第十五話 彼等の原点
わなわなと震える肩。怒りなのだと思った。だがどこか泣いているようにも感じた。ノアと呼ばれた女性は、複雑な表情を浮かべている。
思い出すものはあるが、しかし初対面だ。だというのに既視感を得、歩は強張った筋肉の痺れを暫く忘れていた。自身が緩やかではあるが、徐々に正常な呼吸を取り戻していることに気が付いたのは、テーブルを囲むジン達の身を固める気配が伝わってきたからだ。
彼女の白髪は長く、前髪においては目を覆って鼻先まで伸びている。その隙間から赤い瞳が覗いていた。廊下に垂れ込んだ暗闇を背負っているはずなのだが、歩には一瞬彼女が茜色の夕暮れに照らされているように見えた。既視感の正体はこれなのだろうか。
「何してるの、皆揃って」
ノアの押し殺したような声に、ジン達がようやくといった風に動いた。まず彼女を見、そして僅かにではあるが目線を逸らした。
「ノア、たいしたことではないよ。お父さんは、ただ彼等のことが気になっただけさ」
ダービィが椅子から立ち上がり、ノアへと歩き出した。歩調はゆったりとしたものではあるが、どこか不揃いだ。その顔には、歩に向けられていた敵愾心は一片も残っておらず、口角をやんわりと上げた微笑があったが、張り付いた様なそんな違和感を感じさせた。
「こないでッ!」
ノアの一声にダービィがその動きを止めた。ピンと張り詰めた空気は、一瞬でも意識を逸らすことを許さない。歩はキッとダービィやジン達を見据えるノアを見た。悲鳴の様な声だ。それでいて感情を押し殺し、ノアは辛うじて理性を保っているかのように見て取れた。今にもその場に崩れ落ちてしまいそうな姿は、ただ開いた扉に支えられていて、彼女は孤独そのものだった。
「ノア、ワシ等は彼等を見定めたかったんじゃ」
ジンの宥めるような声音は、慎重にノアに向けられた。平静を装っているように思えた。チラリとジンを見やると、老人は顔を伏せている。バツが悪そうなその様子は、かえって疑いの念を抱かせた。
「そんなことを言って……私がわからないと思うの?わかるんだよ、おじいちゃんがしようとしていたこと」
絞り出すような、なんとか言葉を紡いでいるような、彼女は片方の手で胸元を抑えた。俯いて震える声は、心なしか室内の熱を奪っているようだ。二の腕を撫でる冷気に鳥肌が立つ。
「落ち着きなさい。ワシ等は――」
「ほっといてよ!!」
ポーラの言葉を待たず、ノアは喉が張り裂けんばかりの絶叫を上げた。荒々しく肩を上下させている。よく見れば、俯いて垂れさがった前髪の隙間からぽつぽつと零れるものがあった。
「これは私が背負うべきことなの!私の役目なの!このために私は生きてきたの!だから……邪魔をしないで……ッ」
鼓膜を震わせた声の主は、吐き捨てたばかりの自身の感情に打ちひしがれている。ぜぇぜぇと息を切らし、長い髪を振り乱して、ノアは扉の取っ手に縋りついていた。体を支えているのがやっとのようだ。
歩はその痛々しい姿に、どこか近親感を得た。そうでもしなければ自分自身を保っていられないといった様子には、確かに覚えがある。歩は無意識のうちに机の表面に手を置いていた。何故かベタッとしてそちらを見やると、木製のテーブルの表面が濡れている。自身の掌をひっくり返すと、ベッタリと手汗を掻いていた。
「ノアちゃん」
背後、歩はそちらを振り返る。周囲の衣擦れの音は、沈黙を破って一斉に意識を注いだ。振り向きざま、歩は視界の端でピクリと反応を示すノアを見た。
ベットの上、一人緊張とは程遠いといった様子の真白の隣、俯いたビビアンが、金髪の奥に見えない表情を思わせる。シーツを握っていた手から不意に力が抜ける。くしゃりと歪んだシーツは、ビビアンが手を放しても戻らない。歩にはそれがいつまでも残るもののように思えた。時間を置いてもきっとあの皺は元に戻らないのだと。
「ごめんなさい」
顔を上げて見ることの出来た表情は、歩の胸を締め付けて、遂には呼吸さえも奪ってしまった。ビビアンは微笑んだ。口角を上げて顔に皺を作る。たったそれだけだというのに、歩は一杯一杯になってそれ以上彼女を見ることが出来なかった。スッと、何かが音も無く失われたのだ。その喪失の痛みは、こうして歩が顔を逸らした今でも、きっとビビアンを苛んでいるのだろう。許しを請いている。その筈だ。なのに、まるで執着がそこにはない。そうしたところで最早どうにもならないのだと、そうビビアン本人が認めていた。
