10.万感の思いで
韓はまろびながらもわき目もふらずに駆けていく。
背後で響き渡る毛の叫び声に背筋を凍らせながらも、限界まで駆ける速度をあげていく。
(あいつらを信じるんだ……!)
今、韓は自らの身を護るために逃げているわけではなかった。
珪己と空也、二人の願いをかなえるためだった。
毛との闘いの結末――それはもはやあの二人の最重要課題となっていた。そのことが分かったからこそ、二人が自ら定めた課題、運命に――もはや立ち入ることができなかったのである。
だから今、韓があの二人にしてやれることはただ一つしかなかった。自分だけでもここから無事に逃げきること、それしかなかった。そう思ったのだ。
だが廊下を駆け抜け、重い門扉をあけると――屋外の冷気以上に恐ろしい光景が韓を待っていた。
茶一色の衣を身に着けた男がそこに待ち構えていたのだ。
しかも、三人も。
一人は馬に乗っているせいで斜め上に広がる闇に顔が沈んでしまい、よく見えない。だが残る二人はこちらに背を向けていても十番隊の人間だとすぐに分かった。
(ここまで、か――)
だが、人生に幕を下ろす覚悟を決めた韓の前で、その二人の体がぐらりと揺らいだ。
と、思ったら――二人の体が地に崩れ落ちた。さながら糸の切れた操り人形のように、どうっと。
そして二人がいなくなったことでひらけた視界の向こうに、先程から認知していた馬上の武官とは別にみすぼらしい身なりをした男の姿を韓は認めた。はらはらと雪の降る中、月明かりも星明かりもない暗がりの中に、その男は青い炎のごとく存在していた。
武官の衣の色にまっさきに恐怖を覚えた韓だったが、その実、正体の一切掴めないこの男にこそ、韓は強い戦慄を覚えた。武に通じていない韓の目から見ても、この四人の中で一番の猛者はその男だと断じれる――そういう特別な空気をまとっていたからだ。そして男が握った拳をほどいたことで、手前にいた十番隊の二人がどうして倒れ伏したのかが即座に理解できた。
ぶるる、と一頭の馬が威勢よくいなないた。
*
それはあまりに一瞬のことで、正直空斗はすべてを理解できなかった。
気づいたら終わっていたのである――。
ようやく目的地にたどりついたと思ったら、楼から十番隊の男二人がのっそりと姿を現した。そしたら――目の前を駆けていた男の馬の速度があがり、と思ったら駆ける速度を減じることなく男がひらりと馬から飛び降り、駆け寄りざまに驚愕する男二人の腹に次々に正拳を沈めたのである。
空斗が追いついた時にはすべてが終わっていた。
突然闇の中から現れた仁威に正確に急所を突かれた男達は、今、雪の上にあおむけに倒れている。自らに何が起こったのかも理解していない表情をして。
と、仁威が楼の入口に視線をやった。
その視線の流れにつられて空斗がそちらを見ると、そこには腰を抜かし顔面を蒼白にした韓がいた。
仁威が無言で韓に近づいていくのに、空斗はとっさに声を張り上げた。
「待ってくれ! その人はただの医師だ!」
これに仁威が再び握りかけていた拳を緩めた。それで韓はようやく息をすることを思い出せた。
「あ、ああ……。お前、氾空斗か?」
息も切れ切れに「よかった……。ああ、よかった……」と何度も韓が繰り返す。それは生死の境に片足を突っ込んでいたがゆえの、心からの安堵だった。
「韓さんっ! 大丈夫かっ?」
空斗は不器用な動作で馬から降りると韓のそばに駆け寄った。
「お、おお……大丈夫だ」
「ところで俺の弟とあの妊婦がここに来ているだろう?」
「あ、ああ。来ている。……そうだ、お前さん!」
韓を問い詰めるためにその両肩を掴んだ空斗だったが、逆に韓の方に両腕を強く握られた。
「今すぐ助けに行ってくれ! あの二人は今、毛とやり合っているんだ……!」
「……なんだって? 二人はどこにいるんですかっ?」
気色ばむ空斗に韓が震える指をなんとか動かそうとした刹那、二人の真横を仁威がすり抜けていった。仁威にはもう分かっていたのだ。どこで強い気が発せられていて、どこで闘いが繰り広げられているかを。
*
首都で贅沢な暮らしをしてきた珪己は、いわゆる手負いの獣というものを間近で見たことがない。だが今の毛はまさにそのたとえがふさわしい状態だった。
刺した場所は急所からわずかにずれてしまった――。
しかもその腹についた脂肪のおかげで、珪己の渾身の一撃は致命傷とはならなかったのである。
横腹にそれなりに太い棒を刺されているというのに、毛は痛覚を無視してすぐさま珪己の首を掴んできた。
「うあっ……!」
そのあまりの速さに、珪己は避けることができなかった。
そして、今。毛は片手で珪己の首をぎりぎりと締めつけ、その体を宙に吊りあげている。これに珪己は荒い息で力の限り抵抗している。だが毛の肉厚の手には爪痕すらつけることができないでいた。
空也は失神してしまった。
逆上した毛が、腹に飛び込んできた空也の首根っこを掴むや壁に向かって投げつけたからだ。いったいこの男、普段からどれだけの人間を放り投げているのか。手慣れた動作には一切の無駄がなかった。
全身が粉砕するほどの衝撃に、今日もっとも強烈な痛みを受けた空也はとうとう意識を飛ばしてしまったのである。
「もう容赦はしねえからな……!」
口の端から涎を流す毛は、血走った眼球で珪己を睨みつけている。その目、その表情にはもはや憎悪しか残っていなかった。
「お前をくびり殺して、その腹をひらいてやらあ……!」
そして逆上する毛のもう一方の手には出番を待つ剣がしっかりと握られたままだ。……これ以上、最悪な状況があろうか。
言葉通りの殺人的な力で首を絞められつづけ、珪己は呼吸をすることすらままならなくなってきた。足の先は床に触れるか触れないかの状態で体重をかけることができずにいる。いや、それ以前に、このままでは呼吸が止まるよりも首の骨が折れる方が早いだろう。それほどの握力だった。
それでも珪己は毛をにらみ返した。
(何があっても、絶対に心は負けない……!)
