初日の音
大会当日。まだ薄暗い早朝、ホテルの一室で鉛筆の音だけがしていた。
シャッ、シャッ、とベニヤに走る線。和也は現寸図を一枚、無言で引き終えた。隣では琴葉も、同じように線を引いている。練習通り。それだけだった。
朝食はほとんど味がしなかった。だが箸は止まらない。体に入れておく。
8時過ぎ、会場入り。アリーナの空気は昨日とは違っていた。人が増え、工具の金属音が響き、それでもどこか、静かだった。誰もが、自分の中に潜っている。
「和。琴葉」
背後から声。
振り返ると――
「え……」
月島工匠の一団が立っていた。仁吉を先頭に、職人たち。月までいる。さらに、和也の両親。琴葉の両親。風香が手を振っている。
「お兄ちゃん! 琴葉ちゃん! 頑張って!」
「昨夜12時に出てきた」
仁吉が言う。
「会社は臨時休業だ」
その言葉に、和也は息を呑んだ。心太もいる。重もいる。さらに奥から、石崎が姿を見せた。
「昨日の最終で来た」
短く言う。神門も腕を組んで立っている。和也は、笑った。
「いつも通りに頑張れる。ありがとう」
琴葉は、少しだけ肩を震わせながら言う。
「でも……ちょっと緊張するな」
「ほな、わいらの顔見てリラックスや」
雄介がにやりと笑う。
「このばかの顔見たら調子崩すから見ないでいいよ」
あいりが即座に返す。
「なんでや~」
望、ほのか、美山、玲奈。みんな、いる。
「大応援団だね~」
坂崎が静かに言った。
場所の抽選。当日変更部材の発表。建築大工部門、67名。
工具の準備時間が終わる。
午前9時。開始直前。会場が、しん、と静まり返った。会場が、しん、と静まり返った。
67人の呼吸だけが、そこにあった。琴葉の手が、震える。
――緊張している。手が、冷たい。この時間、長い。
呼吸が浅くなる。その隣で。和也は、なぜか笑っていた。周囲は張り詰めている。誰もが固い表情。その中で、ただ一人。
――みんながいる。いつも通りやるだけだ。自信はある。
作業開始の合図。空気が破れた。
現寸図。最初に手が上がった。琴葉。迷いのない動き。和也は5分遅れて追う。
木削り。鉋の音が、アリーナに響き渡る。
シュッ——。
スコヤ、自在金で矩を確認する。部材のくせを慎重に読む。
午前中。最初に木削りを終えたのは、和也だった。続いて10分後、琴葉も終える。
昼休憩。
作業エリアを出ると、坂崎が近づく。
「どうだ」
「……0.7、削りすぎた」
琴葉の声が小さい。坂崎は即座に言った。
「天端面で併せればさほど問題ないよ。基準をずらさなければ精度は保てる」
和也が続く。
「想定の範囲内だよ。十分リカバリーできる」
琴葉は、息を吐く。
「……うん」
午後。墨付け。 部材提出三回。和也は最も早い。琴葉は、変更部材で一瞬止まった。
——違う。
手が、止まる。墨を誤った。数部材。鉋で墨を落とす。時間が削られる。
午後5時15分、終了の合図。琴葉は、エリアに立ち尽くしていた。
「……やっちゃった。変更部材の墨」
声が震える。誰もすぐに言葉をかけられない。その中で、和也が近づく。
「想定の範囲内だよ」
静かな声。
「リカバリーできる」
沙紀が腕を組んだまま言う。
「いいじゃないか。絶体絶命から挽回してみろ。お前の力はそれが出来るはずだ」
琴葉は、涙を拭った。
「……うん」
夜。ホテルの部屋。鉋を、もう一度研ぐ。天然砥石の上を刃が滑る。昨日より、静かに。
沙紀は、今夜は琴葉の部屋にいた。何も多くは言わない。ただ、隣にいる。
大会初日、終了。まだ終わっていない。明日がある。
刃は、立っている。
あとは、心だ。
第107話目の投稿になりました。ここまでお読みくださりありがとうございます。
練習どうりやっていてもそれでもミスは起こります。どうやって修正するか。五輪ではその修正力が問われます。もちろんここで大事なのは気持ちです。決して切れることなくモチベーションを保てるか。この晩は沙紀は琴葉に寄り添いました。琴葉、立て直せるでしょうか。
次回は全国大会二日目です。
お楽しみいただければ幸いです。




