第十七話 解消と発生
真白はついとため息をつく。バカバカしい話だと呆れの表情は、真白の集中をかき乱す。こんな話でも聞いておくべきだと判断した数刻前の自身を呪った。とんでもない話だ。それを真面目腐った顔で物語る目の前の他人達と、深刻そうに眉間に皺を寄せる歩が滑稽で、真白はスニーカーを机の下で脱ぎ、椅子の上で胡坐をかいた。体から緊張が抜けてしまうと、無性に眠気が襲ってくる。興味のなくなった話だ。
頭上の照明がチラつく。カーテンを閉め切っているから室内は暗くなる。だから朝っぱらからこんな辛気臭い話をしているのだ。
真白は一息に椅子から立ち上がった。彼等の驚きを余所に、真白はテーブルから離れる。裸足がカーペットを踏む。肌色は足元の感覚を味わっているようで、血色はすこぶるよく、また逸る気持ちは、更なる感触を求めている証だろう。
「真白……?」
「辛気臭いのは嫌いなんだ」
疑問を鼻先に引っさげた歩に、揚々とした所作で真白は答える。一歩一歩、身が弾むような気がした。
色とりどりの瞳がこちらに意識を注いでいる。真白はその意味を必要とはしない。自分は自分だ。真白はカーテンに手をかける。
「何を……!?」
老爺がその表情を強張らせた。
「何かまずいのか?」
「日の光はダメじゃ。それを浴びては!」
その鬼気迫る様相に、真白は一瞬気圧される。中年の男と老婆が、身を竦めたのがわかった。手に取るように室内の雰囲気が変化がする。
煩わしい。真白は不自由を感じた。他人と関係を作るからこうなる。決まり事は真白をいつだって束縛した。そのくせいざとなると真白を簡単に裏切る。世間や体裁が酷く醜いものだということを真白は知っている。
カーテンの僅かな隙間からは、窮屈そうな空が見えた。テラスがガラス一枚隔てたむこうにあって、手摺りの奥には街がある。この薄布を開け放つときっとその全貌が見えるはずだ。だというのに態々こうも部屋を薄暗くしている。真白は苛立ちを得た。
「だったら外に出るさ。こんな風にして引きこもって、難しい顔して胡散臭い話をして、だからアンタ等辛気臭いのさ。しみったれてんのさ」
真白は、遮光カーテンの隙間に身を滑り込ませて窓を開ける。びゅう、と吹き込んだ外気を正面から受けた。莫大な空気に肺が押し潰されそうだ。後ろ手に窓を閉めると、もう室内の声は聞こえない。
真白は一つ、大きく深呼吸をした。すると肌にまとわりついていた気味の悪さが取り除かれた。瞼を閉じると、聞こえるのは己の心音と動植物の息遣い、遠く雑多は知らない街の呼吸音だ。一人の感覚だ。
真白は洋々とした気持ちで面を上げた。テラスの端めがけて勢いよく歩を踏み出す。全身に降り注ぐ日の光が心地よい。
眼下には世界がある。真白はその茫洋たる景色にそこはかとない自由を感じ取った。
髪をなでる一陣の風が、そこにはあった。
何か乱暴な音が聞こえた。苛立ちが風に乗って肌の表面を刺激する。その荒々しい感情に、ノアの意識は覚醒した。
全身が強張っている。重い瞼をどうにか持ち上げると、青空がそこにはあった。どうやらあの後知らず知らずのうちに寝てしまっていたようだ。
ノアは樹木の幹に手をついた。それを支えにしてどうにか起き上がる。すっかり冷え切った体の節々が悲鳴を上げる。顔を苦悶に歪めながら、手で目元を拭った。目元から顎先にかけて張ったような感覚がある。目が腫れている。きっと酷い顔をしている。鏡を見るまでもないことだ。
ゴシゴシと強く目元を擦っていると不意に肩口に強い痛みが走った。それは関節を刺激するものとは痛みの度合いが違う。一線を画する激しい痛みだ。
「ッ……!」
電撃の様な鋭さにノアは身悶えする。小さく蹲って、痛みに耐える。それでも消えない痛みは、今再び感情を呼び起こした。
「消えて!」
我慢は出来なかった。大丈夫と今更のように唱えた。呪文のように、ただ一心に。
段々息苦しくなってくる。言葉を発しようと口を開くが、肺が圧迫されているのか、それとも喉が満足に機能していないのか、ひゅうひゅうと感情だけが顔を出す。遂にはそれさえ苦しく思えてきた。意識が朦朧としてくる。焦点は定まらず、グラグラと視界が揺れる。上下左右の区別がつかなくなった。ノアは瞼をギュッと閉じ、グッと歯を食いしばってその場に倒れこんだ。今にも死んでしまいそうだった。
