前夜の光
壮行会から二日後の金曜日。午前8時ちょうど、アカデミーの公用車がゆっくりと校門を出た。運転席は坂崎。後部座席に、和也と琴葉。
空はよく晴れていた。高速道路に入ると、車内は思いのほか静かだった。6時間強の移動。長いようで、短い。サービスエリアで軽く昼を取り、午後2時過ぎ、富川市総合体育館に到着した。まだ競技は始まっていないはずなのに、空気だけがすでに本番だった。
アリーナは、広かった。天井が高く、空気が乾いている。白いテープで、約二メートル角の作業エリアが整然と区切られていた。その外側には、工具置きと通路がきっちり分けられている。建築大工、建具、家具。木工系の職種はすべてここに集まっている。まだ人はまばらだが、空間そのものが張り詰めている。
琴葉は、エリアの中央に立った。足元の白線。自分の番号。作業エリアは当日受付後の抽選で決まる。
——ここでやる。
指先が、わずかに震えた。
「緊張してる?」
坂崎が背後から声をかける。
「……少し」
「なんか、会場に立ったら急に」
和也が、そっと琴葉の手を握った。
「大丈夫だよ」
その声は、驚くほど落ち着いていた。坂崎が腕を組む。
「いつも通りやろう。練習でやってきたこと以外はする必要ない。練習通り、それだけだよ」
琴葉は深く息を吸う。
「……うん」
道具は車に積んだままにした。
「どうせ車だからな。明日持ち込めばいい。今夜はホテルで最終チェックだ」
坂崎の言葉に、二人は頷く。その後、会場近くのホテルへチェックインした。
夕方。
「飯、行くよ」
3人でロビーに降りると、坂崎が足を止めた。
「ちょっと待て。もう一人来る」
「え?」
振り返った瞬間、背後から声がした。
「遅かったな。これから飯だろ。私も一緒にいくぞ」
「……沙紀姉ちゃん?」
2人が同時に驚く。
「坂崎先生に連絡取って、ホテルと日程教えてもらってたんだ」
さらりと言う。そして、小さな写真立てを取り出した。
「今日だけは、恋を連れてきたくてな」
柔らかく笑う。その笑顔の奥に、わずかな涙が光った。
近くの洋食屋。テーブルの中央に、恋の写真が置かれる。
「すみません、妹も仲間に入れてやっていいですか」
沙紀が坂崎に言う。
「もちろんだよ」
和也と琴葉は定食を注文した。沙紀も同じものを頼む。坂崎はつまみをいくつかと、生ビール。グラスの泡が静かに揺れる。
沙紀は写真を見つめたまま、小さく言った。
「恋を連れてこれて、よかった」
声は震えていない。だが、目に光が滲んでいた。和也は写真を見る。胸の奥が、ふっと軽くなった。
——いつもと、何も変わらない。
それが、いちばんありがたかった。
夜。坂崎が用意した空き部屋にベニヤ板を広げる。現寸図を、もう一度描く。線は迷いなく走った。天然砥石で仕上げた刃を確認する。
鑿、鉋、墨壺、差金。一本ずつ、触れていく。刃先に指を当て、吸いつくような感触を確かめる。沙紀と坂崎は、何も言わずに見守っていた。
「よし」
道具箱を閉じる音が、静かに響く。
消灯後。和也の部屋。ベッドの横に、恋の写真が置かれている。沙紀が、そっとひざまずいた。
「今日どうだった」
「……思ったより、緊張した」
「そうか」
沙紀の手が、和也の頭を撫でる。子どもの頃から変わらない仕草。
「でも、大丈夫だと思う」
「なんでだ」
「みんな、いるから」
沙紀は微笑む。
「そうだな」
しばらく沈黙。
「明日から、やるよ」
「やってみろ」
短い返事。和也は目を閉じた。不安はある。だが、それ以上に静かだった。大会まで、あと一日。
刃は整った。
心も、整えた。
あとは、木と向き合うだけだ。
第106話目の投稿になりました。ここまでお読みくださりありがとうございます。
ついに全国大会に来た琴葉と和也です。和也には何よりの援軍である沙紀も駆け付け。
次回は全国大会競技初日です。
お楽しみいただければ幸いです。




