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またね、おやすみ。

その日は朝から調子が良かった。まるで全ての苦しみから解放され、ようやく夫に会える事を神様が祝ってくれているかのように、流動食も多めに食べられたし心做しか肌と髪のツヤも良かった。


そんな私に2人は同じように喜んでくれていたけれど、どうしたって悲しい雰囲気を隠せていないのが逆に申し訳なくて、敢えて何も言わずにいつも通りに過ごしたのである。


「蘭は何もしなくても綺麗だけどさ、お化粧する?」


食後に着替えをさせてくれながら、シンディがそう訊いてくれた。確かにようやく夫に会えるし、きっと最後になるだろうから、出来るだけ綺麗な姿のままの私を覚えていてほしい気持ちもある。けれどでも。ゆっくりと首を左右に振ると、口角を上げて微笑んだのだった。それはシンディにしっかり伝わり、「分かった。今日もかわいいよ、蘭!」と言って髪に櫛を通して左耳の横で一つに結んでくれたのである。横になっている事が多くなったため、ポニーテールだと寝づらいだろうという配慮からこの位置に結んでくれる。そんな気遣いが物凄く嬉しい。


「……シンディ、ありがとう。貴女は私の親友。大好き。」


仕上げに強めのハグをしてくれた彼女に、私は心からそう伝えた。どうしても言いたかったのだ、この声が出るうちに。まだ右腕が上がるうちに、抱きしめたかった。理美以外に友達がほとんどいなかった私にとって、シンディの存在は本当に心の支えだったのだ。休憩の合間に話しくてくれる何気ない日常の事、妹のミアと喧嘩ばかりな事、それを母親が止めようとして無自覚に燃料を投下してくる事、そして3人を笑顔で窘めてくれつつも、大きな愛でいつも包んでくれていた父親の事。そんな家族が大好きだという事。身振り手振りを大きくして楽しそうに話してくれる彼女が大好きだった。いや、今も大好きだ。


「私の方が大好きだよ!!!」


そう言いながら肩に顔を埋めて声を殺して泣く彼女に、私の左耳のピアスを外すように頼んだ。そうして涙に濡れた顔でコロンと手に置いてくれたそれを、微笑んでゆっくり差し出した。


「汚くてごめん。これあげたいの。消毒して持っていてくれないかな、お揃いにしよ?私を貴女に忘れないでほしいの。」


絞り出した声で伝えると、ギュッとピアスを両手で握り、まるで祈るように頭上に掲げて大声で泣き始めてしまった。本当に汚くて申し訳ないが、渡せる物がそれしかないのだ。私のお気に入りの、ホワイトカルセドニーのまんまるピアス。白が大好きな私が一目惚れしたピアスで、少し大きめのまんまる加減も気に入っていつも身につけていた。それに石言葉も〔絆〕だったはず。


「ありがとう、ありがとう蘭。大好きよ、本当に大好き。短い間だったのに、昔から友達だったみたいな感覚なの。ふふ、お揃いにしよう。ずっとずっと大切にするからね。忘れたりしないよ、大好きな親友を忘れるもんか!!」


そうして2人で泣き笑いをしながら、スコットが迎えに来るまでずっとハグしていたのだった。



「……おいシンディ、代われ。」


不機嫌極まりない声で、ドアに寄りかかりながらそういう彼はいつからいたのか。ムッとしつつも私達が満足するまで待ってくれるあたり、彼はとても優しいなと思う。


そんなスコットの不機嫌さをものともしないシンディは最後に私の頬に唇を当てると、涙で光る目をそのままに笑顔で退室して行ったのである。そうして入れ替わりにスコットが私の前に跪き、青い目に熱を宿して微笑みながら見つめてくる。黒髪で属性が同じという事もあって、夫と似ている彼の言いたい事は言葉にされなくても分かる。それに寝る前にたくさん伝えてくれたし、私も伝えた。だからお互いに言葉にせずともそれで良かったのだ。けれど、シンディにあげてスコットに何も無いのはフェアじゃないだろう。だから、いつも身につけているネックレスを外してほしいと頼んだ。


