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帰ってきた人

 家の電気が消えた。


 突然だった。


 冷蔵庫の音も。


 扇風機の音も。


 パソコンのファンの音も。


 全部消えた。


 暗闇の中で、美咲の息遣いだけが聞こえる。


「……直人」


「いる」


「動かないで」


 声が震えていた。


「なんで?」


「いいから」


 俺は動かなかった。


 窓の外から、田んぼのほうを眺める。


 月明かりがある。


 だから完全な暗闇ではない。


 それでも。


 家の中だけが異様に黒かった。


 美咲が小さな声で言った。


「さっき……直人の後ろにいた」


「誰が?」


「四人目」


 心臓が跳ねた。


「見たのか?」


「……見てない」


「じゃあ、なんで分かるんだよ」


 美咲は答えなかった。


 しばらくして。


「匂いがした」


「匂い?」


「川の匂い」


 俺は黙った。


 確かに。


 部屋の中に、湿った土のような匂いがする。


 夏の川原で嗅いだような匂い。


 美咲が続けた。


「2000年の夜も、同じ匂いがした」


「……覚えてるのか?」


「少しだけ」


「何を?」


 美咲は暗闇の中で、ゆっくり話し始めた。


「四人で川に行ったこと」


「うん」


「帰る時間になったこと」


「うん」


「直人が、写真を撮ってたこと」


「……俺が?」


「うん」


 俺は眉をひそめた。


「でも、2000年のビデオには四人目がカメラを持ってた」


「そう」


「じゃあ、俺じゃないだろ」


 美咲は黙った。


 そして。


「直人だったよ」


「え?」


「カメラを持ってたのは、直人」


「……」


「でも」


 美咲の声が小さくなる。


「私たちが呼んでた直人と、カメラを持ってた直人は、同じじゃなかった」


 俺は言葉を失った。


「どういう意味だよ」


「分からない」


「じゃあ、なんでそんなこと覚えてるんだ」


「分からないって言ってるでしょ」


 珍しく、美咲が強い口調になった。


 その直後。


 外から音がした。


 カタ。


 石を踏んだような音。


 俺と美咲は同時に窓を見る。


 誰かいる。


 そう思った。


 でも。


 窓の外には何もいない。


 俺は懐中電灯を探した。


 机の引き出しを開ける。


 その時。


 カメラに手が触れた。


 電源が入った。


 液晶に写真が表示される。


 さっき撮影されたものだった。


 家の前。


 俺。


 白いTシャツの男。


 そして。


 その奥に美咲。


「……待って」


 美咲が画面を覗き込む。


「これ、私?」


「そうだろ」


「違う」


 美咲は首を振った。


「この写真を撮った時、私ここにいなかった」


「……」


 確かに。


 そうだった。


 俺が外で写真を拾った時、美咲はまだ来ていない。


 つまり。


 この写真は。


 現実をそのまま写したものじゃない。


 俺は写真を拡大した。


 美咲の後ろ。


 壁。


 そこに、何か文字が書かれている。


『2000』


 さらに拡大。


『2000 8 18』


 そして。


 美咲の足元。


『23:40』


 俺は写真を見つめた。


「……この写真、今じゃない」


 美咲が言った。


「じゃあ、いつ?」


 答えられない。


 その時。


 停電が復旧した。


 パッ。


 部屋が明るくなる。


 俺は思わず目を閉じた。


 そして。


 目を開けた。


 美咲がいない。


「……え?」


 さっきまで隣にいた。


 確かにいた。


 俺は家中を探した。


 台所。


 廊下。


 玄関。


 いない。


 玄関の鍵は閉まっている。


 窓も閉まっている。


 俺は携帯を取り出した。


 美咲に電話する。


 呼び出し音。


 出ない。


 もう一度。


 出ない。


 三回目。


 留守番電話になった。


 俺は切ろうとした。


 その時。


『もしもし』


 美咲の声。


「美咲?」


『直人?』


「どこにいる?」


『……家』


「どこの?」


『自分の家』


「今どこにいるんだよ!」


 電話の向こうで沈黙。


 そして。