どれ程そうしていただろうか。か細い呼吸を繰り返していると、若干痛みが引いて、どうにか意識を保つことが出来るようになった。狭まっていた視野が、僅かに広くなる。焦点が定まる。横向きになった視界の中、日向に咲く庭の花々の美しさにノアは息を止めた。手を伸ばしてみる。どれだけ伸ばしても、この真っ白な腕が日陰から出ることはなかった。遥か遠くにあの花が咲いているように思えた。どう足掻いても届かない。
諦めて力を抜いた。腕が芝生に沈む。額はぐっしょりと汗をかいていた。視界が滲む。
さわさわと頭上の葉々が囁いている。ノアはつられてそちらを見やった。幾重にも重なった葉の向こうに、黄金色に輝く陽光があった。
それはある人を想起させた。優しい人だ。繊細で、だから怖がりだった。それでもいつもノアに寄り添おうとしていた。そう思っていた。
しかし現実は無情だった。母はきっと楽になりたがっている。ノアにはそう思えた。
ここに居場所はないのだ。
視界に黒がチラついた。嫌いな色だった。だが彼等はこの苦しみからノアを解放してくれるはずだ。一筋の光明が差したような気がした。
呻き声に真白はそちらを見た。広い庭だ。ひっそりとした空間には中央に池があり、隅には色鮮やかな花々が植えられた花壇がある。それらを囲うように木々があり、呻き声はその中からだ。真白は声の聞こえた方に目を凝らした。
女がいる。ノアといったか。
彼女は蹲っている。痛むのだろう。ノアは肩を押さえている。
その姿に真白は昨夜を思い出した。そうして背後を振り返り、窓ガラスの向こうにあるカーテンに視線をやった。あの幕の奥、ただ一人会話に参加しなかった女がいた。真白はその豊かな表情を今でも覚えている。勿論、ビビアンの沈んだ表情も覚えている。
ビビアンとノア。真白は二人の顔に似通った要素を見つけ出していた。親子なのだろうと、告げる直感はきっと正しい。
毛先が揺れる。黒い髪は彼等彼女等にとって宗教的な意味があるという。埃をかぶったような古臭い伝説に、真白は興味を抱かない。彼等がこの髪にどんな意味を与えようとどうでもいいのだ。真白には真白の理由がある。指先で弄んだ黒髪は鎖骨にかかる。忌々しい女だ。もう二度とあの顔を思い出したくはない。
真白は窓ガラスに映る自身の顔に気が付いた。綺麗な顔だ。男が好みそうな顔だ。だから嫌いで仕方ない顔だ。
あの親子はどうなのだろうか、と剥き出しになった足を眺めながら考えた。スニーカーから解放されて伸び伸びとした指先を動かしながら、真白は独り言ちる。
「だから面倒なんだよ……関係ってさ」
食堂は二階にあった。故にテラスは宙にせりだしている。もしここが一階だったら、真白はこの手摺りを飛び越えて、どこかに走りだしていたかもしれない。
強い女の子だ。
歩はこの場から去った少女が残したスニーカーを眺めてそう思った。
真白という少女が望んでいるもの、あの煌めきのむこうに何を見たのか、歩にはわからない。だから彼女の本当の願いを歩は知らない。しかし今までの言動から、真白の表層的な願いの予想はついた。
真白は自由なのだ。関係や雰囲気に縛られない姿は、確固とした自分を持っていることの表れのように思えた。その在り方は、羨ましい。
物言わぬスニーカーは確かな存在感を持ってここにある。少女の小さな足を覆っていた靴は、歩の履いているそれより大きく見えた。
「……話の腰が折れたわい」
ジンの呆れたような声音に、歩ははたと顔を上げた。カーテンの向こうに姿を消した少女の後姿を頭から追いやった。今はやることがあるはずだ。そう自身に言い聞かせて、歩は背筋を伸ばした。背筋を曲げていては、また真白に笑われてしまう。そう思ったからだ。
「名添と死人。黒色と白色。色で生者と死者をわけているということ。……にわかには信じられないです」
この場に残った彼等を一人ずつ目で追いながら、歩はその違いを見つけようとした。白い髪と赤い瞳は死人の証。そう言われても、歩にはジンとビビアン、ポーラとダービィの違いがわからない。死んでいるというには無理があるように思えた。
