第十三話 敵意
お盆は厨房に返した。音をたてないように素早く外に出て、今度は裏庭に足を運んだ。足の裏で芝生を踏む。時折重なる感覚はトワイライトの方から流れてくる。視界の中にあるはずのない石碑が映し出された。近い。
ノアはもう一度力を送った。導きの魔法は、彼らをここまで運ぶはずだ。ノアは目を閉じた。もう視界には何も映らない。
そしてどれ程の時が経っただろうか。何やら玄関の方が慌ただしい。人の行き来する足音、緊張を孕んだ声音。その中には父や母の物もあった。目を開いて屋敷を見れば、すべてのカーテンが閉じてある。もしかすると祖母やジジもいるのかもしれない。
「本当に黒いのかよ?」
「この目で見たわ。遂にお迎えが来たのよ」
「馬鹿ッ。そんなことをここで言うんじゃない。誰かに聞かれでもしたら……」
使用人の高揚とした様子が手に取れた。彼等は信じているのだ。信仰とは恐ろしい。ノアは宗教というものをこれっぽちも信じてはいなかった。神だなんだと彼等は口々に言う。あなたは選ばれたのだと誇らしげに言う。
ノアは二の腕を抱きかかえるようにして、袖口を握りしめていた。全身から血の気が引いてしまったかのようだ。指先が震えて満足に力が入らない。袖口を掴む指先が、大気に溶け出してしまうような感覚。足先がもぞもぞとしている。ただ足だけが熱い。ノアはその熱に弾かれて走りだした。走りだし、そしてそれは行先のない逃避だと気づいた。気づき、全身が脱力してその場に倒れかけた。歯の根元が浮いてしまっているのか。ノアは噛み締めた。両手を膝について体を支える。冷汗が止まらない。
「大丈夫大丈夫、大丈夫」
無意識のうちにそんなことを唱えていた。気持ちを落ち着かせる儀式のようなものではあるのだが、それは全くと言っていいほど効果を発揮しなかった。それでもノアは唱え続けた。気を一瞬でも抜けばその場に崩れてしまうであろう体をどうにか支え、ちゃんと歩き出せるよう足に力を込めようとした。
これは必要なことなのだ。このために自分は今まで生きてきたのだ。この生は無意味ではない。役目を果たし、意味を与えるのだ。皆のために。
ノアは背を伸ばした。裏庭には池があった。その静かな水面を不意に見やると、こちらを覗く赤い目が二つ浮かんでいた。白い体、赤い瞳。ノアはそれらに見つめられ、息を呑んだ。揺れる水面は、ユラユラと誘うようにノアを手招きしている。赤い水晶体は、冷たい眼光でノアを射抜いて逃さない。ノアは数歩後退り、やがてくッと奥歯をかんで振り返った。
逃れることなど出来はしないのだ。
物陰から様子を見た。屋敷の玄関前には人だかりができている。
「見て下さい! 黒い髪に黒い瞳。髪を染めたというわけではないですし、おまけにトワイライトの方から来たんですよ!」
人だかりの中心。深緑色の髪を後ろで結っている女性が、足元で横たえられている男を指さしていた。彼女には見覚えがあった。
「ロク……」
ロクは今にも男を吹き飛ばしてしまいそうなくらい殺気立っていた。ピリピリとノアは肌に刺さる輝力を感じた。ロクはその手に杖を握っている。いつでも足元の男を吹き飛ばせるといった風だ。
「落ち着くんじゃ、ロク。杖をしまえ。じきに大ジジ様が来て下さる。名前を調べればわかることじゃ」
祖父がロクを宥める。ノアはその様子を見つつも、敷かれたマットの上に横たわる男から目が離せなかった。
黒い。
ノアは心臓が止まってしまったかのような錯覚にとらわれた。呼吸が荒くなっていく。よく見れば、男の横に少女がいた。屋敷の使用人が丁寧に乱れた服装を整えている彼女も黒髪である。見間違えではない。遂に来たのだ。
「応急手当はしておきました。……しかし、彼等には不思議なものを感じます」
人だかりの奥。金色の龍がその巨躯を揺すって数歩歩み出た。人だかりが割れて、自然と道が出来上がる。
