何度でも、どこまでも.
目の前の現実を受け入れられない。絶対に出来ない、無理だ。どうして俺の蘭が死ななければならない?何が世界の英雄だ、そんなものはどうでもいいんだ。俺のそばでずっと生きていてくれさえすれば、それだけで良かったんだ。
「嫌だ………蘭、起きて……?」
虚しく響く声は、俺の荒い呼吸に飲まれて空気に溶けた。蘭が死んだなんて認められない。認めたくない。どうして?ようやく会えたのに。ヘリコプターに乗って旅立った日から、生きた心地がしなかった。俺の半身が千切られたかのように痛くて痛くて、ただ淡々と仕事をこなすのみの毎日。それでも生きていられたのは、蘭がこの世に存在していて、必ず帰ると約束してくれたから。たったそれだけを糧に生きてきたのに。それが失われた俺は、そもそも存在している理由さえ無い。
「起きて?起きて、蘭。一緒に映画を観ようよ。俺がポップコーン焼くからさ。あれ好きだろう?ポンポン音が鳴るのが楽しいって、よく一緒に作ったな。」
クッタリと力の無い蘭の身体を抱きしめた。ふわりと甘い、愛しい愛しい匂いを胸いっぱいに吸い込み、急速に熱を失っていく唇に口づける。枯れる事を知らない涙は絶えず流れ続けているが、それすらもはやどうでもいい。
「映画は気分じゃないから起きないの?ならそうだな、ゲームしようか。蘭が唯一俺に勝てるレースゲームやろう。それならさ、悔しくて拗ねる事も無いんじゃないか?」
ゲームが大好きなくせに凄く上手いわけではなく、俺に負ける事もよくあるために拗ねていた。そんな横顔を見るのが大好きで、人差し指で頬を押して機嫌が直るのをニヤニヤ待っているのがたまらなく幸せだった。だからわざと勝って、ひたすらベタベタに甘やかして過ごす事も少なくなかったんだけど、今日はどんなゲームも俺が負けよう。だから、だから。
「ねえ、起きてってば。絶対に俺が勝つ事は無いと思うよ?バカにしてるんじゃなくてさ、本当に今日は勝てないと思う。だから機嫌直してよ、起きてゲームしよう?」
俺の涙が蘭の顔を濡らし続け、まるで眠りながら泣いているかのようだ。そうか、やっぱり拗ねてるんだね、だから起きてくれないんだ。今日は勝てないよ絶対に。だから安心してほしいのに、どうして伝わらないんだろう。どうして蘭は冷たくなっていくんだろう。
「寒いのか?ごめんな、気付かなくて。ほら、布団掛けたよ。もっとこっちにおいで、蘭、おいで。俺が温めるから、風邪引くぞ?」
どんなに小さな身体をギュッと抱きしめても、いつものように腕を巻き付けてくれない。これじゃあ密着しきれなくて、隙間が出来て寒いよ。どうして今日はこんなに機嫌が悪いんだ?やっぱり具合いが良くないんだろうか。帰ってきばばかりなのに、無理をさせてしまったからか。いくら会いたくて会いたくて狂いそうだったからと言って、休ませなかったのは酷だったな。
「ごめんな、俺あまりにも嬉しくて無理させちゃった。ゆっくり寝ような。ほら、身体が冷たいぞ。俺は丈夫で風邪引かないから、安心してこっちにおいで。」
なるべくそっと抱きしめて、冷たい身体を温める。俺の熱なんて消えてしまってもいいから、蘭が温かくなってほしい。そうしてたくさん眠った後に、いつもみたいに起きて笑ってくれるなら、なんだってするから。なのにどうして温かくならないんだろう。俺の身体も冷えてきてしまった。これでは蘭の体調は悪くなるばかりだ。俺はなんて役に立たないんだろう。蘭のためだけに生きているのに。
ただただひたすら布団の中で抱きしめ続け、それでも奪われていく蘭と俺の熱。忘れてしまう程に涙が流れ続けているが、この熱だけでも蘭に全て移ってくれたら。冷えた背中をゆっくりさする。あまりにも頼りなく細いその背中に、嗚咽が漏れてしまい歯を食いしばった。大声で泣いたら蘭が起きてしまう。疲れて寝ているだけなのに、起こしてしまったら大変だ。
「ワンッ!!!」
いつもは蘭の躾によって絶対に吠えないごまが吠えた。予想外に大きな鳴き声で、悔しい程にごまが大好きな蘭が心配して起きてしまう。俺は慌ててごまに向かって “おすわり” のハンドサインをした。しかしそんな事はお構い無しに、ピスピス鼻を鳴らしたかと思うと、再び大きな声で吠えたのだ。何度も。
「ワンッ!!ワンワンッ!!!」
それは胸を締め付けるような悲痛な鳴き声で。どうしてそんな声で吠えるんだ?今にも蘭が起きるだろうが。ダメだよごま、疲れて寝てるんだから、しっかり寝かせないと。起きたらお前も一緒に遊ばせてもいいから。なのに、いつまで経っても蘭は起きない。
どうして起きない?どんなに具合いが悪くても、疲れさせて深く眠らせている時も、必ずごまのピスピス声に反応して起きていたのに。そして無理をしてでも、撫でてなだめていたのに。こんなに起きてこないのはおかしいんじゃないか?
