第十六話 ツートンカラー
体に何かを掛けていたというわけではないし、ベットに横になったというわけでもないが、ああして雨風しのげる場所で眠りについたことを久しく感じてしまう。思えば二度目の朝だ。ここがあの橋の延長線上にある場所なのかどうなのかは、相変わらずわからない。圏外と表示しうんともすんとも言わない携帯を眺め、机を囲んで朝食を取っている彼等の見慣れない色を目で追うと、タイムスリップというより、ファンタジーの世界に迷い込んでしまったような気がしてきた。突拍子もない考えだ。歩は用意された目の前の朝食を見る。トーストだ。見慣れた物に安心を覚えるが、手を伸ばそうとは思えなかった。
「食べないの?」
ポーラが、コーヒーの注がれたカップをソーサ―の中に置いた。カーテンを閉じて明かりの灯された室内は、朝であるということを不意に忘れさせるからいけない。
歩は老婆の手からするりと離れたカップの輪郭、特に縁を視線でなぞった。カップを傾けることによって出来上がったコーヒーの黒いシミ。真っ白い肌のポーラと対照的な色は、歩の舌の先をヒリヒリとさせる。
「食欲が、ちょっと……」
素っ気なく、それらしい理由を装って歩は椅子を若干引いた。食べる気はないと、そう意思表示をする。
隣で真白が、トーストを勢いよく頬張っている。ブラックは無理だと砂糖とミルクを足した肌色の液体を、それでも苦そうに彼女は飲んでいた。
「歩君、安心してくれたまえ。私達は君達に危害を加えるつもりはないんだよ」
ダービィが蓄えた口髭を持ち上げる。柔らかい眼差しである。歩はその赤い瞳をジッと見つめた。緊張に喉の渇きを覚える。赤い水晶はどこまでも透き通っていた。
「自分はこの街に来てから、良い思いを得ることはなかったんです」
「わかっている。君の反応は正しい。そうさせてしまってすまない。どうか信じてほしい」
ダービィはゆっくりと頭を下げた。下げていた時間は長くない。しかし決して短くはない。歩はこちらに向けられた白い頭の天辺を見ていると、逆に申し訳ない気持ちになってきた。相手にこうまでさせて、自分は何をと。だが向けられた敵意は確かなのだ。だから歩はカップの取っ手が持ちやすい位置にくるように陶器を徐に回し、そしてしっかりと輪っかに指をかけて持ち上げた。黒い液体を数秒、カップの底まで見透かそうと見つめた。揺れる水面に移りこんだ不安そうな表情の自分を認め、歩はグイッと容器をあおった。苦い液体が舌を撫で、次いで喉の奥に落ちていく。この苦さに近いものを歩は知っている。分不相応だとあの時は感じた。この瞬間同じことを感じた。
「ありがとう」
歩がカップを受け皿に落ち着けたのを見届け、ダービィがそう満足そうに頷いた。眉尻を下げて破願するダービィを見ると、途端に歩は居心地の悪さを覚えた。恥ずかしさに耳まで赤くなってしまう。自分はなんてことをしてしまったのだろう。自責の念に押しつぶされそうになって、歩は夢中でトーストにかぶりついた。
「落ち着いて食べなさい」
碌に噛みもせず飲み込んでむせた歩の背中を、ポーラが優しく撫でた。その高い体温に驚きつつ、歩はすみませんと返した。
頭上の照明からは柔らかい光が降り注いでいる。その光の下に自分はいるのだと、歩は椅子の背もたれに体重を預けた。
さて、とジンが前置きをした。ジンは食後のコーヒーをソーサーに戻す。カチャン、と陶器同士が触れた。その重い音に、歩は自身の姿勢を正した。お尻と背中を自分の満足のいく位置にもっていく。そうしている間に使用人が空いた皿を下げていた。失礼しますと食器を下げた栗色の髪を持つ初老の女性は、去り際に横目でこちらを見た。深く、深く頭を下げて去った。
「君、霧島歩君、じゃったかな?昨日はすまなかった」
食堂から使用人が全員出払った。ジンがそうさせた。だだっ広い空間に、昨夜と同じメンバーが揃う。一人、彼女を覗いて。
歩はコーヒーを飲んで湿った下唇を上の歯で軽く噛んだ。暖かい液体が食道を流れていき、腹の中に落ちていく。ソーサーに落ち着いたカップは、静かに再び触れられる瞬間を待っている。
「ワシ等は君達のことを知りたかったんじゃ。皆は君達を見て、使者がおこしになったとただ騒ぎ立てる。興味を持つだけならまだ良かったのかもしれん。しかしワシ等はそうはいかない。ワシ等の為。そしてあの子の為に確かめなければならなかった」
