エピローグよりも長いそれは、私達の永遠の始まり。
なんだか温かくて、まるで温泉の中をたゆたうような感覚がして意識が浮上しかける。先程まであんなに疲れきった挙句に身体が冷たくて、寒くて仕方なかったのに。反対に心地よくてより一層眠たくなりそうだが、目の前が眩しくてそれが出来ない。
しぶしぶ目を開けると、ふかふかの布団に包まれて寝ていたようだ。朝なのか、窓から差す日の光が眩しくて反射的に目を細めてしまう。そうして部屋の中を見渡すと、そこは昔懐かしい母方の祖父母の自宅だった。かなり田舎にある古い平屋の一軒家で、トイレ以外は全てのドアが引き戸。そして玄関は模様入りのくもりガラスに、鍵はクルクルと回すタイプの今はほとんど無いものだ。
どうやら私は、大好きな祖父母の家の客間にいるらしい。ここは客間と言いつつ、私が泊まりに来た時に使っていた元は母親の部屋である。ここがとにかく昔から好きで、「何も無い田舎によく飽きないで来てくれるね」と喜んでくれる程に入り浸っていたのを覚えている。
でもそんな大好きな祖父母の家も、老朽に伴って取り壊し、少し離れた所に新しい家を建てているのに、どうして私はここにいるんだろう。夢なのだろうか?それにしてはリアルだなあ。
そう思いながら立ち上がり、置いてある物の何もかもがあの頃のままな事が嬉しくて、思わず口角を上げつつも家の中を歩いて誰かいないか探した。もしかしたら台所で祖母が、私の大好きな “かたくりこ” を作ってくれているかもしれないと期待したが、そこは誰もいなかった。しかしすぐにでも使えるらしく、まるで先程まで誰かがここにいたかのようである。
「ばあちゃん、いないの?」
耳が遠くて大きな声を出さないと聞こえないので、かなり声を張り上げて呼ぶが誰も来ない。人の気配は無いようだ。とりあえず、居間にある仏壇にお線香を立てようと思って引き戸を開けると、こたつの上に蜜柑があって笑ってしまった。祖父母が必ず置いており、冬はいつも数箱買っていたので、遊びに来るたびにたくさん食べさせてくれていたのだ。
それに微笑みつつ仏壇に近づくと、そこにあるはずなのに無かった。いや無かったというか、見慣れない戸棚が代わりに鎮座していて、何事かとポカンと口を開けてしまう。しかし気になって仕方が無いので、大きな開き戸を思い切って開けてみる。そこにあったのは、私の上半身が映るぐらいの大きな丸い鏡。しかしそれは私を映さず、白いもやもやのような物が動いているだけだった。
「なにこれ?」
通常ならば怖いと思う物だろうに、夢だと勘違いしているため何も躊躇わずに手を触れた。するともやもやが動き出し、すっきりとした鏡の中には最愛の夫が映った。
「けんちゃん!」
驚いて名前を呼び鏡に触れるが、当然彼は気づかずに横たわる私に縋りついていた。そして唐突に理解する。これは私の死後であり、ここは夢ではなく恐らくあの世の途中ではないかと。私が夫と愛犬を待ちたいと強く願ったから、世界を救ったご褒美に叶えてくれたんだろうか。もしそうならどんなに嬉しいか。
私は涙ぐみながらも、台所に行って冷蔵庫を開けた。いつも祖母が常備してくれていた薄めの麦茶を、昔のアニメキャラクターが描かれているコップに注ぎ、居間のこたつに置いてから戸棚の大きな鏡を慎重に持ち上げると、それもテーブルに置いた。そうして座布団に腰を下ろしつつ蜜柑の皮を剥いて、穏やかな気持ちで夫を改めて見たのに。
「……あ。」