「君の顔に近付けるチャンスだ。」


そうおどけながらも、優しい手つきで外してくれたそれは、ピアスとお揃いで買ったホワイトカルセドニーのまんまるネックレス。ピアスと同じ大きさの石だから見栄えが良く、毎日つけていたものである。ピアスよりは重くないかなと、それを渡したいと思った。


「スコット、それ受け取ってくれない?貴方に同じ感情を返せないのは本当に申し訳ないんだけどね、親愛は確かにあったの。貴方がいなければここまで来られなかったし、頭痛に負けていたかもしれない。だから感謝の気持ちとして受け取ってほしくて。残酷な事かもしれないけど、私を忘れないでほしい。貴方とシンディには、ずっと覚えていて欲しいの。最後の我儘をどうか許して。」


出しづらい声を一生懸命出して、なんとか言い終えた時には唇に口付けされてしまっていた。驚愕のあまり反応が遅れ、ガッチリ固まってしまった私に構う事無く、すぐに背骨が軋む程に抱きしめられた。怒れなかったのは、やはり彼が苦しげに泣いていたから。


「……忘れない、絶対に忘れない。愛してる。気持ちを返してくれなくていい、だけど拒否しないでくれてありがとう。俺の我儘を最後まできいてもらったんだから、蘭の我儘も当然きかないとな。ずっと身につけるよ、一日だって忘れる事は無いと誓う。だから最後にキスした事は許して。」


そう言いつつ自分の首につけると、彼には少々チェーンが短くて笑ってしまった。やはり男性と女性では違うのはもちろんだが、人種的なものかより大柄の彼には短くなってしまっている。女性にしては長めのチェーンで良かった、と微笑んで見つめると、本当に嬉しそうに微笑み返してネックレスに口付けている。なんてキザな、さすがである。


これは今は言えないが、ホワイトカルセドニーには〔絆〕の他に、確か〔良縁〕の石言葉もあったのではなかっただろうか。だからどうか、彼にも幸せな出会いがありますように。私を愛してくれてありがとう。だけど絶対に思いを返せないし応えられないから、貴方がもう一度愛して、愛を返してくれる人に出会えたら嬉しいと心から思う。


「……蘭、行こう。」


そうしてそっと抱き上げると、温かな涙の雨を降らせながら屋上へ向かってわざと階段を上っていく。そのやや後ろにシンディが続き、文句なんて言わない。2人とも少しでも時間を稼ぎたいんだろうと分かり、私もこの穏やかな時間が好きだったから特に急かさなかった。 無言の3人の時間は一瞬であったが、最後にふさわしくとても温かくて、忘れられないものになったと思う。


そのままヘリに乗り込み、いつものようにスコットがベルトとヘッドホンを装着してくれて、右隣に座る。目の前にはシンディがいて、彼女の左耳にはお揃いのピアスがあった。思わず口を開けたまま見つめていると、「早速消毒して着けちゃった!」とヘッドホンのマイクに言って微笑む彼女に破顔してしまったのである。行動が早い。同じように気付いたらしいスコットが防護服から少しネックレスを見せると、一気に鬼の形相に変わったシンディが文句を言い、それを涼しい顔で躱しているのを声を出して笑った。やっぱり3人で過ごす時間が好きだなあ。あっという間に目的地に着きかけ、心を落ち着けて感染者達を完全停止させていった。


私は本当に調子が良くて、全く頭痛に悩まされる事もなくスムーズに進めた。心も凄く穏やかで、このまま眠ってしまいそうな程である。だけど分かっていた。眠ったら最後だという事を。そしてようやく、夫と愛犬の待つ警察署に向かう。一番最後だけど、そうして良かった。スコットが警察署に連絡し、あと15分で着くと伝えている。きっと夫はもう既に外にいるんだろう。早く会いたいな。眠いけど、最後の力を振り絞って滅さなきゃ。警察署にいるクソ野郎を。

























そうして見えた警察署。スコットさんが支えてくれて見えた地上には、やはり夫がいた。小さくても分かるその姿は、目に入った瞬間に胸を締め付ける程に愛おしくて切ない。シンディが苦笑いして、「あれがご主人でしょ?すぐ分かった。」と言ったので泣き笑いしながら、頷いて答えたのである。