湯気がカップから立ち上がっている。ユラユラと左右に体を振っていた。ただその身をくゆらせながら空気に溶け込んでいく様を呑気なものだと歩は思った。
「わかりません、わからないです。僕にとっては黒髪も黒目も当たり前の物なんです。それを特別視して。昔話、神話の様なものを昨日されましたけど、聞いたことはありませんし、だから僕は僕達に向けられた視線や投げかけられた言葉の意味がわかりません。降りかかった暴力は理不尽でしたよ。理不尽なんです」
歩はそこまで言って、ズボンを握りしめている自分に気付いた。袖から伸びた腕は、綺麗なもので傷やケガはない。しかし、ボロボロになったティーシャツやチノパンを思うと、自身に降りかかった暴力を歩は思い出す。コーヒーから立ち込める白い煙が、途端に視界一杯に広がって、それは歩に眩い閃光を思い出させた。深緑色と射抜かんとする眼光が煙の向こうに見えて、歩は顔を逸らした。正面、向かい合う形でジンがテーブルについている。日に焼けた浅黒い肌を持つ老爺は、一度禿げ上がった頭を大仰な仕草で撫でた。
「気を失った君達をここまで運んできたのは、君を吹き飛ばした張本人じゃよ。正確には、彼女、ロクとアマネセル様じゃがな。ロクは君達に謝りたいと言っていたよ。アレは昔から早合点ばかりでな、今回もその性格が祟ったようじゃ。傷を必死に治していたのは、せめてもの償いなんじゃろう」
早合点。歩は知らず知らずのうちに強く歯を噛み締めていた。臼歯の付け根が発する痛みに気が付いて、歩は頭を少し前に傾けつつ長く息を吐いた。努めて冷静にならなければ、握りしめた両手を解くことも出来なかった。
関節に痛みはない。目に見えるケガもない。まるで魔法の様だ。そんなものがあるとにわかに信じがたいが、事実目の前でそれに近しいものを見た。理解が及ばない力に、歩は薄ら寒さを覚えた。
「治したからって……消えるものでもないでしょう」
「……そうじゃ」
素っ気ないジンの返答に、歩は自身の顔にカッと込み上げてくる熱を得た。お尻の底がムズムズとして、彼は少しづつ足に力を込める。
「どうしてそう……僕はッ!」
すんでのところで感情を押しとどめる。喉まで駆け上がってきた激しい感情は、コーヒーの苦さを思い出し、歩は次の言葉を失った。温まった思考回路は今にも弾けてしまいそうだった。
「オイオイ、何をそんなにカッカしてんのさ」
ずずずと音を立てて、真白がカップを傾けた。椅子の上で胡坐をかいて、テーブルに肘をついている彼女は、歩の様子を見て半ば呆れているようだった。呑気に欠伸をかいてみせながら、彼女は両手を組んで上に伸ばしている。
「アタシ等は助けられた。寝床を提供してもらって、更にこうして暖かいメシまで恵んでもらっている。だったらそれでいいだろ。痛むのか、坊ちゃん?」
真白の飄々とした声音は、言葉とは裏腹に感謝の念が込められていないことを悠然と物語っている。嘲る様な不遜な態度は、かえって歩に自身を顧みさせた。
坊ちゃん。
冷や水を浴びせられたような気分だった。歩は口の中で反芻して、喉に詰まっていたものを静かに嚥下した。いかっていた両肩の緊張が解けていく。歩はため息をついた。落ち着こうと口に含んだコーヒーは、熱が逃げてしまったのかすっかりと冷えてしまっていた。
確かに怒りはある。そして何かもどかしさを感じてもいる。痛みだとか、敵意だとか、理不尽だとか、表層的なものは、歩の精神の奥底に潜んでいる焦燥を覆い隠していたのかもしれない。
真白がゆったりとした動作で耳に黒髪を掛けた。尖った小麦色の耳が晒される。昨夜見せた表情は、そこに微塵も残ってはいない。記憶の中の真白が、今もなお残っている胸の上の冷たさが、このもどかしさの原因だろう。
歩は背もたれに身を投げ出したくなる衝動をどうにか抑えた。テーブルクロスの模様を目で追う。複雑な模様は、追っているうちに今どれをなぞっていたのか惑わせる。歩は知らず知らうのうちに自身の頬を撫でていた。
「済まない。本当に済まない」
静寂を破ったジンの心痛な声に、歩は勢いよくそちらを見た。欲していたはずの言葉は、こうして聞いてみると、どうしてか呆気ない。満足とは程遠い。歩は歯切れの悪さを得た。求めていたものではない。
「いいんです。もういいんです。真白の、彼女の言う通り、痛みはないんです」
その代わり、と続く言葉は淀みない。歩はやり場のない思いを、疑問という形で目の前の老爺にぶつけることにした。背筋を伸ばしてみせたのは、癖の様なものだった。
