第二十話 内側の彩り
どうしようか。
ノアは高鳴る自身の拍動を意識しつつ、扉一枚隔てた廊下からの音に耳を傾けた。使用人たちの息遣いがそこにはある。
どうしよう。
走ったせいで息が荒い。髪がぼさぼさだ。色は兎も角、自慢の髪だ。母譲りの艶やかで芯のある流麗なものだ。
梳かないと。
現実逃避し始める己の思考を堰き止めようとノアは首を左右にブンブンと振った。そんなことを考えている場合ではないと、理性が警鐘を鳴らしている。
荒い息と上がった体温が落ち着くまで、その僅かな時間ノアは息を殺して薄暗い部屋の隅で縮こまっていた。
閉じたカーテンの小さな隙間から差し込んむ日差しが、薄っすらと室内を朧げに表現する。ソファの上には丁寧にたたまれた男物の衣服が。ベッドの上には脱ぎ散らかされた女物の衣服がある。
……なんでだろう。
疑問は自身の行動を指している。ノアは首筋に張り付いた髪の毛を手で静かに払い除けた。
庭師の声が聞こえた。
目元を擦りながら徐に上体を起こしたノアは、暫く彼等の喋り声を聞き、そしてハッと微睡の中にいた意識を覚醒させた。頭上、見上げれば高く燦然と輝く球体がある。今は何時だという疑問は、押し出されるように危機感に変わっていった。
ノアは普段自室に籠るか、或いは人のいない時間帯をついて庭の木々の隙間に隠れるようにして寝そべっているかのどちらかだった。人を避けるようになって久しい彼女は、そうしてストレスや憂鬱な気分から逃れていたし、また起因となるものから遠ざかるようにしていた。
だが昨日はいつも通りではなかった。
失敗した、と後悔はノアの背中を押して茂みの中から飛び出させた。
背後から使用人の声が聞こえる。それはこちらを認めたが故の声だ。物珍しさを含みつつ、それはやはり崇敬の響きが込められている。ノアは一心に逃げた。
屋敷の内にも外にも人がいる。どこへ行っても誰かがいる。ノアは投げかけられる視線から逃げ場を求めて一心不乱に走り回った。
そうしてやっとの思いで辿り着いた場所がここだった。
暗い部屋だ。どうしてよりによってこの場所に逃げ込んでしまったのかは、考えても仕方がないような気がした。手近なところにあった部屋がここだったのだ。だが考え方を変えてみると、納得のいくところもあった。昨夜ここは光に満ちていた。使者のいたところだと考えれば、ノアは寧ろ納得が出来たのだ。
ノアはゆっくりと立ち上がった。もう息は落ち着いていた。汗も引いた。
彼等は、使者たちはどこだろうか。
室内を見回しながら一つ疑問を得る。薄闇の中に黒の双眸を探す。唯一の希望を探す。
「うま」
目の前の少女の端的な感情表現がどこか面白くて、歩はその表情を覗き込んだ。熱いのだろう。真白はハフハフと空気を口内に送り込みながら咀嚼を続けている。
「気に入ってもらえて嬉しいよ」
手に持ったスプーンを焦げ茶色のチーズに差し込ませている真白を眺めながら、テーブルの傍に立つ青年が屈託のない笑みを浮かべた。白色のオックスフォードシャツに黒のエプロン姿は、店内を通ってこの倉庫に案内された時、チラリとカウンターの奥の調理スペースで見かけた人物と一致する。透き通るようなエメラルド色の瞳とそれを縁取る長い睫毛を見間違えるはずがない。
青年はお盆からコースターを二つ、歩と真白の前に移し、その上に飲料の注がれたグラスを置いた。濃黄色の液体の中に沈むいくつかの氷が、明かりに反射してキラキラとしている。
「甘いもの、といっても、柑橘系特有の甘酸っぱさになっちゃったけどいいかな?」
青年の問いに真白が二つ返事で返す。真白はドリアに夢中になっていた。
「よっぽどお腹が減っていたのかな。こうして美味しそうに食べてもらえると、料理人としての冥利に尽きるよ」
クスクスと青年が笑う。彼はお盆を脇に挟んでこちらに視線を向けた。
「僕はモンブラン。ロクと一緒にこの喫茶店を営んでいる者です。どうぞよろしく」
青年、モンブランはそう言って歩に手を伸ばした。歩はその手を握り返す。
「霧島歩です。よろしくお願いします」
歩は緊張を感じた。料理を運んでくるのはロクだろうと思っていたから、扉を開けて倉庫に入ってきた人物が彼女ではないことにまず驚いた。そして異様なまでの距離の近さに歩は緊張した。彼が喫茶店で働く人間だからだろうか。それにしてはこちらに踏み込んでくると歩は直感めいたもので感じていた。姿勢を正し、未だスプーンに手を伸ばせない歩に、握手を終えたモンブランが流れるような手の動きを以って食事を促す。
