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第十二話 線引き


 澄んだ空気は肌寒い。廊下の冷たさは好きだった。ひたひたと反響する足音が心地よく、東の空が微かに明るくなっていく様を見届けながら、ノアは目的地へ向かった。まだ母と祖父は起きていないのだろうし、父と祖母とジジは光を避けて部屋の中に戻っただろうから、屋敷は静かだった。鳥のさえずりを聞きながら見やった街並みも、静かに夜から昼の姿へ遷移しつつあった。光から逃げるように白い影が暗がりへ散っていく。暗がりからは色彩に溢れた人影が、その数は少ないながらも現れた。大空に飛び上がった大きな影が一つ、塗り替えられていく闇色にその金色の翼をはためかせた。その背に誰かを乗せている。彼らは視界に収まりきらない空において、自由に雲間を駆けている。時に速く、時に遅く。翼を広げて滑空してみては、強く大気を打って上昇し、畳んで細くなった体は落下し弾丸の様に大気を切った。背上の人は龍にしがみつくということもなく、身を任せて風の中にあった。両手を広げてその身に光を浴びている。暫くの間自由を抱いた彼らは、ややあって再び上昇した。その時だけ、男は彼女の体に触れた。二人は一心同体となって、天上へ駆け上がっていく。やがて男女は雲に消えた。

 ノアはその一部始終を見逃さなかった。男女の逢瀬に心惹かれながら、冷たい窓に手を触れている。ガラスの冷たさが指先に伝わった。心まで貫いてノアは俯く。長い前髪が視界を覆った。白髪の隙間から覗く両足はなんと貧相なのだろうか。骨と皮だけで、その表面には青筋が這っている。醜い足だ。この足ではどこへも行けない。大空を駆けて彼らはどこへ行ったのだろうか。ノアは張り付いた足の裏を暫く、その触れている床が温まるまで持ち上げることが出来なかった。肌が粟立つ。何かが体内で蠢いていた。二つ、誰かがあのそびえたつ峰々の向こうにいる。山脈は朧気で、輪郭を鮮明に捉えることは出来ない。高くも見えるし、低くも見える。ただ横一列に連なっているということはわかった。ノアはその手招きをしているかのような揺れ方に酷く恐怖心を抱き、咄嗟に目を逸らした。吐いた息は震えていた。大丈夫、大丈夫、と唱えた。その場から逃げるようにノアは足を動かした。もつれて危うく倒れそうになるが、どうしてか体は倒れなかった。まだ薄暗い廊下の奥を目指す。光を歩くことは得意ではない。その証拠に、窓から差し込む顔を見せ始めた朝日の光に、ノアは躓いた。皆のため、そう言い聞かせなければ立ち上がることは出来なかった。



 久しぶりに走ったものだから、ノアは息苦しさに手を胸にあてた。片手を傍の木について、息を整える。息苦しさは運動不足と、そして胸の内からくるものであった。額の汗を手の甲で拭ってみせ、一度深い息をついたが、しかし喉の奥に何かがつっかえている。それはノアの呼吸を乱そうとするものだ。浅い息は十分な酸素を肺に届かせない。芝生の上にペタリと座り込んで、ノアはもう一度大きく息を吸った。吸って、そして緑のにおいを体全体で感じて、ついで長く息を吐く。心臓がバクバクと鳴っている。胸の膨らみ越しに手でそれを抑えることが出来れば、この息苦しさを克服することなど、きっと容易いことなのだろう。出来ないからノアは唱えた。

「大丈夫、大丈夫」

 唱えているうちに声から震えが取り除かれた。瞼を持ち上げて握っていた両手を徐に開いた。込められた力に白くなっていた掌は、しかし赤くなることはなかった。両手も体もこの髪も、それらはノアに使命を突きつける。ノアは背中から芝生に倒れこんだ。見上げた青白い大空は、木々の葉に半分覆われていた。