思わず驚愕の表情で固まってしまった。彼は大暴れするごまちゃんを抱き上げて、無理やり外に連れ出している。私を求めて鳴くごまちゃんに涙があふれるが、やはりこうなるんだなと思って笑ってしまった。きっと彼は西野警部補さんに、ごまちゃんを託しに行くんだろう。私も適任だと思っていて、彼に向けての説明書を作成していたのだから。西野警部補さんなら安心出来る。彼と奥さんはきっと、誰よりも愛情を込めてごまちゃんを愛してくれる。それに何よりも、必ず幸せにしてくれるだろう。
案の定西野警部補さんに託すと、彼は大急ぎで戻ってきてまた泣いている。そして台所から果物ナイフを持ってくると、私に股がって握らせているではないか。きっとすぐに後を追うだろうと予想していたが、まさか私にやらせようとは。これには思わず目が点になる。そうして躊躇う事なく頸動脈を切った夫を見て、なんて人なんだろうと改めて思ったのだった。私の事が好きすぎる。私の手で死ねて喜んでるのがすごい。愛が重くてすごい。
そしてそれは、こんなにも重くて重くて息苦しい程の愛をぶつけてくる夫を好きだと思う私もそうなのだろう。だって全く怖くないどころか、この重すぎる愛がとても嬉しくて仕方ない。つい口角を上げながらも、彼がここに来たらすぐにでも泣くんだろうなと思うと、声を出して笑ってしまったのだった。
そして夫の血飛沫に濡れた2人を見ていると、玄関に人の気配がした。くもりガラスの玄関を居間の引き戸から顔だけ出して様子を見ると、恐らく見た事のない古い平屋の一軒家に驚いているらしい人が、困ったようにキョロキョロと頭を動かしているのがぼんやりと見える。
私はあふれる涙をそのままに、満面の笑みを浮かべて、愛しいシルエットを映すくもりガラスの引き戸を思い切り開けた。顔が見えなくたって、朧気だって、私は絶対に見間違えないし気付かないはずがない。私だって会いたくて会いたくて仕方なかった。本当はすぐにでも追ってくれる事を待っていたって言ったら、彼は呆れるどころか蕩けた笑顔で大喜びするんだろう。
「けんちゃん!!!」
勢いそのままに、開けた瞬間に名前を呼んで飛びつく。すると咄嗟に受け止めてくれつつも、まさか飛び出して来たのが私だと思わなかったらしい夫は、驚愕の表情を浮かべて口をポカンと開いている。珍しいその顔に、思わず声を出して破顔する。それに目を見開いた夫が、一瞬で涙をためてポロポロこぼしながら、私の顔を両手で包んでくれた。
「……蘭?」
呼んでくれた名前、そして愛しさを堪えきれずに溢れ出したような声は、私の胸を刺してすぐに声が出なくなる。嗚咽しか出ない中、必死で首を縦に振って肯定した。私の散る涙と同じぐらい、けんちゃんの涙もこぼれ続ける。そうして力強く抱きしめてくれたのだった。
「蘭!!!会いたかったよ、会いたかった……!!愛してるよ、二度と放さないからね?」
それはギシギシと骨が軋む程の力で、あまりにも呼吸がしづらいがそんな事はどうでもいい。私も必死で抱き締め返しながら、身長差のせいで彼の胸ぐらいまでしかない頭をグリグリと押し付けて泣いた。私だって同じぐらい、会いたかったのだ。本当はすぐに追ってくれる事を期待していた程、会いたくて愛しくて仕方ない。だから喉が詰まって苦しいが、一生懸命伝える。
「……ふふ、仕方のない人。でも私も大好き。本当は私も待ってたの。二度と放さないで、ずっと一緒にいて。」
言い終わった瞬間に、噛み付くような口付けをしてくれる。それはあまりにも激しくて、泣きすぎて詰まり掛けの鼻は呼吸が難しく、すぐに背中を叩いて訴えた。すると不満そうに眉毛をギュッと寄せながらも、肩で息をする私を見て、瞬時に蕩けた笑顔に戻すと優しい口付けを何度もくれたのだった。
