9.俺達、死ぬ時も一緒だ
それでも――。
「……逃げてください」
珪己だけはやや違った。
無尽蔵の恐怖に飲まれまいと必死に抵抗を続けている。
「逃げてください、二人で。無理なら一人でもいいから……逃げて」
ほとんど唇を動かすことなく、早口で空也と韓に告げるその横顔は異様に白い。
珪己は毛から視線をそらすことなく、さらにつづけた。
「具合が悪くなったふりをして座り込みます。それを合図に二人は逃げてください」
「……お前さん、おとりになると言うのか?」
「違います。もう一度闘うためです」
その言葉の意味を先に咀嚼したのは空也だった。
(そこに落ちている簪を拾おうとしているのか……!)
床に視線をやりそうになり、空也はその衝動をぐっとくらえた。今、この策を毛に悟られたら終わりだ。だが肩に回された空也の腕に力が込められたことで、珪己だけは空也の考えや感情の起伏、流れを理解した。
「できるだけ時間を稼ぎますから……絶対にあきらめないでください」
「珪、亥……」
「絶対に……生きてください」
対する毛は、剣を得たことで完全に勝利を確信している。驕りゆえにわざと三人の目の前で剣を振ってみせる余裕すら生まれている。何度も、何度も。その都度、空を斬る刃がびゅんとうなった。
その音が珪己に一つの事実を正確に伝えてきた。
酔っていても毛の剣の腕は確かだ、と。
毛の振るう剣は先端の刃こぼれがひどいし錆も浮いている。きっといい研ぎ手がいないのだろう。なのにこれほどいい音を立てられるということは、毛が剣術に通じていることの証だ。
そんな毛に対してこちらの武器は壊れた簪しかない。圧倒的に不利だ。しかし、この状況に加えてこれほどまでに腕の違いを見せつけられつつも、珪己はここに来て幾度となくくじけそうになる心を必死で保っていた。
元々、闘いの場で簪を使うことを提案された理由は『相手が油断している時』を想定してのことだった。珪己の場合、武官となったらそういう状況下での闘いが多いだろうと、そう仁威が考えたのである。
実際、仁威の予言は正しかった。この場に珪己が木刀を持参していても、きっと一太刀も浴びせることはできなかっただろう。手ぶらで、妊婦で、抵抗する間もなく殴られ蹴られ――これだけ『弱い自分』を示した後だったから毛は油断してくれたのだ。
だから今のような状況下では――珪己に勝ち目はない。
そのことは自分自身がよく分かっていた。
分かってはいても――それでも闘わなくてはいけない時もあるわけで。
(せめて二人のために活路だけでもひらきたい……!)
珪己の願いはそれだけだった。
すでに夜、雪がまだ降り続けてくれていれば――楼外に出ることさえできれば視界の悪さを利用して逃げおおせることは決して難しくはないはずで、珪己はそんな二人のためにいくらかの時間を稼げばいいと考えている。我が身を護ることなど、もはや頭の片隅にもない。
その時、空也が思いがけないことを言った。
「俺はここに残る。韓さんは一人で逃げろ」
どうして、と珪己が問うよりも先に空也が早口で言った。
「珪亥一人でできることなんて限りがあるし俺はこの体ではどうせ逃げきれない。でも俺にもあいつの隙を作ることくらいはできる。珪亥はそこを狙って攻撃しろ」
「で、でも。それだと空也さんが……」
「三人まとめてくたばるよりも、一人でも救える道をとるべきだ」
ここで空也がせき込んだ。
実は……もうこうして話していることすら辛いのだ。爪をはぎとられた指や打たれた背中は燃えるように熱く、なのに全身は悪寒がしてたまらない。晩春に芯国人に背中を斬られた時と同等、もしくはそれ以上に状況はよくない。
「でもさ、こうした方が俺も珪亥も助かる道がひらけると思うんだ。違うか?」
それは……確かにその通りなのかもしれない。それでも珪己は腹を決めかねた。なぜなら、それを選べばもっとも危険な役回りを空也に譲らなくてはならなくなるからだ。……昨日のように。
そんな珪己に空也が言った。
「さっき俺に一緒に逃げようって言ってくれたけど、あれをそのまま珪亥に返すよ」