最後に力を使う場所がここで良かった。惜しむ事なく使えそうだ。目を閉じて集中すると、近辺の感染者を完全停止させた直後、この警察署の署長ともう一人。副署長を滅してまるで廃人のようにする。彼らの意識はあるが、人として生活する事は難しいだろう。このようにして世界中のクソ社長に屈していた人達を滅してきたのである。給水場にいる加藤さん達の事は滅していない。彼らは夫の友人のようなものだから。


それが済んだ時、役目が終わったとばかりに身体が重くなる。でもだけどまだ待って。ゆっくりと地上に降りる最中、必死に自分に言い聞かせていた。もうすぐ、もうすぐだから頑張って、まだ待って。



窓の外には、近付こうとして押さえつけられている夫と愛犬が見える。夫はとてもやつれてしまい、生気が感じられない。それでも私の名前を叫んでくれているようだ。しかし比較的愛犬は元気そうで安心した。聞こえないが、必死で鳴いているらしい。吠えないように躾ていたが、あまりの嬉しさに抑えきれないようだ。ああ、私も会いたかった。あなた達に会いたかったの、心の底からずっとずっと。




なんとか無事に着陸して、スコットさんがベルトとヘッドホンを外してくれる。そうして複雑そうな顔をして笑いながらも、ドアを開けてくれた。私はそれに口角を上げてお礼を言うと、課長さんと西野警部補さんを振り切って、風のように走ってくる夫を見た。


相変わらず彼は泣いているようだ。ほとんど見えない左目にその姿を映せない事が悲しいが、綺麗な涙が風に舞ってキラキラしている。ここまでの100m程の距離を、一瞬で移動しているように見える速度で近付く彼は、顔を歪ませて何度も名前を呼んでいる。あともう少しという時、両手を伸ばして泣き叫ぶ彼に、私も大泣きしながらもなんとか笑って、右手を必死で伸ばした。




「けんちゃん……!!!」




今出せる最大の声で呼んだ名前は、すぐ目の前に来ていた夫に届いたようだ。涙で歪んだ顔を一瞬で嬉しそうにして、息をあまり乱す事無く座席に衝突する勢いで突撃される。受け止めきれずに思わず苦しげな声が漏れたが、そんな事はどうでもいいのだ。全身が潰れそうな程の力で抱きしめてくれる彼の、大好きな匂いと温かさに涙が止まらない。ああ帰ってきたんだ、夫の元に。生きて帰ってこられたんだ。例えすぐに尽きてしまう命だとしても。




「蘭……、蘭!!!!!」




悲痛な声で呼んでくれる名前は、特別なものに聞こえる。苦しくて仕方ない、会いたかった。本当に会いたかった。頑張って良かった。すぐ近くで顔を覗かれ、嬉しそうだった顔がまた悲しげに変わる。きっと気付いたのだ、私の命の期限に。ボロボロ涙を流したまま、しばらく無言だった夫はポツリと言った。




「さあ、一緒に帰ろう。」




そうして抱きかかえると、ヘリを無言で降りようとする。だから私は必死で、2人を振り返って微笑んだ。それだけで、意味が伝わったらしく泣きながら笑って、手を振ってくれたのである。もう聞こえないだろうが、大好きと口を動かし、そっと手を振った。シンディは口元を片手で覆いつつも、微笑んでくれている。スコットさんも複雑そうな顔をして涙を流しつつ、ネックレスを握りしめて笑ってくれた。最後に2人の笑顔が見たいと言った約束を守ってくれた事に涙が出たが、私も必死で微笑んでいたのだった。



もう見るなと夫に無言の圧を掛けられ、苦笑しつつも前を見ると、すぐ近くに課長さんと西野警部補さん、そしてごまちゃんがいた。一生懸命前足パンチを課長さんに喰らわせ、抱っこしてお母さんに近付けろと訴えている。そんな愛犬がかわいくて、思わず破顔すると夫に顔を隠された。