「ドリアの中でも一番の人気を誇るチーズカレードリアです。どうぞ召し上がれ」
腕によりをかけたんだ、張り付いたような笑顔を浮かべる目の前の青年に、歩はなんとか苦笑で返した。その気味の悪さから逃れるように、いただきますと合唱してスプーンを持った。視界の中心にドリアを据える。その表面からは湯気が立ち、食欲をくすぐるにおいが鼻腔を刺激する。スプーンを差し込むと、手応えは思っていたより軽い。歩は掬ったドリアを恐る恐る口に運んだ。
口内を熱が支配する。
「あつッ!」
手で口を覆う歩を見て、モンブランが笑みを深めた。
「落ち着いて落ち着いて。ゆっくりと」
彼の指示に従い、歩はどうにかドリアを食べた。橙色の液体を急いで口に含み口内を冷やす。甘酸っぱい液体は無性に食欲を誘った
「お店が落ち着くまでもう少しかかるからゆっくり食べて。そっちの方がロクも君達も気兼ねなく顔を合わせられるはずだよ」
どうにか一息をついた歩にモンブランがそう告げる。彼はそのまま真白に手を伸ばし、先と同じような自己紹介を真白にした。
「アンタが作ったのか?」
口の端にチーズをつけたまま真白がモンブランにそう尋ねた。
「そうだよ」
胸を張って答えたモンブランに、真白が感嘆の声を上げる。このカレーは食べられる、と真白の発言に歩はいつかのカレーパンを思い出した。
真白は掬ったドリアに息を吹きかけ、そしてパクリと口内に運んだ。ドリアは湯気を立てている。真白は口の中に空気を送りながら咀嚼をし、器の中のドリアを切り崩す手には淀みがない。その様子をモンブランはジッと見つめている。ややあって彼は深い息を一つついた。
「よかった」
グラスの中で氷どうしがぶつかり合って、歯切れのいい音を鳴らした。
「……え?」
唐突なモンブランの言葉に歩は反射的にそう返していた。モンブランは正しく肩から力を抜いたといった具合で落ち着き払っている。
「君達が、ロクがケガを負わせた人物だと彼女から聞いたんだ。そしてトワイライトの使者ではないということも。……僕は君達を警戒していた。使者ではないとしても、黒髪黒目なんて普通じゃないことは確かだから。だけどそれは杞憂だったようだね。君達が血の通った何の変哲もない人間で安心した」
そういって破顔するモンブランの様子に、歩は冷や水を浴びせかけられたような気持ちになった。脱力は警戒を解いた合図だったようで、目の前の青年は張り付いたような笑顔ではなく、自然体で今笑っている。申し訳なさそうな苦々しい笑みだ。
「ごめんね。僕は君達のことを疑っていた」
モンブランはそう言ってやおら頭を下げた。何度も見てきた光景だと、歩は既視感を覚える。
「良いですよ。……良いんです」
歩はその光景に息が詰まるような思いだった。敵視されていた。ただその事実が何故だかこれほどなく悲しかった。同時に歯痒い思いだった。ジン達の言葉を思い出す。たったこれだけのことなのに、と歩はやり切れない思いを呑み込むために、湯気を立てるドリアをスプーンで切り取った。チーズに覆われて見えなかったその下は、こうしてその覆いを取り除くとよく見えるようになった。米の白さと溶けたチーズと混ざったカレーの色。単純でありながらも複雑な色がそこにはある。歩はそれを認めながら勢いよくドリアを頬張った。
熱い。口の中が焼けてしまいそうだ。歩はあまりの熱さに吐き出したくなった。だがどうにか呑み込んだ。黒、その色がどれ程特別なのかここにきてようやく理解できたような気がした。
「ゆっくりしていってほしい。これは僕と彼女の罪滅ぼしだ」
ホールが落ち着いたら呼びに来るよ、そう最後に告げてモンブランは戻っていった。扉が後ろ手に閉められると、静寂が押し寄せてきた。あの扉の向こうからは喧騒が聞こえた。この街の息遣いがそこには存在している。
歩はグラスに口をつけた。酸っぱい。
ドリアを切り取って、スプーンで掬う。簡単なことだ。しかし、いざ頬張ってみるとその熱さに歩は難儀する。熱さの中にようやく味が掴めてきた。このドリアはとても美味しかった。