「疑問に答えて下さい。訊きたいことが山ほどあるんです」
置いけぼりをくらってばかりだ。ようやく知る機会を得たと前衛的な知的好奇心は、歩に後ろめたさをチラつかせる。
閉じ切ったカーテンの向こうがどうなっているのかわからない。知りたいと願うが、歩はこの無機質に感じることのできる広々とした食堂に意識を向けた。視界の中の情報は、何よりも歩を安心させた。
「言ってみなさい」
やおら姿勢を正したジンの促しは、待ち望んでいたものなのだろう。自身を取り巻くこの環境について、歩は直ちに知らなければならない。頭の中の疑問を一つ一つ並べていけば、この焦燥感も幾分か紛れるだろう。茫洋としたこの胸の内に答えをほうりこんでやろう。
「昨日、あなたは黒を特別な色だと言った。昔話を言ってもみせた。アレは……一体?」
的を得ない曖昧な問いだ。
「アレ、とは?」
ダービィが小首を傾げた。いまいち容量を得ないといった表情は、具体的な返答を求めていた。歩は昨夜を思い出す。得た情報もあった。ならば足りない部分を補完するだけだ。
「黒い髪に黒い瞳、名添とは?」
一度だけ口にされた名添という言葉。何やら大仰な歴史物語を前後で語っていたが、その中で一際引っかかった単語だった。悪魔だなんだと恐れられている存在であったらしいが、ある時を境に神聖視されるようになったという。曰く、神になろうとした人間を倒したとか。
「名添はね、ワシ等にとっての神様じゃよ」
あれを見なさい、とポーラが壁に立てかけられた絵画を示す。歩はそちらを見た。
一番最初に飛び込んできた物は赤黒さだった。大きな絵画、その左下から左上右下にかけて、大部分が血の様な色で描かれている。上は黒く、下にいくほど赤が混じってくる。赤色の中には、何やら人の形の様なものが見て取れた。嘆きに顔を歪ませながら、無数の手が何かを掴もうとしているかの様にある一点に伸ばされている。それは中央。右上部から差し込む光明を望み、互いを支えあいながら、嘆きに沈む人々の屍の山の上に毅然と屹立している二人の男女だ。背の高い男の胸板は厚く、その双眸からは確固とした意志の強さが感じ取られた。彼の髪は黒く、また瞳も黒い。対し女は男の胸ほどの高さで、華奢な肉体の持ち主であったが、その四肢の先端には禍々しく鋭い爪があった。髪は白く、透き通るような白い肌。その瞳は赤い。まるでダービィやポーラ、そして彼女の様だった。
二人は互いに腕を絡ませながら、光が差す方を向いている。まるで打倒すべき存在がそちらにあるかのようだった。
「男性が名添、女性が死人。名添は霊魂の名前を呼び起こし、そして呼び起こされた魂は死人となって主人の為に戦う。名前と言ってもただの名前じゃないよ。魂に刻まれた名前じゃ。名添は、生まれた時に神より与えられた名前を得る術を知っていた。そしてその名を使って死者を呼び起こすことが出来たんじゃ。それが名添。ワシ等の先祖を救い神になった者じゃ」
神サマ……ねぇ。胡散臭い話だと今にも鼻で笑いそうな真白の反応が、歩には正しく思えた。聞いて返ってきた答えは、しかし信じるにはあまりにも現実とかけ離れていた。
「……神様の色だから神聖視されているのでは? 自分への対応は崇拝と呼ぶには無理があるものでしたよ」
深緑の色の女は、こちらに敵意を向けた。昨夜を過ごした部屋でも歩は敵意を向けられた。これを信仰だというのだろうか。先の使用人の行動、深く頭を下げる、あのようなものを信仰と呼ぶのならわかる話だった。
「死人、その女性を見てみなさい。彼女の白い髪と肌、赤い瞳がわかるかな?」
ダービィは絵画の中の女性の特徴を並べる。
「死人はね、髪と肌が白く瞳が赤いんだよ。生者と区別をつけるためかな」
そう告げるダービィに歩は視線を移した。微笑むダービィのその色、そして再び移した視線はポーラを捉える。彼等を交互に見て、歩はまさかと疑問を投げた。
「死人……?」
「そうだよ。私達は既に死んでいる」
あっさりとダービィは言ってみせた。あまりにもあっさりと、彼は自身の存在を死と呼んだ。
信じられないような話を今自分は聞いているのだと、歩は内容と口調の乖離に戸惑った。ふと、ここにはいない彼女のことを想起する。
彼女の色を歩は思い出した。
食堂の照明が少し強くなったような気がした。しかしそれは思い違いなのかもしれない。視界の奥、部屋の隅は暗く、光など毛先程も届いていない。影はその口を開けてこちらが覗き込むのをただ待っていた。