「蘭、どうした?ごまが吠えてるのに起きないなんて。」
そっと頬を撫でて様子を見ると、相変わらず穏やかな顔をして目を閉じていた。すっかり痩せて頬がこけてしまっているが、それでも変わらず綺麗でかわいい俺の大好きな愛しい蘭の顔。それなのに何かが違う。痩せたとかじゃない、これはどういう事だ?
「蘭、蘭?どうしたんだ?これは……まるで死んでるみたいじゃないか。そんなはずないのにね、そんなはず………、」
そうして唐突に理解した。受け入れられないのは変わらないのに、これは現実であると嫌でも脳が余計な事を理解する。それはあまりにも衝撃的で、心と頭が別々であるせいか笑ってしまった。乾いた声で笑い続け、涙はいつまでも止まらなかった。どうしてどうして、どうして心と頭は別々なんだろう。心なんて無くなってしまえばいいのに。そうしたら、こんなにも痛みを感じる事もないのに。
「………あああああっ!!!!」
必死に冷たい身体を抱きしめて、大声を出して泣いた。泣いても泣いても止まらないし、頭が痛くなって手足が痺れてきた。それでも止まらない涙に、このまま枯れて死んでしまえないかと本気で思った。カラカラに乾いて、そうして流れた涙は蘭の身体に吸収してもらえたらいいのに。ひとつになれたらいいのに。
ごまはもう吠えなかった。ひたすらにピスピス鼻を鳴らし、最愛の飼い主の喪失に気付いているようだ。ああ胸が痛い。お前は教えてくれていたんだろうか、現実を見ろと俺に教えるために吠えていたんだろうか。
そっとベッドに蘭を寝かせると、掛け布団をして台所へ向かった。そうして水をマグカップと皿に汲んできて、ごまと一緒に飲んだ。あまりにも大量に水分を出したせいか、飲んでも飲んでも乾いているような気がしてくる。本当は水なんて飲みたくなかったが、やる事が少し出来たために口にすると、洗面所へ行って顔を洗った。
「ごま、行こう。」
そうしてハーネスとリードをしっかり確認し、共に警察署に向かうおうとした。しかし最後に短い足を必死で踏ん張って、寝室へ行こうとする意図を察して連れていくと、一目散に蘭の寝ているベッドに前足を乗せた。鼻をピスピス鳴らして、マズルで蘭を押す。それでも反応が無いから、頬を舐めてまた押す。何度も繰り返して、いつしかピスピス声が細く長い鳴き声に変わり、くーんくーんと部屋中に響き渡っては消えていく。それはあまりにも悲痛で、無理やり止めた涙がまたあふれそうになる程だった。
「……ごま、やめろ。」
思わずそう声を掛けるが、気にせずにカシカシ後ろ足を動かして、どうにかベッドに乗り上げてしまう。そのまま蘭の顔の辺りをピスピス鳴きながら歩き、悲しげな声で小さく吠えると顔の近くに丸くなって寝てしまった。いつもは足元に寝るくせに、今日は顔のすぐ横に寝ている。そしてリードを引っ張っても、頑として動こうとしなかった。しまいには、俺に向かって唸りながら牙を剥く始末で、どこまでも忠実な犬だなと思ったのだ。
どうしようもない程に動かないごまに困って、眉毛を八の字にした。警察署に行って、西野警部補に託そうと思っていたのに。きっと彼ならば、彼と奥さんならば間違いなく、ごまを幸せにしてくれるという自信があった。蘭を絶対に忘れないだろうが、それでもたくさんの愛情を注いでくれるだろうと信じている。だからこそ託しに行こうと思っていたのに。
「……お前はどこまでも、俺と同じだな。だけどでも、蘭に怒られるのは俺だけでいい。お前はまた、幸せになれるんだ。」