そうして落ち着いて来た頃に、居間に案内して麦茶を飲みつつ、蜜柑を食べながらここが母方の祖母の自宅であり、恐らく死に際に願った私の思いが通じたのではないかと話した。それをすぐ隣に座りながら、蕩けた顔で聞いているのかいないのか、ずっと私の頬を撫でている夫は楽しげに頷いていたが、話終えるとすぐに鏡を覗いた。そして何度か触れると、そこにはスコットさんが映ったではないか。あまりに驚いて蜜柑を食べる手が止まったが、夫は表情が抜け落ちた顔で彼を見つめている。
「こいつ、蘭を愛してるでしょ?」
鋭く冷たい目をスコットさんに向けながら、私に問うてくる。そのはずだが、確実に答えを知っているという様子の夫に、さすがだなと思ったのだった。やはり同じ属性どうし通じ合うものがあるのか、ひと目で気付くんだなあと感心してしまう。それに分かりきっているのに取り繕う事など出来ないのだと、正直に頷いたのである。すると「だろうね。」と言いつつ鏡に触れると、スコットさんの手にあったハンドガンをピンッと弾いて落としていた。
「え、干渉出来るの?!」
驚きのあまり大声で訊いてしまったが、こういう事は出来ないと思っていたので仕方ないだろう。そしてニヤリと口角を上げたかと思うと、冷たい目をスコットさんに向けたまま、ハンドガンを拾った彼の手からまた落としている。
「出来るみたいだね。それにこいつ、すぐにこっちに来ると思ってた。俺と同じすぎる臭いがしたからね。そんな事はさせないよ、俺の蘭なのに。想う事だって許せそうにないのに、会いに来たがるなんて絶対に許せない。」
どんよりした目をしてそう言うと、「こいつは頻繁に監視する必要があるな。」と言っていた。要観察対象になってしまったスコットさんだが、私も長く生きてほしい。娘さんのためにも、自分の幸せのためにも、どうか生きてほしいと心から思うのだ。
それから私が触れると、左耳を押さえながら泣くシンディが映った。彼女はやはり、私のために泣いてくれていた。本当に大切な友達が出来て良かったと思う。国境を越え人種を越え、築かれた友情は確かに本物だった。時間なんて関係ないのだ、心とはそういうものだから。絶対に幸せになってほしいと強く願う。思わずボロボロ涙をこぼすと、夫がすぐさまティッシュで拭ってくれる。だから彼女がどんなに大切で、最高の友達だったかを話したのだ。
「……ふうん。でも大丈夫だよ、これからは俺がいるからね。俺しかいないし、俺だけでいい。蘭、そうだね?」
一瞬拗ねたと思ったら、すぐにこれである。だから苦笑しつつも、頷いて肯定すると破顔して抱きしめてくれた。だってここは、本当に私達しかいない。私達以外いらないのだから。
そして何度か触れていくと、西野警部補さんとごまちゃんが映った。あまりの衝撃に身を乗り出して覗き込むと、不機嫌な夫に足の間に挟まれて座らされたが気にしている場合では無い。落ち込んだ様子のごまちゃんを、奥さんが寄り添って頭を撫でている。肩くらいまでの黒髪に、少しふくよかで温かな笑顔を浮かべた彼女に、私は心から安心した。そしてそんな2人を見つめる優しい顔をした西野警部補さんにも、改めてホッとしたのである。やはり彼らはごまちゃんを幸せにしてくれるだろう。私に出来ない事が何よりもつらいが、それでもあの子を幸せにしてほしいと思う気持ちに嘘なんてない。どうか、どうか幸せになって。私はここで、ごまちゃんをずっと待ってるからね。いつも見守っているから。そばにいるから。
「……ごまちゃん!!!」
顔覆って咽び泣く私の頭を撫でながら、旋毛や耳に優しく唇を落として、「蘭、俺がいる。俺がいるよ。」と言い続けてくれる夫。そうだ、私は一人ではない。最愛の夫が今後ずっとずっと一緒にいてくれる。けれどごまちゃんがそばにいない喪失感は途轍もなくて、どんなに慰めてくれても私の傷は深いままだった。