 大丈夫、ともう一度唱えた。夜の寒さを孕んだ空気がノアにまとわりついた。



「ノアちゃん」

 横合いからの声は恐る恐るといった風である。静かに芝生を踏む音と探るような声音、ビビアン・オロールはノアの母であった。

「……寝てるのかしら」

 声は小さい。それは両者の距離の遠さによるものであったかもしれない。だが母の発した声が小さかったのは確かである。

「起きてるよ」

 ノアは目を開いた。芝生の上から見上げた空は青い。草木を揺する風は、ノアにトーストの焼けたにおいを届けた。母の方に顔を向けると、ビビアンは取り繕ったような表情で固まって、その手にトーストやスクランブルエッグ、サラダの盛られた皿とミルクを乗せたお盆を持っていた。目が合う。つりあがった口端が歪だった。それでもこちらを見つめて離さない姿は、どうしてか申し訳なかった。

「おはよう……! 今日はいい天気ね。どうかしら、久しぶりにお母さんと朝ごはん、一緒に食べない?」

 トーストは二枚あった。ミルクが注がれたマグカップも二つある。母は首を傾げてみせた。

 震えている。娘を朝食に誘う母というものは、こんなにも不自然極まりないものなのだろうか。どもりそうなギリギリのところで母は言葉を紡いでみせた。張り付いた笑顔を、ノアは見続けることが出来なかった。

「いいよ。今食欲ないんだ」

 逃げるように逸らした視線はどこに落ち着くということはない。上半身を起こして、最終的にノアは目線を両手に送った。組まれた忙しない両手の繋ぎ目を覗き込む。暗い空間に逃げ込みたい思いだった。

「だったらミルクだけでもどうかしら? 小さい時、ノアちゃんミルクが好きだったじゃない。……ね?」

 母の声音には恐れがある。ノアはそれを感じ取った。まともに話をしたのはいつだ。もう互いの好物なんて思い出の中にしかない。母の持つお盆を尻目に見た。母はカップに手をかけていた。血色のいい指先は、しかし緊張に震えている。張り付いた笑顔のその下に隠された恐怖が見え隠れする。母は恐れているのだ。自分の娘に対して過ちを犯すことを。

「ありがとう、……でもごめん、いらない」

 ノアは精一杯笑ってみせた。これが自分に出来ることだと、金髪を風に靡かせる母を見つつ自身に言い聞かせた。横からこちらに視線を送る母に見えない方の手で、ノアは芝生を握りしめた。

「で、でも……」

 ビビアン・オロールはここにきて初めてどもった。笑顔が消えて、内心の恐怖が顔を見せる。ノア・トワイライトはその表情の変化を細部まで見ようとした。胸が苦しい。抉れてしまいそうだ。だからこそノアは無理矢理に笑ってみせた。

「いいんだよ、お母さん。……ありがとう」



 ビビアンは、朝食の乗ったお盆を木陰の中に置いて屋敷の中に戻っていった。悲しみを湛えた背中をノアは見続けた。溢れてしまいそうな涙を必死で堪えた。

 二人分の朝食、二枚のトースト。お盆の上には温水に浸けたのか、湿っていて暖かい手拭いがこれまた二つあった。ノアは一つ手拭いを取って、手を拭いた。掌についた土が取れていく。黒いシミの下には、透けてしまいそうなほど白い肌があった。

 ノアはトーストをかじった。一口、二口。かじっていくと、遂に涙が溢れた。未使用の手拭いに手を伸ばしかけ、暫しの逡巡の後手に取ったのは、土に汚れた方だった。畳まれた手拭いを広げ、綺麗な面で顔を覆った。誰にも見られたくなかった。

 ミルクを飲んだ。美味しい、と感じるのだからこれは好物なのだろう。

 母は間違ってなどいない。ちゃんと覚えているのだ。ノアはそれが本当に悲しかった。忘れてもらえたらと心の奥底から思っている。これは確約された未来なのだ。別れは必然なのだ。だから悲しませる。だから悲しむ。故にノアは背負わなければならない。忘れてはならないのだ。

 朝食を一人分、食べ終えた。これは贅沢だ。家族など、関係など、ノアは望んではいけないのだ。それがどれ程我儘なことなのか、ノアは誰よりもわかっていなければならない。

 ノアはお盆の上にマグカップを置いた。ミルクは半分、残した。身が切り裂かれる思いだった。


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