どんなに言い聞かせても、頑なに動かない。そういう所は本当に俺と似ている。だからこそ、ごまはどうするつもりなのか理解出来るが。でもそれは蘭がつらすぎて泣いて泣いて狂ってしまうだろう。そんなのはだめだ。だから噛まれる覚悟で、ガッと抱き上げる。するとやはり牙を剥いて吠え、暴れて暴れて蘭の元に戻ろうとする。きっと俺を恨むだろう、許さないだろう。それでもかまわない。蘭のためにも、お前は幸せになるんだ。そうして生涯を終える時に、2人で迎えに行くから。約束するから。
「ごま、出来るだけゆっくりゆっくり来いよ。蘭と2人の時間は長ければ長い程いいからな。」
暴れるごまを抱きながら、なんとかそう言うと大急ぎで警察署に向かう。家を出る時に玄関から、「すぐに戻るよ、待ってて!」と蘭に声を掛けた。地面にごまを降ろすと絶対に踏ん張られるために、お互いに暴れながらなんとか腕に抱き続けて無事に警察署に着いたのだった。そうしてすぐに西野警部補を見つけた。恐らく近々自宅に戻ろうと思っているらしく車の様子を見ているところだったが、俺に気づくと驚愕した表情でこちらを向いた。
「柿崎、驚いた。どうしたんだ?ごまちゃん暴れてるぞ。」
そう言いながら、暴れるごまを撫でようと試みている。噛まないと思うが、興奮しているので気をつけてほしいと伝えた。そうしてそのままリードを託すと、一歩離れて敬礼する。それに驚いてポカンとしている彼に向かって、心の底からの願いを言う。
「西野警部補、お願いがあります。どうかごまを、妻の大切な大切なごまを、引き取っていただけないでしょうか。」
すると全てを察したらしい彼は、驚愕の表情を真顔に戻すと、今度はギュッと眉間に皺を寄せて苦しげにしている。彼はとても敏いから、俺のこれからの行動も全て分かっているんだろう。けれども止めるなんて出来ない事も、同時に理解しているはずだ。だからスッと脇に挟んでいたA4のクリアファイルを渡すと、それにサッと目を通す彼が顔を上げた。
「それは、念の為に妻が作成していたごまの注意事項です。好きな物、好きな事、好きなごはん、好きなおやつ、トイレや躾は完璧であるという事が物凄く事細かに書かれています。これさえあれば、何も困らないでしょう。だからどうか、どうか引き取っていただけませんか。」
蘭のごまへの愛が詰まったそれは、どんな取扱説明書よりも丁寧で非常に細かい。だから誰でも問題なくごまをお世話出来るだろうが、俺は西野警部補しか適任者はいないと思っている。それに彼は、必ず引き受けてくれるだろう。
「……分かった。もちろん引き取らせてもらおう。俺と妻が、絶対に幸せにすると約束する。だから安心してほしいと、奥さんに伝えてくれ。」
そうして目を強く閉じると、ごまをそっと抱き上げた。もう吠えも暴れもせず、ただ大人しく抱き上げられたごまは、俺をまっすぐ見つめていた。それはまるで、全てを理解しているかのような。だから思わず、涙がこぼれてしまった。たくさんたくさん喧嘩したし、最後まで相容れなかったが、それでも俺はお前が好きだったよ。嫉妬で狂いそうだったのは事実だけど、それでも大切だった。嘘偽りなく、そう言えるんだ。だから必ずお前を、大切に大切にして幸せにしてくれる人にしか託したくなかったんだよ。
「ありがとうございます。西野警部補にしか出来ない事です。本当に感謝してします。俺にとっても、本当に大切な愛犬でした。けれどそれでも、俺は。
必ず妻に伝えます。貴方と共に仕事が出来た事は、我が生涯における最大の自慢です。あ、もちろん妻の次ですが。」
そう口角を上げて言うと、彼は泣きながらも声を出して笑ってくれた。それから右手で強く握手をかわすと、最後にごまをしっかり撫でてから、「課長によろしく」と言って走って蘭の待つ家に戻ったのである。あまりにも課長に対して塩対応な気がするが、彼はなんとしても俺を止めようとするので敢えて会わずに済ませる事にしたのだ。