するとすぐさま私を抱き上げて、居間を出ると迷わず客間へ向かう。そして敷きっぱなしにしていた布団に寝かせると、すぐに自分も横になってギュッと抱きしめてくれた。そうして何度も背中を撫でて全身で温もりを分けてくれるその熱と、耳に心地いい夫の心音。徐々に私も穏やかになっていき、ゆっくりと瞼を下ろしたのだった。
「蘭、俺がいる。俺しかいない。俺だけでいい。だからいいんだよ、これでいいんだ。俺がいればそれでいいんだ。蘭には俺だけ、俺だけだからね。」
眠りに落ちる意識の中、夫が耳元で何度も呟く声がぼんやりと聞こえてきたのである。そうだね、けんちゃんがいればいいかな。ごまちゃんにも会いたいけど、今はけんちゃんがいてくれるから大丈夫。そう思いながら、抗いきれない眠りの中へ落ちていった。
それから、私と夫の2人だけの生活はとても穏やかに続いた。毎日毎日飽きもせず、隙あらば布団に引きずり込んでドロドロに愛そうとしてくる夫に、仕方ない人と笑いながらも最終的に受け入れる私も相変わらずである。時にはスコットさんを鏡に映しながらコトに及ぶ事もあり、まるで見せつけるようにして嫉妬と独占欲にまみれた夫は獰猛な獣そのものだった。本当に仕方のない人である。そしてそれが嬉しい私も、仕方のない人間なのだ。
そうやって夫に愛され、私も夫を愛しながら、時には家の周りを散歩したり、冷蔵庫の使っても使っても減らない材料を使って料理をしたり、すぐにこちらに来ようとするスコットさんを阻止したりと、毎日は楽しく穏やかに過ぎていった。
あれから10年。シンディは私の願い通りに、相思相愛の相手を見つけて幸せになっている。パートナーはなんと日本人の女性で、そこはかとなく私に似ており、それが気に入らない夫はシンディを敵認定してしまったのだった。確かに彼女は私に似ているが、それでもパートナー自身を愛しているという事がよく分かるから、いつも微笑んで見つめてしまう。シンディの左耳にある私とお揃いのホワイトカルセドニーのピアスも、何度もお直しをして使い続けてくれている。同じように私も毎日つけているのだ、心から彼女の幸せを願い続けて。
危うい色気が漂う渋いイケおじとなっているスコットさんは相変わらずで、彼の愛は本当に夫と似ているらしく大変重いものだった。私の何がそんなに彼を惹き付けるのか、毎日ネックレスに口付けて一日に一度は命を絶とうと試み続けている。私との約束を守ってリタちゃんの事は大切にしているようだが、それでもこちらに来る事を諦めないのはすごい執念だった。そしてそれを冷たい目でピンッと弾く夫も、「俺の愛の方が何倍も重い。いい加減にしろ。ネックレス壊すぞ。」と言いながら必ず阻止しているのも執念なんだろう。
そして私のもう一人の親友の理美は。あの子はどうやら、パンデミックの犠牲になってしまったようだ。それは坂上さんも同様で、彼らは一緒にいたらしい。理美の思いが通じて、彼らは交際していたようだ。付き合い始めていちばん楽しい時に、あの最悪の事態が起こってしまった。どうしても怒りに飲まれて涙が止まらなかったが、坂上さんと同時に旅立てた事は幸いだったのだろうか。あの子もどうか、彼と一緒に幸せでありますように。
そして、ごまちゃんは。私と別れてしまったあの日から10年。当時2歳だったあの子は、12歳というお年寄になっていた。しっかりたっぷり愛を注いでもらい、私の願い通りに幸せいっぱいに過ごしていたのだ。西野警部補さん……今は昇進されて警部さんご夫婦は、心からごまちゃんを愛してくれた。それは見ているこちらまで、温かな気持ちになる程で。それでも時折、ふと寂しそうに空を見上げるごまちゃんを、同じく寂しさ、悲しさを含んだ目で見つめながらどこかを見るご夫婦に、いつも胸が痛くなった。