「アマネセル様、不思議なものというのは?」
父が日陰から尋ねた。アマネセルと呼ばれた龍の傍らには、身長が高く、赤い髪の男がいた。
「私にも詳しくはわかりませんが、彼等は何か役目を帯びているような気がするのです。それが使者としての役目なのか、それとは違う役目なのかはわかりません」
ノアはその言葉に希望を見出すことは出来なかった。彼等が持つ色は特別なものだ。その役目は決まっている。彼等はいつだって世に大きな変革をもたらした。そして今もそうだ。何百年と続くトワイライトの歴史は、彼等使者と巫女が積み重ねてきたものなのだ。それはどうあがいても変わらないことだ。
ノアはトボトボと再び裏庭に向かって歩き出した。最後に人だかりの中に母の姿を探した。母は横たえられた彼等の傍にいた。キッと口を結んで、彼等の黒い髪に手を伸ばし、触れる寸前のところで手を止めた。目尻が何度も痙攣していた。徐に母は立ち上がって、顔を伏せたまま人だかりの奥に消えていった。残された彼等を囲んで、数人の使用人が頭を垂れている。神よ、両手を合わせて唱える者は、落涙している。ただ黙しているだけの使用人は、父や祖父の顔色を窺っていた。みな、その色に信仰心を呼び起こされたのだろう。
ノアはそれを最後まで見て、目頭の奥からこみ上げてくるものを手で拭った。ごめんなさいと、口にすることははばかられた。また己の存在意義を強く実感させられもした。白い指先は冷えきっている。
夜が更けた。灯る明かりは彼等の部屋だ。ノアは部屋に明かりがついたのを見て、静かに歩き始めた。両親や祖父母がいなければいい、そう思うのは、ノアの子供心だった。両親達に何も告げずにここから去ったことを後々後悔するだろうが、しかし目の前で泣き顔を見るよりはマシに思えた。両親達のそんな顔を見る勇気はなかった。だからこうして彼等のもとに赴き、誰にも気づかれないうちにここから出ていこうと決めた。もう誰かが悲しむ姿を見たくはない。
今朝の母の顔を思い出し、込み上げてくるものを押し込んでノアは歩いた。無心になろうと遠く夜空を眺めて、落ち着かせる。何かを思うことをやめて、一歩一歩に集中した。そうしなければ、ノアはその場に立ち止まって二度と歩き出せないような気がした。だから無心になって歩いた。
しかしどうしてだろうか。先程からノアは今朝のミルクのことを思い出していた。母の顔、昔皆で囲んだ食卓は笑顔で溢れていた。どれ位前の話だろうか。最早その細かな内容まで思い出すことは出来ない。ただ楽しかった思い出もあったのだと、ノアはそう考えた。
ロクを含めた学校の皆はどうしているのだろうか。何も言わずに皆の前からいなくなった自分のことを、彼等はどう思っているだろうか。ロクは先、玄関先で怒鳴っていた。使用人は使者をもてなすだろう。黒は神聖な色だと、そう言って。だからロクの行動が嬉しくないと言えば嘘になる。魔法で彼等を吹き飛ばしてくれていれば、こうして気を病むこともないのかもしれない。
そこまで考えて、ノアは素直な自分に内心苦笑した。死というものは、人を素直にさせるのかもしれない。
部屋に近づいた。扉の隙間から光が漏れている。使者はあそこにいるはずだ。ノアはその部屋に近づいた。そして輝力の流れを感じた。部屋の中、話し声とともに高まる輝力は、ノアの肌を突いてくる。ノアはハッとして、急いで部屋に向かった。チクチクと鋭利な刃物の様なこの輝力は、間違いなく彼等へ向けられたものだろう。それを向ける人物は考えるまでもない。ノアは舌の先がヒリヒリする感覚に背を押されつつ、お願いだからと懇願した。自分のために、大切な家族がその手を汚すなどあってはならないのだ。だから勢いよく扉を開いた。
父と母、祖父と祖母。そして黒髪黒目の男女が一組。ノアは彼等に向けられた敵意を感じ取った。