「ワンッ!!!」
遠ざかる俺に向かって聞こえたごまの声は、いつまでも忘れないと心に誓った。
「ただいま。」
そうして戻ってきて、すぐに蘭の寝ているベッドに横になった。出た時と何一つ変わらないままで、ただひたすらに身体が冷たい。まだ柔らかい蘭を抱きしめて、思いっきり匂いを吸う。絶対に怒るだろうし、もしかしたらしばらく機嫌が直らずに口をきいてくれないかもしれない。
だけどそれでも、そうだとしても俺は。蘭がいない世界なんて必要ない。俺とごまのために命を懸けて世界を救った事も、嫌という程に理解しているが、それでもだめなのだ。蘭がいなければ何の意味もない。半身を失った状態で生きていける人間なんていないだろう、それは当然俺だってそうだ。
それに早く蘭の元に行かないと。ヘリコプターに一緒に乗っていたあの男、あいつが今にも先に行こうとしているだろうから。そんなの絶対に許さない。ひと目で分かったから敢えて無視してやったが、あれは確実に蘭に惚れていた。惚れてるなんてもんじゃないだろう、愛して愛して狂おしくなっていると分かった。それは奴も思ったはずだ。だからこそ、すぐにでも蘭の元へいかなければ。不安なんて何一つない。むしろ早く行かない方が狂気で叫び出してしまいそうだ。
目的の物を取りに行くために台所へ向かい、すぐに手に取って戻ろうと足を進める。そしてふと見た居間のテーブルの隅に、愛おしい蘭の字で書かれた手紙が置いてあった。それはルーズリーフ1枚に大きな文字で書いてあり、きっとすぐに見つけてほしいと思ったんだろう。そっと取って胸に抱くと、滝のようにあふれてきた涙をそのままに蹲る。
『私は本当に幸せでした。けんちゃんもごまちゃんも、ずっと大好きだよ。』
胸が痛くて痛くて耐えられない。どうして、どうして。こんなにも愛しているのに、本当に他に何もいらないのに。どうして俺から蘭を奪っていくんだ。取り戻させるつもりがないなら、俺が奪いに行くまで。どこまでだって追いかけて、相手が神でも悪魔でも必ず奪い返す。そのせいで呪われて、もしもこのまま、世界が滅んでも。それでも俺は、絶対に蘭を奪い返して放さない。
手紙を胸元に畳んで仕舞いながら寝室に戻ると、蘭を跨いで見下ろした。そうして微笑んで冷たい唇に何度も口付ける。それに飽き足らず顔中に唇を当てると、最後に唇に深く口付けたのだった。
「……蘭、俺の方が幸せだった。もちろん今も幸せ。ずっとずっと愛してる、愛してるんだよ。大好きだ、苦しくてつらい程に好きだ。きっと怒るだろうけど、それでも分かってたんだろう?俺がすぐに追いかけるって。だから念の為にごまの細すぎる説明書を作成したはずだ。」
そっと蘭の両手を握ると、持ってきた果物ナイフを手にしっかり持たせて俺の手で固定する。そして顎の下あたりの首に当てた。
「蘭の手で死ねるなんて、俺は本当に幸せだなあ。愛してるよ、どこまでも逃がさない。誰にも奪わせない。蘭はいつもいつでも俺のだよ。来世でも何度生まれ変わっても、それは変わらない事実だからね。蘭、愛してる。待ってて、今行くよ。」
痛みなんてどうでもいい。そんな事よりも、蘭の手で首を切られていると思うと幸福のあまり笑い声が漏れた。血飛沫が顔にかかり、真っ赤に染まった俺の蘭。それは全身で血液を吸収してくれているかのようで、恍惚の表情を浮かべてしまった。
「……蘭、あいしてる。」
もう空気となった声を出しながら、少しだけずれて上に重なると、残る力全てで何度も口付けた。そうして力の入らなくなった腕で抱きしめて、
「あいしてる。」
そう呟いて目を閉じ、凍える身体で暗く沈みゆく意識を手放した。最後に一瞬、蘭の笑顔が浮かんだ俺の顔は、そっと微笑んでいた事だろう。