そんなご夫婦から、私はまた愛する子を奪う事になるのだろうか。いくらごまちゃんが私の愛する我が子であっても、それはきっと彼らにとってもそうだろう。だからどうしても悩み、苦しい気持ちでいたのだ。しかしごまちゃんが年老いて、空を見上げる事が増えた時、西野警部さんが言ったのだ。
「ごまちゃん、お母さんが待ってるよ。大丈夫、俺達は役目をしっかり果たした。だけど本当に、お前の事を確かに愛していたよ。だからそれをどうか、お母さんと、お母さんを好きすぎるお父さんに伝えてくれ。」
そうして頭を何度も優しく撫でると、一緒に空を見上げたのである。まるで見えない私達に微笑むかのように、彼の顔は優しく口角が上がっていた。夫にとって西野警部さんは本当に尊敬できる先輩で、だからこそ心から慕っていたのが分かる。それに彼も、夫の事を面倒臭いがかわいい後輩だと思ってくれていたようだ。
そんな西野警部さんとごまちゃんに、ハラハラと静かに涙を流す私を、後ろから足で挟みつつギュッと抱きしめる夫。きっと彼も静かに泣いているんだろう。腕少し震えているから分かる。西野警部さん、しっかり私達に届いています。本当にありがとうございました。貴方もいつか、娘さん2人に再会できますように。そうして再び4人で、温かい生活を送ってほしい。その時は、なんとかして遊びに行かせてほしいと思う。娘さん2人を、強く抱きしめさせてもらいたい。
夫に強く後ろから抱きしめてもらいながら、そんな2人を見ていると、ごまちゃんがゆっくりと立ち上がった。精神的なものなのか、老いが他の子よりも少し早いようで、後ろ足が既に覚束無いのだが、それでも一生懸命に動かして寝床に進む。そうして私がごまちゃんのために必死で編んだピンク色のひざ掛けに包まると、スリスリと顔をすりつけて静かに目を閉じた。
それをご夫婦は涙ながらに見ていた。私が編んだ不器用なひざ掛けなんて、ふつうは10年も持たないだろうが、丁寧に洗ったり繕ったりして、未だに使い続けてくれていたのである。そんなひざ掛けにまるまって、まるで私に甘えるように眠るごまちゃんを、2人は涙を流して静かに見守っていた。きっと分かっていたのだ。私よりも長い時をあの子と過ごしてくれた2人が、分からないはずがないのだから。
本当に大切にしてくれた。私が出来ない分も、たくさんの愛をあの子にくれた。それは間違いなく、ごまちゃんにも伝わっているだろう。食欲を失くしてつらそうな時も、ご夫婦はずっと寄り添ってくれていた。私を求めてひざ掛けに包まり、ピスピス鳴いている時も、不安になって落ち着かない時も、悲しげに空を見上げる時も、いつだって温かく寄り添い、見守ってくれていた。
そんな彼らが今、ごまちゃんの最期を看取ってくれる。2人とも静かに泣いていて、ただただ見守ってくれるその姿が、私の胸を突き刺して。そして咽び泣いてしまう。本当に、ありがとうございます。何度伝えても足りない程、心から感謝しています。いつか必ず、直接お礼を言いに行きます。
そうしてごまちゃんは、温かな2人に優しく見守られながら、安らな眠りに落ちるように、その生涯に幕を下ろしたのだった。
「……ああ!!!」
思わず声を出して泣いてしまった。私がずっとそばにいたかった。見守るだけじゃなく、ずっと寄り添っていたかった。一緒に歳を取って、思い出をたくさんたくさん作りたかった。幸せにしたかった。それを代わりにしてくれた西野警部さん夫婦には、本当に感謝している。それでもやっぱり、私が、と思ってしまうのは抑えられない衝動だった。
「蘭、大丈夫。大丈夫。俺がいる。」
