えて走り出そうとした。


 しかし。


 足が動かない。


「……え?」


 身体が動かない。


 まるで地面に縫い付けられているようだった。


 恒一も。


 美咲も。


 白いTシャツの子供も。


 全員、動かない。


 俺だけじゃない。


 時間そのものが止まっている。


 いや。


 違う。


 動いているのは。


 俺の意識だけだった。


 時計を見る。


 23:39。


 秒針が進まない。


 ゴォォォ……


 バスの音だけが近づいてくる。


 白いTシャツの子供が、俺を見る。


「怖い?」


「……怖いよ」


「そっか」


「お前は怖くないのか」


「うん」


「なんで?」


 子供は笑った。


「もう帰ったことがあるから」


「……は?」


 俺は意味が分からなかった。


「帰ったことがある?」


「うん」


「いつ?」


「今から」


 その瞬間。


 時計の秒針が動いた。


 23:40。


 バスが現れた。


 旧道の向こうから。


 ゆっくり。


 ゆっくり。


 古いバスが近づいてくる。


 黒い行き先表示。


 読めない。


 でも。


 俺には分かった。


 行き先は――


 滝野川。


 バスが停まる。


 プシューッ。


 ドアが開く。


 運転席を見る。


 誰もいない。


「……無人?」


 恒一が呟く。


 すると。


 バスの奥から声がした。


『乗る人』


 俺たちは誰も動かない。


『帰る人』


 声が響く。


『一人』


 俺は白いTシャツの子供を見る。


 そいつは俺を見る。


 そして。


「俺が行く」


 そう言った。


「待て!」


 俺は腕を掴んだ。


 子供の身体は冷たかった。


 氷みたいだった。


「乗るな!」


 子供は笑った。


「でも、帰らないと」


「どこに?」


「ここじゃないところ」


「どこだよ!」


「未来」


 俺の手から力が抜けた。


「……未来?」


「うん」


 子供はバスに乗った。


 俺は追いかけようとした。


 でも。


 身体が動かない。


 美咲が泣いている。


 恒一が叫んでいる。


 バスのドアが閉まる。


 プシューッ。


 そして。


 バスは走り去った。


 赤いテールランプが小さくなる。


 俺はその場に立ち尽くした。


 その時。


 背後から声がした。


「直人」


 振り返る。


 美咲がいる。


 でも。


 その顔は八歳のものじゃなかった。


 2003年の美咲だった。


「……美咲?」


「これ、見て」


 美咲が手に持っていたもの。


 写真。


 俺は受け取った。


 そこには。


 今の川原が写っている。


 四人の子供。


 そして。


 バス。


 23:40。


 でも。


 おかしい。


 写真を撮っている人物がいる。


 画面の手前。


 カメラを構えている。


 その手。


 右手に傷がある。


「……俺?」


 美咲は首を振った。


「違う」


「じゃあ誰だよ」


「分からない」


 写真を裏返す。


 文字が書かれていた。


『2000年8月18日』


『23:40』


『帰ったのは一人』


 その下。


『でも、戻ったのは二人』


「二人……?」


 俺が呟いた瞬間。


 景色が歪んだ。


 川。


 木。


 空。


 全部が水面みたいに揺れる。


 俺は目を閉じた。


 そして。


 目を開ける。


 自分の部屋だった。


 机。


 ベッド。


 パソコン。


 時計。


 00:17。


「……戻った?」


 俺は自分の手を見る。


 高校生の手。


 右手に傷。


 戻っている。


 いや。


 戻った?


 本当に?


 俺は机の上を見た。


 写真が一枚。


 2000年8月18日。


 四人の子供。


 バス。


 23:40。


 そして。


 その後ろに立っている俺。


 今度は。


 顔がはっきり写っていた。


 俺。


 高校生の俺。


 写真の中の俺は。


 こっちを見て笑っていた。


 その手には。


 カメラ。


 そして。


 写真の端に、小さな文字。


『撮影者:直人』


「……」


 俺はカメラを確認した。


 撮影履歴。


 最後の写真。


 2000年8月18日。


 23:40。


 俺が撮ったことになっている。


「……俺、撮ってない」


 そう呟いた。


 その瞬間。


 携帯が鳴った。


 メール。


 差出人――◆N4oT0。


『撮ったよ』


 俺は返信した。


『誰が?』


 返事。


『お前』


『でも、今のお前じゃない』


 俺は画面を見つめた。


『2000年のお前でもない』


 次の一行。


『2003年のお前でもない』


 そこで。


 初めて。


 俺は気づいた。


 写真の中にいる「俺」は。


 時間の違う俺じゃない。


 時間そのものから切り離された俺なのかもしれない。


 メールが続く。


『23:40に帰ったのは一人』


『でも』


『帰ってきたのは二人』


 俺は震える指で入力した。


『もう一人は誰だ』


 返信はすぐだった。


『お前が一番知ってる』


 その直後。


 家の電話が鳴った。


 ジリリリ。


 俺は受話器を取った。


『もしもし』


 子供の声。


 八歳くらい。


 俺は息を止めた。


『直人?』


「……誰?」


『俺だよ』


「……」


『2000年の』


 俺は何も言えなかった。


『さっきバスに乗っただろ』


「……お前が乗ったんだろ」


『うん』


「じゃあ、今どこにいる?」


 電話の向こうで。


 少しだけ笑う声。


『お兄ちゃんの家』


 俺は振り返った。


 玄関。


 誰もいない。


 でも。


 玄関の外から。


 小さな足音がした。


 トン。


 トン。


 トン。


 そして。


 ドアの向こうから。


 子供の声。


「直人」


 俺は動けなかった。


「開けて」


 声は。


 俺自身の声だった。

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