「――――――」
ばたりと、ノアがその場に尻もちをついた。見開かれた両目の中で、赤い瞳が揺れていた。頬を流れる涙が、宙でキラリと光ってカーペットに落ちた。滴は吸い込まれて消えていく。もう元には戻らない。
「違う、違う、私はこんなこと……」
後退りをしながら、しかしノアは自身の体を上手く制御出来ていない。ガクンと肘が折れてノアは肩から廊下に倒れこんだ。彼女は這いずって既に廊下に出ていた。
ビビアンが微かに手を伸ばした。ノアちゃん、ビビアンがそう呼んだ女がバランスを崩した。倒れこんでガツンと半身を打ち付けた。その動きに、反射的にビビアンの腰が浮かんだ。しかし、僅かに浮かんで、それ以上は腰を上げなかった。
ノアちゃん。
真白ちゃん。
真白は、ビビアンの甲斐甲斐しさの理由を知ってしまったような気がした。
「ノア、」
お父さん、そう自分のことを呼んでいただろうか。中年の男が一歩を踏み出した。歩み寄ろうというのだろう。
女は廊下にいる。室内の光が確かにそちらにも差しているはずであるが、にもかかわらず女の周りは暗かった。内と外。壁一枚隔てるものもなく繋がっている筈の空間は、しかし全く隣り合ってはいなかった。真白はふと、あのアパートから見た男女を思い出した。そして理解した。こちら《・・・》とあちら《・・・》は違うのだと。
男が二歩を踏み出すより早く、女が駆けだした。這うように両手両足で床をついて、恥も外聞もなく。ただ女はこの場から逃げた。男は後を追わなかった。追えなかったのだろう。
室内に沈黙が落ちた。誰もが動きを止めている。ビビアンがストンと腰を落とした。脱力したといった風だった。肩を落としているビビアンに、真白は冷ややかな視線を向けていた。それに気付いて、真白は息を吐いた。自分は代わりだったのだ。直感的にそう理解して、真白はもう一度ため息をついた。目を逸らして落ち着ける場所を探す。すると、皆の様子を窺う歩と目が合った。彼も自分の様に落ち着ける場所を探していたのだろうか。或いは説明を求めて、その答えをどこかに探していたのだろうか。
真白は数瞬だけ視線を交わせ、そしてゆっくりと体ごと後ろに向けた。答えを歩の中に見つけたような気がしていた。真白は酷く冷静な自分を思った。彼だって、何も知らないのだ。
真白は窓に掛けられたカーテンを少しだけ開いた。知らない世界がそこにはあった。
「違う、違う、違う」
ノアはフラフラとようやく立ち上がってくれた自身の足で、芝生の上を歩いていた。未だ体の自由はきかず、館の壁に手をついてどうにか自分を支えていた。先程打ち付けた肩が痛い。壁に背をつけて、ジンジンと痛むそこを擦った。ゴシゴシと力めば、痛みが和らいだような気がした。しかし一瞬でもその手を止めると、再びジンジンと痛みだして、ノアは更に力を込めて擦った。それでも消えない痛みに、ノアは肩を目一杯握って耐えた。意識をそちらに集中すると、ふらついていた足からスッと力が抜けてノアはその場にへたれこんだ。もう立ち上がろうとは思えなかった。闇を夜風が撫でる。身を切るほど寒いように感じられて、ノアは縮こまった。肩が痛い。
止めようと思ったのだ。なのに、母と黒い少女を認めると、頭がガンと何かに打たれたような気がして、胸の内で何かが崩れたのだ。もう今朝のミルクの味は思い出せない。母の必死な、それでも向き合おうとしてくれた笑顔を思い出せない。母は、あの黒髪の、使者の手を握って親しそうにしていた。ノアはあの曇りのない笑顔を思い出した。自分はきっと重荷になっている。はっきりとわかった。
「大丈夫、大丈夫」
肩を握る手はそのままに、もう一方の手でもう一方の肩を抱いた。消えてしまえと心の内からそう思いつつ、ノアは更に小さく縮こまる。このまま世界に、トワイライトに溶けてしまえばいいと、ノアはそう願いながら、込み上げる嗚咽を誰にも聞こえないようにと押し殺すことしか出来なかった。
ノア・トワイライト。
名は意味を示す。自分にはそれ以外存在価値はないのだと、心の奥底からノアはそう思えた。
まるで蚊帳の外だ。
歩は薄闇の奥にある天井を見つめつつ独り言ちた。体の下にはソファーの柔らかい感覚がある。部屋の明かりは落ちていて、ジン達はこの場にはいない。聞きたいことは山ほどあった。それと同じくらい、ここから一刻も早く逃げるべきだと警鐘を鳴らす自分がいる。それでもここに残っているのは、あの後ジンが言い残していった言葉があったからだ。