夫も私の頭に涙の雨を降らせながら、そう言って強く抱きしめてくれた。そして何度も何度も耳や頬に唇を当てつつ、少し低い声で続けて言う。
「……どうせもうすぐ。」
それはあまりにも小さな声で、大声を出して泣いている私には聞こえなかった。
そしてどれ程の時間が経っただろうか。数秒かもしれないし、数分かもしれない。もしかしたらそれ以上経ったのかも分からないが、私は未だに嗚咽を漏らして泣いていた。夫が甘やかしてくれる温もりがありがたく、少しづつ落ち着きを取り戻していた時。
「ワンッ!!!」
外から聞こえてきた鳴き声。それは喜びに満ち溢れているような、それでも必死さが伝わってくるような、そんな鳴き声だった。その瞬間に弾かれたように立ち上がり、走り出す私の手を掴みながらついて来る夫と共に、玄関のくもりガラスの引き戸を開ける。するとすぐに足を思い切りどついてくる、黒くて小さなそれは。
「ごまちゃんっっ!!!!!!!!」
すぐにしゃがんで抱きしめる。ああ、会いたかったの。ずっとずっと会いたかったの。抱きしめたかった。名前を呼びたかった。
何度も何度も名前を呼びながら、喜びを爆発させてマズルで顔を押してくるごまちゃんを強く抱きしめて、涙をボロボロ流しつつ後頭部の魅惑の香りを、10年振りに思い切り吸った。相変わらずのたまらない匂いで、それがまた嬉しくて嬉しくて声を出して泣き叫ぶ。ごまちゃんはずっとマズルでどつきつつも、泣き叫ぶ私を心配して前足パンチを喰らわせてくれた。顔に何度もパンチを喰らっても、それでも嬉しいだけで涙は止まらない。だってあまりにも幸せだから。夫がいてごまちゃんがいて、これはずっと願っていた私の幸せそのもので。
「おい、ごま。いい加減に離れろ。」
そう言って不貞腐れたように私と引き離す夫は、牙を剥いて威嚇するごまちゃんを気にもせず、私を抱き上げるとかつて客間であった、今は寝室にしている部屋へ向かう。ブチ切れ状態のごまちゃんがピスピス鳴きながらついてくるが、無視してずんずん進む。そうしてたどり着いた寝室のドアは、もちろん引き戸であるためにすぐには閉まらず、ごまちゃんもスルッと一緒に入ってきて3人で布団に寝転がったのだった。
それから私を取り合い、喧嘩する2人を見て笑う。これは奪われてしまった私達の幸せな毎日だったから。どんなにあの日々に戻りたいと願った事か。叶わない夢を見て、悲しんだ事か。あのクソ社長を恨んで恨んで修羅になるところだった。けれど。
今目の前で、あの頃と変わらず喧嘩をする2人を見る。私達は歳を取らないから変わらない見た目だが、ごまちゃんもあの頃に戻ったようだ。本当に、ああ、言葉にならない程の幸せが押し寄せる。
「2人とも、大好き!!!ずっと一緒だよ!!!」
思い切り破顔して、2人を抱きしめる。そうして「俺の蘭だ!!」「ワンッ!!」と言い合う2人それぞれに口付けると、幸せすぎて止まらない涙をそのままに再び抱きしめる。
きっとこの幸せの絶頂にいるこの瞬間。もしもこのまま、世界が滅んでも。私はきっと後悔しない。それどころか、幸福に包まれて穏やかにいられるだろう。
私の突然に奪われた幸せな日々は、またここから始まるのだ。ずっとずっと3人で生きていく。それはなんて、なんて幸せな事なのだろうか。
終わらない最愛の夫と愛犬の喧嘩を聞きながら、心から幸せに包まれた私はきっと、人生で一番の笑顔をしていた事だろう。
終わり。
初投稿作品でしたが、なんとか最終回を迎えられました。終わらんかったらどうしようかと思った……。
読んでくださった方、ブクマやいいねを押してくださっていた方。本当に嬉しくて執筆の励みでした。ありがとうございます!!
また別の作品でも、よろしくお願いします。




