Intermezzo 〜ガス代の対価〜
感情。彼に対して安易にそう表現してしまった。
どの口がそれを言ってるのかと、私もふと耳を疑いたくもなった。
物理文芸部の部室となっている化学室には、仄かに甘い香りが漂っていた。
それは、私が先程淹れたアールグレイの香り。高校に入学しておよそ一ヶ月、様々な紅茶を試してみたけど、結局一番最初のこの一杯に戻ってきてしまった。なんとなく飲みやすかったというだけの感想は、単に私がまだ子供だからという理由かもしれない。
化学室にはガスバーナーがある。それを少し拝借して、耐熱性ティーポットでお湯を沸かす。まさしく化学室を部室として使える部活の特権だろう。もちろんガス代なんて払ったことないけど。ちなみに最初は化学室のビーカーも一緒に拝借することを考えたのだけど、さすがにそれはと三年生の先輩に止められてしまった。その三年生も今はこの部室にいない。
今は私と彼、二人だけ。……あ、たまに私の記憶を失った旧友も来る。忘れてた。
正直なところ、なんて不格好な部活だろうと思った。
彼は彼女の兄なのだという。あんなに仲良かったはずの彼女は私のことをすっかり忘れていて、この状況は彼女を彼に取られたような格好だ。どうにも納得がいかない。なんてことを言うと、ラノベとやらばかりを読んでる彼などには、あらぬ誤解をされてしまいそうだ。彼女と私がそういう関係なのかと。そんなわけないだろと。
……ん? もしかして私は、すっかり彼に毒されている??
でも、それでもこの摩訶不思議な関係は、どこか楽しいものに思えてくる。
と言って別に三人で何かをするなんてことは特にない。彼はいつも部屋の一番入口に近い場所でノーパソ広げ小説らしきもの書いてるし、私は部屋の一番奥でAIを書いている。彼女に至っては生徒会があるからたまにしか来ない。こんな三人だから互いに会話なんてのも滅多にない。
そしたら何故楽しいものと思えるのか。もしかしたらこの場所に集まることに意味があるのではと、ふと考えてみた。だってそもそも集まる理由さえ、どこにもないのだから。
物理文芸部。不格好だし、変な部活だ。何する部活なのか、誰も説明できない。
だけどこの化学室に三人が集まるという一点だけは、不変の事実だった。彼女の素っ頓狂の提案で始まった部活は、いつの間にか私の放課後の拠り所になっている。
もしかして彼女は、最初から私のことを思い出していたのだろうか。
だからこんな意味不明な部活を始めようなんて考えたのではないか。
だけど彼女は恐らく、未来永劫その真実を私に打ち明けることはないだろう。
私の知ってる彼女は非常にしたたかな女の子だ。成績優秀で、冷静沈着。甘い笑顔の下に、何を考えてるのかわからない不敵な感覚を持ち合わせている。自分の感情とか本音とか、滅多に前面へ出てこない。
そう考えると、今の彼女はまさに理想の彼女を演じているだけかもしれない。ほんわかな笑顔がそのまま分厚い雪となって、白く染まった桜の花弁を完璧に覆い尽くしてしまう。その結果、私との思い出共々、見事なまでに地面の奥底へと埋もれてしまった。……やれやれ、本当にめんどくさい。
そんな彼女を、彼は一体どうするつもりなのだろう。
彼女のことを理解すればするほどめんどくさいと言うのに、彼は彼女の兄になりきろうとしている。絶対無理だろと私は思う。こんなめんどくさい女の子の兄としてなれるのは、恐らく彼女にとって唯一無二の存在だった。その存在がいなくなった以上、どうあがいたって駄目なものは駄目だろと。
だけど彼は兄になろうとして、結果なぜか彼女は変わってしまったように思う。
今朝の彼女がまさしくそれ。落ち着きがない。なんだったんだあれは。
他人の感情なんて、わかるわけない。
自分のさえわからないのに、他人のなんて絶対無理だ。
彼は化学室の一番手前のテーブルで、コーヒーをドリップして飲んでいた。
苦いのか、それとも甘いのだろうか。
でもきっと美味しいのだろう。私と同様、ガス代を払ってる様子はないけれど。
登場人物
嵯峨野泰史: 俺。元文芸部員
霜宮朱実: 心臓に氷を宿す元物理化学部員
嵯峨野桜花: 泰史の義妹。生徒会庶務
浅川春斗: 桜花の実兄。故人。
読んでくださり、ありがとうございます。
お久しぶりです。いよいよ最終章です!
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