選ぶ道
五輪から一週間。アカデミーの日常は、何事もなかったかのように戻っていた。実習場の音。木の匂い。墨の線。だが、和也と琴葉の中には、確かな変化があった。削りの音が、以前より静かになった。刃が、木に吸い付く。迷いが、減った。
土曜日。久しぶりの月島工匠のバイト。夕方、作業が終わり、事務所に全員が集められた。心太が、前に立つ。いつもの落ち着いた顔。
「少し話がある」
仁吉が切り出した。空気が変わる。
「心太が年内いっぱいで、ここを離れる」
ざわり、と音がした。
「隣県の叔父の工務店を継ぐことになりました」
静かに告げる。仁吉が目を伏せる。重が腕を組む。
和也は動かなかった。
琴葉だけが、息を止めた。
「……本気ですか」
声が、わずかに震える。
「本気だよ」
心太は、まっすぐ答えた。
「月島工匠は続く。俺がいなくてもね」
言葉は穏やかだった。だが、琴葉の胸は強く揺れた。
その夜。琴葉は月島家に泊まることになった。沙紀の部屋。布団に座ったまま、琴葉は何も言えない。
「言いたいこと、あるだろ」
沙紀が静かに促す。しばらく沈黙。
そして‥
「僕は……」
言葉が、途中で詰まる。
「心太さんに認めてもらいたくて、大工を頑張ってきました」
涙が滲む。
「一緒に歩けるようになりたくて。五輪も、そのために」
声が震える。
「でも……」
視線が落ちる。
「練習していくうちに、和也への気持ちが……大きくなって」
沙紀は、黙って聞いている。
「でも、和也には沙紀さんがいる」
顔を上げる。
「どうしていいか、分からない‥」
やっと、本音だった。
沙紀は、しばらく何も言わなかった。窓の外の街灯が、柔らかく部屋を照らす。
「和也をどう思うか、と聞かれれば」
ゆっくりと口を開く。
「愛している」
琴葉の呼吸が止まる。
「恋からも託された」
だが、声は穏やかだ。
「でもな…」
沙紀は、琴葉を見る。
「私と和也は、もう家族だ」
言い切る。
「血じゃない。でも家族だ」
静かな強さ。
「お前が並んで歩みたいなら、応援する」
琴葉が目を見開く。
「……本気ですか」
「本気だ」
沙紀は笑った。
「小暮設計は風香と切り盛りする。私は裏で支える」
少し肩をすくめる。
「場合によっては、月島の番頭もやる」
冗談めかして言う。だが目は真剣だった。
「お前たちはどうせ、現場で競い合うのが希望だろ」
琴葉の胸が、強く打つ。涙が、こぼれた。
「なんで……そこまで」
「恋がな」
沙紀は小さく笑う。
「あいつは、和也に前を向いて生きてほしかった」
少しだけ目を伏せる。
「私は、その続きにいるだけだ」
和也の部屋。和也は、天井を見つめていた。心太の退社。琴葉の沈黙。未来が、少しずつ形を変えている。だが、不安はなかった。
削りの音は、変わらない。
競い合う未来も、悪くない。
沙紀の部屋。琴葉は涙を拭いた。
「僕は……逃げない」
小さく言う。
「自分の気持ちからも、仕事からも」
沙紀は頷いた。
「それでいい」
外では、秋の風が吹いている。
五輪は終わった。
だが、本当の選択はこれからだ。
削るのは、木だけじゃない。
迷いも、削る。
それぞれの道が、静かに分かれ、また重なろうとしていた。その先で、また削り合うために。
第110話目の投稿になりました。ここまでお読みくださりありがとうございます。
心太の退社が告げられました。そして琴葉の本音も。
次回は です。
お楽しみいただければ幸いです。