「君は本当に無知じゃな。無知といってもその度を越えている」
ジンの不思議そうな物言いに、歩はムッとした。
「だって、死者は普通喋らないし、笑いもしませんよ。そもそも動きすらしない。だから死者なんです。からかっているわけではないと思いますけど、もし自分に冗談でそんなことを言っているのだとしたら、それは悪趣味ですよ」
「冗談で言ったわけではないよ。私達は死んだんだ。君だって、命を落としたら私達と同じようになるんだよ?」
「何を言って……」
食い違い。噛み合わない。歩はこちらとあちらの間にある壁を感じた。何か考え方の根本に差がある。それは価値観の違いだ。こちらの考えが及ばない位置で相手は話をしている。逆に相手はこちらの常識外のところで話をしている。伝わる言葉と、だが伝わらない意味に歩は困窮した。
「君の名前は霧島歩。だから死後還るのは『キリシマ』だ。私達が還るのは『オロール』だ。そうだろう?」
「……どういう理屈です?」
歩は苛立ちを感じている。それは文化の違い、そして理解の出来ない理屈に対するもどかしさだ。
「名前は個人とその故郷を示しているものじゃよ。だからワシ等はオロールに還った。魂は還るべき場所を覚えておる。あの娘の様に還るべき場所を忘れている者も偶にはおるがの」
ポーラが、テーブルに置いていた歩の手に皺だらけの手を重ねた。白い手は、とても暖かく、皺の数が長い老婆の人生を物語る。
その手を見ていると、歩はこの老婆が嘘をついていないような気がしてきた。諭すような声音を聞いていると、半信半疑でも良いから信じてみるとどうだと思えてくる。
それだけではない。
「あの娘?」
「真白、彼女のことじゃよ」
還る場所のないあの娘。真白をそう形容されて、不思議と納得がいったからだ。自由で何物にも束縛されない。あの後姿は、自身とは真逆の物だからだ。
歩は知っている。自分はいつまでも縛られている存在なのだと。
頬がチクリと痛んだ。
「……ダービィさんと、ポーラさん、それに彼女は既に亡くなっていて、死人としてここに還ってきた。そういうことですか?」
ここは歩の常識が通用するところではない。そう歩は念頭に置いて、彼等の話を聞くことにした。勿論疑いはある。疑問はより深まった。だが事実目の前に白い髪と肌、赤い瞳を持った人々がいる。一度信じてもいいはずだ。それらを踏まえた上で答えを出してもいいだろう。違う知らないと駄々をこねているようでは、疑問は解消できない。
ふと、真白ならと考えた。彼女ならこの話を聞いてどう答えるのだろうかと。
そうかい。で、その話面白いのか?
興味なさそうにそう言い放って、真白は席を立つに違いない。それでも話を進めると、彼女はこのバカげた話を前提に据えながら最後まで話を聞くのだろう。もしかすると歩は、彼女に憧れを抱いているのかもしれない。だからこう考えるのだろう、と思い、しかしこれは理想だろうと、浅はかな考察を歩は呑み込んだ。
腰は据えている。
「ノアちゃんは生きているわ」
ビビアンの一声はしゃがれていた。そのざらつきに、歩は驚いた。昨夜聞いたビビアンの声には艶があった。コロコロと表情を綻ばせて、一番親し気にビビアンは接してくれた。それがどうしてこうも、と思考はやがて微笑に辿り着く。
ビビアンとノアの短い応酬。そこに全てがあるように思えた。
「ノアちゃんは呪われたのよ。トワイライトが求めた次の生贄がノアちゃんなの」
「ビビアン!!」
ビビアンの心痛な嘆きに覆いかぶさるようにダービィが声を荒げた。その態度の豹変ぶりに歩は身を竦ませる。室内の空気はピリピリとしていて、歩はその息苦しさに忙しなく視線をビビアンとダービィの間で彷徨わせた。
「生贄など……言い方を―――」
「だってそうじゃない!!」
ビビアンがヒステリックを起こす。両手でテーブルを叩いて、彼女は髪を振り乱す。今日始めて見たビビアンの表情は、昨夜彼女がどのようにして夜を明かしたのかを物語っている。
腫れた目元が痛々しくて、歩は思わず目を逸らしていた。
「差し出せっていうのよ、あの子を!だからあの子は苦しんでいるんでしょう!それをわかってあげなくてどうするのよ!?」