『すまんかった。ワシ等は本当にお前達を、君達を見定めたかっただけなんじゃ。今更何をと思って当然じゃろうて。虫がいいと、そう思うのが自然じゃ。ワシ等はもう君達に敵意を向けない。だが、ワシ等にも引けないところがあった。それだけはどうか、理解してほしい。今日はゆっくりと休みなさい。明日、朝食を一緒に取ろう。君もワシ等に訊きたいことがあるのではないかな? 続きは明日だ』
ジンはそう言い残した。ひどく憔悴していた。歩は部屋から立ち去る彼等をただ見送るしか出来なかった。彼等の顔を見ることも、踏み込むことも怖くて出来なかった。
何か危害を加えてくることはないだろう。徐々に遠ざかっていく背中を見ながら、歩はそう思い、そしてあの一家のことを考えた。何があるのかはわからない。ノア、そう呼ばれた女性が一体何者なのか、また何を抱えているのか。ノアとジン達の関係は。浮かんでは消えていく多くの疑問符を一つ一つ片付けていくには、時間がないしそれ以上に知識がない。歩は何も知らないのだ。
身の安全はとりあえず問題ないだろう。疑問と、だから興味がある。黒だなんだと話題の中心に据えられていながら、当の歩自身は何も知らないという気味の悪さ。歩の認知の範囲外に何かがある。だから知らなければならないのだ。
真白はベットに横になっている。真白の部屋は別にあるという話だったが、彼女は短く信用できないと彼等に告げてこの部屋に残った。部屋の明かりを落とし、真白は歩と目を合わせることもなく、また口を開くということもなく、静かにベットに横になった。以降毛布にくるまって身動き一つない。
真白。歩は彼女に対して過ちを犯したのだ。これはその報いなのだろう。いたたまれない気持ちに、歩は寝返りをうった。わからないことだらけだ。何をするべきなのか。何をするべきだったのか。答えとは。霧島歩とは、一体……。
深く息を吐いた。先ずはここがどこなのか、そして自分達は何をするべきなのか、それらを知らなければならない。現実的な問いを持つこと。それだけで自分は前を向いているのだとそう思える。とりあえずと掲げることの出来た行動方針が、歩の思考に区切りをつけさせる。わからないことだらけの現実を、誤魔化せる。
歩は、やや重たくなった瞼をどうにか持ち上げながら頬に触れた。結局これだけはハッキリとわかるのか、と歩は自身を皮肉った。
お前は何者でもないのだと、そう面と向かって突きつけられたような気分だった。モヤモヤとするものを得て、だから知ろうなどと興味を抱いた。こいつならと思えた人がいた。だがこうして思い起こしてみると、全てがなんて事はない。こんなものだったのかと吐いて捨ててしまえるモノ達だった。それは久しく感じていない感情だった。
真白は毛布にくるまってこれからを考えた。とりあえず今はこの暖かく柔らかい毛布がある。寝床がある。食べ物の心配はしなくていいだろう。ならば目先に憂いはない。しかし、そんな安穏とした生活がこれから続いていくのだと思うことは出来ない。数日後にはここを追い出されて、また一人で生きていくことになるかもしれない。ならば今度こそ飛び降りてみるか。そう考えて、それもいいと冗談めかして思えた。ならば本心ではないのだろう。本気にしたとしても、またのらりくらりと生きていくのだろう。
真白は自身の体に触れた。脳裏に眼鏡の男がよぎった。途端に込み上げてきた嫌悪感は冗談ではない。ならば、とカーテンの隙間から見上げた夜空は知らないものだ。真白はここのことを何も知らない。それはここに根付いている者たちも同じだろう。黒い髪や黒い目一つでここまで騒ぎ立てるのだ。きっとここは自分の過ごしてきた国ではない。根拠は乏しいが、生憎真白はそんなお堅いモノを必要とはしていない。自身が納得できればそれで良い。だったら自分は自由なのだ。真白は、自分の名前を口の中で弄んだ。捨ててしまえれば良いのだろうが、いかんせん既に知っている者がいる。仕方ないと諦めは得意だ。
生きてやろう。真白はそう決めた。誰も自分のことを知らないこの街で。
それを決意と呼ぶにはあまりにも軽薄すぎる。どこかで躓いたらその時はその時だと、真白は瞼を閉じて暗くなった視界にそう思った。だから見下ろした水面が近づいては離れいくさまが鮮明に思い起こされた。