様々な記憶や想いが走馬燈のように珪己の中をすり抜けていく。
どうして武芸者になろうと思ったのか。
どうしてお嬢様のままではいられなかったのか。
どうして強くなりたかったのか。
どうして、どうして、どうして――。
(何もかも失っても貫きたかったことは……『これ』だから)
この心一つだったから――。
(だから絶対に心は負けない……!)
しかし、体はとうに限界にきていた。
いくら心が強くても……強がっていても。体がついてこなければどうしようもないわけで。
(もうだめ、かも……)
首を絞める力がさらに強くなり、毛の手の甲に爪を立てる珪己の指から力が抜けかけた――その時。
珪己、と懐かしい声に呼ばれたような――気がした。
だがそれは幻聴ではなかった。
「珪己……っ!」
(どう、して……?)
半ば閉じかけていた瞼を無理やり開いて声のした方を見ると――。
そこには仁威がいた。
「あ……」
無精ひげに覆われた顔、乱れた髪、ほころびのひどい汚れた外套――この街を出て以来の半年の労苦をそのまま纏ったかのようないで立ちで、確かに仁威がそこにいたのである。
珪己が現実を理解し感情を整理するよりも早く、仁威はその大柄な体に似合わぬ俊足で駆けてきた。その勢いを殺さぬままに拳をつくり、腰をひねり、珪己を掴む毛の左腕に一気に拳を埋め込んだ。
筋が切れ、骨が折れる――。
重い音をたてながら、拳を埋めたままで仁威の腕が伸ばされていく――。
強制的に握力が減じられた毛の手が、珪己の首から離れ――それとほぼ同時に毛の体が後方へと吹き飛んだ。
「ぐおおおっ……!」
打ちどころによってはこれ一発で人を殺めることができるほどの、渾身の一撃だった。
だが仁威はここで手を緩めるような男ではなかった。楽観主義者ではないし、恋しい女との再会を喜ぶだけの阿呆でもなかった。
すかさず動けない毛に飛び掛かる。そして剣を持つ手を一切の手加減なしに踏みつけた。
「……ぎゃあああ‼」
毛の右の手首が折れる、いやな音がした。体格のいい仁威がそれなりの加速度をつけて踏んだのだ、当然の結果だろう。これで毛の両腕は使い物にならなくなったが、ここまであっという間のことだった。
「があああ……!」
毛の新たな雄叫びが途切れることなく室内に響いていく。常人であれば聞いているだけで背筋が凍り付きそうな、ひどく獣じみた雄叫びだ。よほどの痛みなのだろう。だが仁威はその足をどかすことなく、より一層の力を込めてぎりぎりと踏みつけていった。二度と剣を、拳を握ることができないようにと。
仁威は毛から剣を奪い取り、放り投げると、次に毛の顔を殴りつけていった。
先程の衝撃的な光景を前にして、毛を殴らずにはいられなかったのである。
どれほど殴っても――殴り足りない。
このまま殴り殺してしまいたいほどの憤怒を覚え、仁威の理性は半分崩壊している。……剣を使わなかっただけ、ましだ。
「うお……っ! ぐあっ……!」
当の毛は十発ほど殴られたあたりで、声を発するどころか、何ら反応を示さなくなった。殴打によって顔はあっという間に膨れあがり、鼻血や口内の出血で顔中が血だらけになっている。長時間殴られ続けた空也以上にひどい状態だ。
そこに空斗が息せき切ってやってきた。
いや、空斗はそれなりの俊敏さでここにたどり着いたのだが、仁威の方が何枚も上手だったというわけだ。
「す、すごい……」
楼の前で見せた仁威の早業にも驚いたが……。あの毛をこうも簡単に倒したことに、空斗は驚きを隠せずにいる。
空斗と、それから韓がやってきた気配を感じ、仁威の殴る手が止まった。
馬乗りになっていた毛から降りた仁威は空斗を一瞬見つめた。その目にはもはや猛る炎の影は見当たらなかった。ようやく最低限の冷静さを取り戻したのだ。
「あとは任せた」
「……あ、ああ」
毛はぴくりとも動かない。
ちなみに毛の部下である男は壁際で腰を抜かしたままだ。すでに戦意などというものは持ち合わせていなかった。
戸惑いながらもうなずいた空斗のそばを仁威が通り過ぎていく。
そこには珪己がいた。
先程毛の手から離れた際に床に落とされた状態のまま、珪己はなんとか仁威を見上げている状態だった。髪はもつれ、結わえていた毛束は半分ほどけ、どこもかしこも汚れ、傷つき――もう指一つ動かない状態で、仁威が闘う様をその目に焼き付けていたのだった。
そして愛しい人が近づいてくる光景を、万感の思いで見つめていた。
過去の出来事から今日この場で起こった事までを反すうしながら、喜怒哀楽すべてをかみしめながら――。