ガタリ、と何かが倒れる音の正体は、カーペットの上に横たわった椅子の悲鳴だった。僅かにその表面が揺れている。座ったままのダービィを見下ろすように長身の女が立っている。
「それなのに……私ったら―――」
喉に何かが詰まったのか。言葉になりきらなかった感情が、嗚咽となって溢れてくる。その場に崩れ落ちたビビアンをダービィが支えた。
「……すまない。そうだな、私達はノアの味方になってあげなければいけないのにな。そうだ」
ダービィがビビアンを優しく抱きしめた。繰り返しすまないと謝罪を口にしているその姿は、自身に言い聞かせているようであった。
また蚊帳の外だ。
舌の上に疎外感が横たわっている。肺の辺りに熱があった。しかし上唇が重い。喉は音を出すことを躊躇っていた。歩は二人の間に入る勇気がなかった。
「歩君」
視界外から歩の意識を引いたのはジンだ。老爺は、ダービィとビビアンから歩の注意を引きはがす。まるでお前に見る権利はないと言われているようだった。それは知る権利がないと、暗に示しているようでもあった。
「君の考えは正しく、そして誤っている。ダービィとポーラは死人じゃよ。だがノアは生きておる。生きたままあの姿になったんじゃ」
それはどうしてですか。
口を突いて出てきそうになった疑問を遮るように、ジンがこちらの初動を手で制した。まだ続きはあると。
「何故黒い髪と瞳が特別なのかは理解したな?」
歩は頷く。
「名添、彼等だけが持つ色だったからです。彼等は神聖視されています」
「そうじゃ。故に道を歩けば君達に懺悔し許しを請う敬虔な信徒と出会うかもしれん。だが全員が全員そうであるとは限らない」
ジンは一度そこで間を置いた。こちらの顔色を窺っている。それはこちらの理解を読む間だ。疑っていないか、通用しているか。見透かすような相貌に歩は溜飲を下げる。疑ってかかる前に聞くべきだと、自身に言い聞かせた。
「名添は、往古から悪魔と呼ばれてきた。それは人の魂を縛り操るからじゃ。生まれや環境によっては、名添を敵視する者もおる」
じゃから、とジンは懐に手を入れた。暫くその内側を手で探り、やがて細長い棒のようなものを取り出した。その先端をジンは徐に歩に向けた。フラッシュバックした映像に、歩は胃の底が浮いてしまったかのような気がした。唾を呑み込む。今にも逃げ出したくなる気持ちを必死に押し殺した。
「安心せい。危害を加えはせんよ。その代わり、その目立つ色を変えてあげよう」
それ、とジンが軽く棒、魔法の杖の様にも見える物を振った。すると先端から細かな光が溢れて、その光が歩の視界を覆った。
歩はグッと目を閉じていた。この光がなんなのか全くわからない。もしかすると、次の瞬間には死んでしまっているかもしれない。そう思うと気が気ではいられなかった。今にも走りだしてしまいそうな両足をどうにか抑える。信じよう、そう思ったのは確かなのだ。
「……いいじゃろう。これで君は安全に人前に出ることが出来る」
目を開けてみなさい。そうポーラが囁いて、歩はゆっくりと瞼を上げた。強く瞼を閉じていたからか、視界が若干ぼやけている。段々と鮮明になってくる室内とジン達の変わらない様子は、歩を安堵させた。
「見てみなさい」
ポーラの手には手鏡があった。覗き込むと、見慣れた顔と、見慣れない色がそこにはあった。
「これ……」
薄茶色の髪に黄色の瞳。信じられないようなその光景に、素っ頓狂な表情を浮かべた自分が映し出されている。
「ロクが君達に謝りたがっていた。彼女の元に行ってみなさい」
変化に驚いて目が離せない歩に、ジンの声は届かなかった。ややあって、ようやく落ち着きを取り戻した歩は、呆れた表情のジンに再び目的地を設定された。
知らぬ間にダービィとビビアンの姿がなくなっている。まだ彼等と彼女の事情を知ることは出来なさそうだと、この場を早く終わらせようと急かすジンの心中を見透かしながら歩は独り言ちた。ノアと彼女を取り巻く環境は名添を恐れているのだろうと、ビビアンの泣き腫らした両目を歩は思い出した。
「名添。死人。トワイライト。ノア。そしてロク……。わからないことだらけだ」
テラスから室内に戻ってきた真白に派手な色を指さされて笑われた。アタシもアタシもと無鉄砲さが、歩にはやはり羨ましく思えた




