海の向こうへ、届かない想い
霜宮は言葉を詰まらせていた。
黙って桜花の顔を見据え、すっと息を呑む。
優しい瞳に掠れた声。
桜花を呼んだ声のこだまが、今もこの場に反響しているかのよう。
温かさや冷たさといった温度を全て飲み込み、季節感のない海の光景が時間を巻き戻す。
「桜花。貴女は海に来たかったのよね?」
どうしてかその声は、霜宮のいる場所ではない場所から届いた気がした。
「海ってもっと怖い場所だと思ってました」
桜花は最初から答える気などないのか。それともただ聞こえなかっただけなのか。
「……でも、意外と来てみるとそうでもないんですよね。ちょっとだけ安心しました」
小さく微笑む桜花の顔に、嘘偽りなどないと確信できる。
「今はもう怖くないの?」
霜宮はゆっくりその話の糸を紡ぐように、もう一度尋ね直す。
桜花は首を横に振った。その顔は笑っているのか、それとも泣いているのだろうか。
「怖いです。全部波に飲み込まれてしまいそうで」
ただその漆黒の瞳は遥か彼方にある水平線の向こう側を追いかけている。
「でもわたしはわたしでしかないから。だから飲み込まれちゃだめなんですよ」
少し自信めいた口調で、わざとらしい強がりが桜花の声を奮い立たせる。
素の言葉なのか、何かの比喩なのか。曖昧さだけが海水の中へ埋もれていった。
「あ、カメくんちょっと貸してもらっていいですか」
そう言うと桜花は俺の両手からカメくんことカメレオンのぬいぐるみをさっと奪い、それを自分の顔の方へ近づけていった。そいつをじっと睨みつけ、桜花自身もカメくんの目の前であらゆる表情を作ろうとしてるようだ。
怒った顔、泣いた顔、悲しんだ顔、楽しんだ顔。全てがその通りというわけでもない。怒っても泣いても悲しんでも楽しんでもない。まるでカメくんの黒い瞳を鏡と見立て、ただ遊んでいるだけのように思えた。予定調和。ふとそんな言葉が浮かんだ。何かをやり終えて、改めて自分を作り替えてるかのよう。
「そんなことしなくても、貴女は十分可愛いらしいわよ」
霜宮はやや冷めた顔で小さく微笑み、桜花にそう声をかける。
「そうでしょうか? 今ここでカメくんを笑わせることができたら、霜宮さんのその言葉も信じられるんですけどね」
そうか。カメくんには人の顔を認識して、それに合わせて表情を作り変えるAIが内蔵されている。だから桜花はカメくんと睨めっこを始めたのだ。
「そう、だから貴女は可愛いのよ。いつも真っ直ぐに一生懸命で」
霜宮は諭すのを諦めたかのように、やはりくすりと笑うだけだった。
「もしも貴女が昔みたいに……」
霜宮は桜花に聞こえるか聞こえないか程度の声でそう言いかけた。
「え、霜宮さん。なにか言いましたか?」
だけどやはりと言うべきだろう。桜花にその声は届かなかったようだ。
「いえ。なんでもないわ。嵯峨野さん」
霜宮の桜花を呼ぶ声は、ざわざわした静かな叫びだけが海と空へ粉々に霧散していった。
登場人物
嵯峨野泰史: 俺。元文芸部員
霜宮朱実: 心臓に氷を宿す元物理化学部員
嵯峨野桜花: 泰史の義妹。生徒会庶務
読んでくださり、ありがとうございます。
え。呼び方がころころ変わってる?
でも書き間違えではないですよ〜
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カクヨムでも連載しています
https://kakuyomu.jp/works/822139841863405829