『2000年』


 俺の背中が冷たくなった。


「……は?」


『ごめん』


「何言ってんだよ」


『私、思い出した』


「何を?」


『四人目の名前』


 電話の向こうで、美咲が泣いていた。


『直人じゃない』


「……」


『あの子の名前』


 そこで。


 電話が切れた。


 俺は何度もかけ直した。


 繋がらない。


 俺は机の上の写真を掴んだ。


 さっきまでそこにあったはずの写真。


 2000年8月18日。


 四人の子供。


 もう一度見る。


 三人しかいない。


 俺。


 恒一。


 美咲。


「……四人目が消えた?」


 違う。


 写真から消えたんじゃない。


 最初から。


 三人しかいなかった。


 俺はアルバムを開いた。


 同じだった。


 三人。


 四人目の存在を示していたはずの写真が。


 全部、三人になっている。


 ビデオも確認する。


 再生。


 四人。


 ――だったはず。


 今は三人。


 四人目が映っていた場所には、空白だけが残っている。


「……何だよ、これ」


 俺は画面を止めた。


 停止した映像の端。


 そこに、一瞬だけ文字が映った。


『帰った人間は、最初からいなかったことになる』


 俺は息を止めた。


 その瞬間。


 パソコンが勝手に起動した。


 掲示板。


 新しい書き込み。


 ◆N4oT0


『美咲は思い出した』


 俺はキーボードを叩いた。


『何を?』


 数秒。


 返事。


『四人目の名前』


『誰なんだ?』


 しばらく沈黙。


 そして。


『お前』


 俺は固まった。


『四人目の名前は、直人』


「……」


 違う。


 そんなはずがない。


 俺は直人だ。


 四人目も直人。


 だったら。


 俺は三人目なのか。


 四人目なのか。


 画面に新しい文章が表示された。


『そこが違う』


『名前が同じなだけ』


『2000年8月18日に、四人いた』


『直人』


『恒一』


『美咲』


『そして、もう一人』


 俺は画面を見つめる。


『そいつも直人だった』


 そこで。


 新しい書き込み。


『でも、2003年のお前は三人目だ』


 俺は意味が分からなかった。


 三人目?


 何を数えている?


 俺は掲示板に打ち込んだ。


『じゃあ、俺は誰なんだ』


 返事。


『帰ってきた人』


 その一言のあと。


 掲示板の表示が崩れた。


 文字が大量に流れていく。


 その中に。


 一つだけ、はっきり読める文章があった。


『2000年8月18日』


『23:40』


『直人が一人、帰った』


 そして。


『残った直人が、今のお前だ』


 俺は椅子から立ち上がった。


 窓の外を見る。


 旧道。


 暗い道路。


 そこに。


 白いTシャツの男が立っていた。


 今度は顔が見えた。


 俺と同じ顔。


 でも。


 俺よりずっと疲れた顔をしていた。


 男は口を動かした。


 声は聞こえない。


 でも。


 何を言っているのか分かった。


 ――帰れ。


 男が右手を上げる。


 カメラ。


 シャッター。


 カシャッ。


 その瞬間。


 俺の目の前が真っ白になった。


 そして。


 気づいた時。


 俺は川原に立っていた。


 蝉が鳴いている。


 昼間のように明るい。


 水が流れている。


 目の前に。


 恒一がいた。


 美咲もいる。


 二人とも子供だった。


「直人!」


 恒一が笑った。


「遅ぇぞ!」


 俺は声が出なかった。


 自分の身体を見る。


 小さい。


 服も違う。


 右手を見る。


 傷がない。


 そして。


 少し離れた場所に。


 白いTシャツの子供が一人立っていた。


 その子供が振り返る。


 俺と同じ顔。


 左手に傷。


 手にはカメラ。


 その子供が笑った。


「やっと来た」


 俺は息を止めた。


「……誰だよ」


 子供は答えた。


「俺だよ」


 そして。


 川の向こうから。


 バスのクラクションが聞こえた。


 プァン。


 時刻は。


 23:39だった。

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