「心から感謝申し上げます。貴女は世界の英雄です。生涯この恩を忘れず、約束を守り通します。」


なんとか首を動かして見えた課長さんと西野警部補さんが、ビシッと敬礼しながらそう言ってくれた。だから口角を上げて感謝を言うと、西野警部補さんに向かって、「仇は討ちました。」と微笑んで言うと敬礼をしたまま顔を歪めて大粒の涙を流していた。何度も何度もありがとうと言い続け、そんな彼を優しげに見つめる課長さんがハンカチを差し出して肩に手を置いた。それからパンチを喰らわせまくっていた愛犬を抱っこすると、私の顔に近付けてくれる。物凄く興奮した様子で、必死に顔を舐めて嬉しそうに笑うごまちゃんに、我慢出来ず顔を歪めて声を出して泣いてしまった。


「ごまちゃん!!!」


もう抱っこする事は難しい。だから右手で一生懸命頭を撫でると、もっともっとと擦り付けてくる。力が入らず正直つらいが、それでも止めたくなくて頑張って撫でた。そうして満足した頃、夫が無言で2人に頭を下げるとごまちゃんのリードをベルトのカラビナに着けてから、自宅のアパートに向かって足を動かした。


すっかり安全になった塀の外には、人が少しづつ出てきていた。そんな光景を見ながら、出来るだけ急いで自宅に向かう夫に身を任せる。やつれた割に力強いその腕の中は、大好きな温かさと安心する匂いがして眠くて眠くて仕方ない。だけど目を閉じてはいけないのだ、まだ眠る訳にはいかない。




すぐに着いた久しぶりの自宅は、出た時と変わらなかった。懐かしい香りがして、それだけで涙が出てしまう。そのまま寝室に向かい、一度そっとベッドに寝かせてくれると、すぐにごまちゃんを近いけれど近すぎない距離に、持ってきた椅子に繋いでいた。相変わらずな夫に思わずフフッと笑ってしまう。すぐにこちらに来て隣に寝転んだ彼は、絶えず涙を流し続けていて、枯れる事はないんだろうかと考える。ほとんど無意識に右手を持ち上げて、夫の頬を撫でると、それを待っていたかのようにギュッと強く抱きしめてくれた。




「蘭、おかえり……おかえり。愛してるよ、愛してる愛してる。大好きだ、好きすぎて苦しくて痛い。だけど会いたかったんだ、会いたかった。毎日毎分毎秒会いたかった。ずっと生きた心地がしなかったよ。こんなに無理して。頑張らないで良かったんだよ!!どうして……!!蘭は酷いよ……せっかく生きて帰ってきてくれたのに!!!」




なんて苦しそうな声を出すの。伝えたい事があるのに、胸が詰まって声が出ないよ。慟哭しながら伝えてくれる夫の言葉が、グサグサと刺さって痛い。私だって好きだから痛い。置いていきたくないのに、先にいかなければならないのがつらい。きっと何度時間が巻き戻ったとしても、私にこの力があるならば選択は同じだっただろう。だって最愛の夫とごまちゃんを守りたいから。




「好きだよ、好きだ。愛してるんだよ本当に。蘭以外は何もいらないんだ。蘭がいないなら生きられないぐらい愛してる。なのにどうして……置いていかないで、嫌だ嫌だ、絶対に嫌だ!!!」




私だって嫌だ。置いて行きたくない。けんちゃんとごまちゃんと、ずっと一緒に生きていきたい。だけどでも。右腕に力が入らない。ああ、待って待ってだめだよ、まだしっかり抱きしめられてないの。だから、力を振り絞って夫の背中に巻き付ける。それが精一杯で、もう二度と腕は動かなそうだ。ああ時間が無い。




「けんちゃん、あいしてる。生きて、追わないで。あいしてるから、追わないで。」




掠れてしまって小さな小さな声だった。けれどしっかり伝わったらしく、夫は顔を歪めて怒っているようだ。分かっていたけどやっぱりそんな彼に笑ってしまう。



「どうしてそんな酷い事言うの?」



とてもつらそうにそう言う夫に、そっと口付けた。右目も白んできてしまい、焼き付けるように顔を近付ける。忘れたくないの、最愛の貴方の顔を。だからどうか、きいてほしい。





「ねえ、けんちゃん。お願い笑って?」





目を見開き、ボロボロ涙を流しながら伝えると、苦しげにしつつも頑張って口角を上げてくれた。しかし眉毛はギュッと皺が寄り、とても笑顔とはいえない。けれどそれでも、今出来る精一杯の笑顔をしてくれた事が嬉しくて仕方ない。