「空也……さん?」
「俺達、死ぬ時も一緒だ」
そう言った空也は小さな笑みを浮かべていた。
見つめ合えば、珪己にはうなずくことしかできなかった。
これほどの純心な思いを拒むことなど――できやしない。そして認めざるを得なかったのである。空也の言葉がどれほど嬉しかったかを。
「おいおい」
突然、毛が大声で呼びかけてきた。
「相談ごっこは終わったか?」
悟られていた、と気づいたものの、今更筋道を変えることなどできはしない。三人がどのような会話をしていたかまでは知られていないのだし、このまま突撃あるのみだ。
珪己の決断、意志は言葉がなくても二人には伝わったようだった。三人の寄せ合う体の距離が一層縮まり、それから毛に気づかれない程度に力を抜いたのがその証拠だ。これで、誰もがいつでも単独で自由に動けるようになった。
「さあ。茶番は終わりだ」
びゅん、びゅんと毛が剣を振りながら近づいてくる。
右手で袈裟懸けに上から下へ、それからまた上に持ち上げ重加速度を利用して下へ……これを繰り返しながら近づいてくる。
その巨体に見合った長い腕、その手に握られる長剣――なんら武器を有していない三人にとって、毛との間合いは非常に遠い。そこに獲物なしで策をしかけるなどといった愚行、これほどまでに追い込まれていなければ絶対にしないことだ。
だが今は――やらなければいけない。
やるしかない。
空也は吐きそうなほどの緊張に苛まれながらも毛との距離を目分量で測っている。
開陽において芯国人に斬られた経験が悪夢としてよみがえりかけたが、空也はこれを無理やり経験値の一つとして昇華していった。
つまり――どこまで近づけば斬られるか、否か。そのぎりぎりの距離を見定めるためにあの日の経験を生かそうとしているのだ。
そうしながら自分の体の隅から隅までを検分していく。どこがどのくらい動かないのかを知ることで今の自分が発揮できる能力を定量的に判断しようとしているのだ。
こんなふうに様々なことを同時に考え、かつ論理的に解を導こうとしたことはかつてなかった。地元に住んでいた頃はもとより、武官となってからも兄・空斗にそういった面で甘えてきたからだ。
(もしもこれで死んだとしても――俺は絶対に後悔しない)
今この瞬間、確かに生きている――。
そう空也は感じた。
毛がまた一歩近づいてくる。
その動きに連動して剣先が下から上へと戻る軌跡に切り替わる。
その瞬間、空也が動いた。
二人の間から飛び出し、毛の剣先すれすれ、その上へと向かう真下をすり抜けていく。
そして頭から毛の腹部に飛び込んだ。
「ぐうっ……!」
毛は熟練の武芸者だが、さすがに物理的法則には逆らえなかった。剣は遠心力を利用して振りかぶるものだから、すぐに軌道を変えることはよほどの達人でないと不可能なのである。そして剣が動けば、その剣と連動して握る右手が――右腕が上へ上へと動いていくのも道理で、わずかな時間といえど毛の胴体はがら空きになったというわけだ。
腹部に空也の硬い頭がめり込んでいく。それとともに、うなり声をあげる毛の足が濡れた床の上で後方に滑った。こうも濡れていては、慣性に逆らうことだってできやしない。
そして、この時には韓はその場を逃げ出していた。そして珪己はしゃがんで飾りの失われた簪――ただの鉄の棒を拾っていた。
「くそがあっ!」
口汚く吠えた毛は、つづけて「ぎゃあっ……!」と断末魔のような叫び声をあげた。
珪己が簪の先端で毛の脇腹を刺したからだ。
そこから珪己は両手で簪を深く深く刺していった。
まるで晩春の芯国人との闘いのようだ。だが今の珪己には迷いはない。ここを刺すのが最良だと判断したから、刺した。
迷っていては誰も救えない。
空也も、韓も、自分も――誰一人として。
命を救うために、命を奪う。それはまさに武芸者としての哲学、姿だった。武芸者ゆえの、苦しくも尊い決断だったのである。
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