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君と彼らが僕の心に火を灯す  作者: 牧村せつら


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110/122

選ぶ道

 五輪から一週間。アカデミーの日常は、何事もなかったかのように戻っていた。実習場の音。木の匂い。墨の線。だが、和也と琴葉の中には、確かな変化があった。削りの音が、以前より静かになった。刃が、木に吸い付く。迷いが、減った。


 土曜日。久しぶりの月島工匠のバイト。夕方、作業が終わり、事務所に全員が集められた。心太が、前に立つ。いつもの落ち着いた顔。

「少し話がある」

仁吉が切り出した。空気が変わる。

「心太が年内いっぱいで、ここを離れる」

ざわり、と音がした。

「隣県の叔父の工務店を継ぐことになりました」

静かに告げる。仁吉が目を伏せる。重が腕を組む。

和也は動かなかった。

琴葉だけが、息を止めた。

「……本気ですか」

声が、わずかに震える。

「本気だよ」

心太は、まっすぐ答えた。

「月島工匠は続く。俺がいなくてもね」

言葉は穏やかだった。だが、琴葉の胸は強く揺れた。


 その夜。琴葉は月島家に泊まることになった。沙紀の部屋。布団に座ったまま、琴葉は何も言えない。

「言いたいこと、あるだろ」

沙紀が静かに促す。しばらく沈黙。

そして‥

「僕は……」

言葉が、途中で詰まる。

「心太さんに認めてもらいたくて、大工を頑張ってきました」

涙が滲む。

「一緒に歩けるようになりたくて。五輪も、そのために」

声が震える。

「でも……」

視線が落ちる。

「練習していくうちに、和也への気持ちが……大きくなって」

沙紀は、黙って聞いている。

「でも、和也には沙紀さんがいる」

顔を上げる。

「どうしていいか、分からない‥」

やっと、本音だった。

沙紀は、しばらく何も言わなかった。窓の外の街灯が、柔らかく部屋を照らす。

「和也をどう思うか、と聞かれれば」

ゆっくりと口を開く。

「愛している」

琴葉の呼吸が止まる。

「恋からも託された」

だが、声は穏やかだ。

「でもな…」

沙紀は、琴葉を見る。

「私と和也は、もう家族だ」

言い切る。

「血じゃない。でも家族だ」

静かな強さ。

「お前が並んで歩みたいなら、応援する」

琴葉が目を見開く。

「……本気ですか」

「本気だ」

沙紀は笑った。

「小暮設計は風香と切り盛りする。私は裏で支える」

少し肩をすくめる。

「場合によっては、月島の番頭もやる」

冗談めかして言う。だが目は真剣だった。

「お前たちはどうせ、現場で競い合うのが希望だろ」

琴葉の胸が、強く打つ。涙が、こぼれた。

「なんで……そこまで」

「恋がな」

沙紀は小さく笑う。

「あいつは、和也に前を向いて生きてほしかった」

少しだけ目を伏せる。

「私は、その続きにいるだけだ」


 和也の部屋。和也は、天井を見つめていた。心太の退社。琴葉の沈黙。未来が、少しずつ形を変えている。だが、不安はなかった。

 削りの音は、変わらない。

 競い合う未来も、悪くない。


 沙紀の部屋。琴葉は涙を拭いた。

「僕は……逃げない」

 小さく言う。

「自分の気持ちからも、仕事からも」

沙紀は頷いた。

「それでいい」

外では、秋の風が吹いている。

 五輪は終わった。

 だが、本当の選択はこれからだ。

 削るのは、木だけじゃない。

 迷いも、削る。

 それぞれの道が、静かに分かれ、また重なろうとしていた。その先で、また削り合うために。


第110話目の投稿になりました。ここまでお読みくださりありがとうございます。

心太の退社が告げられました。そして琴葉の本音も。

次回は です。

お楽しみいただければ幸いです。

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