「ありがとう、ありがとう。もう、見えないの。最後が笑顔で良かった。」





完全に白くなってしまった視界には、先程までの不器用な笑顔が映っている。見えなくたって、私の記憶の中でいつまでも残るのだ。貴方の笑顔が本当に好きだった。どんな顔だって好きだけど、その中でも私だけに見せてくれる笑顔は特別だったのだから。





「けんちゃんあいしてる。だいすき。しあわせにしてくれて、ありがとう。わたしほんとうに、しあわせだったの。」





ほとんど空気のような声で、思いを伝える。言わなければ、伝えなければ。どうしても言えるうちに、全部全部。





「おいていくわたしを、ゆるさないで。だけどごめんね、どうかわらっていてほしい。」





すると必死で名前を呼びながら、何度も何度も口付けてくれる。それは温かくて優しくて、少し激しくて苦しかったが、幸せすぎてやめてほしくない。





「許さないよ。絶対に許さない。俺を怒らせるなんて、蘭の罪は重いよ。こんなに愛してるのに、好きすぎて苦しいのに、置いていくなんて許さない!!」





泣き叫ぶその言葉は、私にとってあまりにも嬉しくて。そうお願い、許さないで。そうしてずっと、私を忘れないで。この先一生、忘れないでずっと覚えていて。例えそれが怒りであっても、夫の記憶から消える事が何よりも怖くて怖くて仕方ない。






「フフッ、ありがとう。さきにいくね。けどずっとまってる。そばにいるから。あいしてるの、けんちゃん。ごまちゃんをよろしくね。ふふふ。ちょっとだけまたね、おやすみ。だいすきよ。」






私の口から盛れる空気を聞き取り、必死で抱きしめて口付けてくれながら、彼は縋り付いてくる。たくさん降り注ぐ涙の雨が、やはり私の涙と溶け合ってシーツを濡らしていく。ああ、この涙のように本当に溶け合ってしまえたら。





「蘭、許さないよ。嫌だ嫌だ!!!いくな!!!俺を置いていくなっ!!!!愛してるんだ、愛してるんだよ!!いかないでくれ!!!ひとりにしないで……!!!」





抱きしめたいのに、この腕は動かない。どんな顔をしているか見たいのに、両の目は白い景色を映すだけ。名前を呼びたいのに空気しか漏れない口も、もう開かない。ただ耳だけが、夫の声を拾い続ける。ごまちゃんのピスピス声も聞こえる。


私は本当に幸せだったのよ。もちろん今も幸せ。貴方に出会えた事は、人生において最高の事だった。きっと私は、夫とごまちゃんの幸せのために生まれてきたんだろう。ならばまだまだ役目を果たさないとならないが、ここまでらしい。ああ、嫌だなあ。


閉じているんだか開いているんだか分からない目を、そっと閉じてみる。そうしてこぼれる涙をそのままに、夫の悲痛な叫びをききながら、遠のく意識に身を任せた。





「蘭!!嫌だいくなっ!!!ああっ!!!」





最後に聞こえたのは、あまりにも苦しい声で。最愛の夫にこんな悲痛な思いをさせるなんて、私は妻失格だろう。だけどそれでも、私だけの夫であってくれて、すごく嬉しいと思ってしまう。私を愛してくれてありがとう。心から愛してるよ。ずっとずっと。





「愛してるんだ!!!嫌だ!!!!」





そんな声が微かに聞こえた気がして、フッと息を漏らして微笑んだ。これが本当に表情が動いてくれていたらいいのに。


すごく眠いなあ。なんて幸せな人生だったんだろう。心残りはもちろん多いけど、それでも幸せな人生だと胸を張って言える。


ねえ、けんちゃん。私ずっと待ってるからね。どんな貴方でもすぐに見付けるから。おじさんになっても、おじいさんになってても。どんな貴方も愛してる。だからこっちに来たら、もう一度思いを交わそうね。


きっと先に来るだろうごまちゃんと一緒に、待ってるから。だから今は少しだけ離れちゃうけど、必ず会えるからね。その時を楽しみにしてるよ。またね、けんちゃん。


おやすみ。






「……蘭っ!!!!!」






旅立った私に向かって叫ぶ悲痛な声は、もう届く事はなかった。


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