8.悪鬼の覚醒
空也を助けることができたら他の物は何もいらない――そこまで思いつめての行動だったが、どうやらひどく馬鹿で無鉄砲だったようだ。そのことに珪己は今更ながらに気づいた。
だが後悔する暇など与えてもらえない。どん、と胃の腑の中身がせり上がるような衝撃を尻の方に感じたと思ったら、そこから立て続けに二度三度と蹴られた。
「俺はお前みたいな奴が一番嫌いなんだよっ!」
空也を抱えてうずくまる珪己に、毛が憎々し気に吐き捨てた。
「いつまでその正義面を保てるか試してやろうか? ああっ?」
叫ぶや、これまで以上の力で思いきり尻を蹴られた。
その瞬間――ずっとしくしくと痛んでいた下腹部に珪己は強い痛みを感じた。
「ううう……っ」
きつく唇を噛んで耐えていた珪己がようやく発したうめき声に、毛がやや満足気になった。仁王立ちになり、息をついて腕を組む。
「どうだ。痛いだろ。やめてほしいだろ」
「うっ……」
「なら謝れ。土下座しろ。……二度と逆らいませんと土下座しろっつってんだ!」
だが痛みで意識が飛びかけている珪己には、毛の言葉の半分も聞こえていない。
声掛けに反応を示さない珪己に毛が業を煮やした。
「だったら死ぬまで蹴るだけだっ……!」
これまで以上に殺気立った気配を感じ、珪己がきつく目を閉じた――その時。
「やめとくれ……!」
開けっ放しの扉の向こうから叫び声があがった。
「あ……」
珪己が薄目を開けると、そこには韓がいた。
「ど……して?」
韓は青白い顔で室内に入ってくるや、毛に向かって懇願した。
「毛隊長、やめとくれ! その女は妊婦だ! 産み月に入ってる女をそんな風に乱暴したらいかん!」
実は韓は珪己と別れた後、元いた物陰に潜み直し、この部屋の様子をずっと伺っていたのだった。いざとなれば自分も加勢しようと覚悟を決めて。室内から激しい物音や声がしないことに安堵していたのだが、なんということか、千鳥足の毛が室内に乱入してしまい――。
そこからは耳を塞ぎたいような惨状が連続して伝わってきた。
珪己が壮絶な暴力を受けていること、その加害者である毛がブチ切れていることも十分に伝わってきて――韓は意を決して毛を止めに入ったのである。
だが毛の堪忍袋の尾はとっくに切れていた。
「関係ない奴は黙ってろ……っ!」
日頃から世話になっている韓のことも情け容赦なく蹴り上げた。
「ぐあっ……っ!」
腹の中央に足がめり込む。小柄な韓の体が後方、扉近くまで吹っ飛んだ。
今、仁王立ちの毛は珪己達に完全に背を向けている。肩で息をしているのはここまで一貫して強い怒りを示しているせいだ。四十代半ばの毛には全盛期のような体力はなく、このように一定時間暴れた後には決まって束の間の休息を必要としていた。
「はあ、はあ……」
息を整えていくたびに、毛の体から闘気がそぎ落とされていった。怒りを発散したことで闘う理由が減じられ、その結果が闘気の減少へと繋がっているのだ。
「はあ、はあ……」
珪己の目の前では毛の汚いふくらはぎが呼吸に合わせて小刻みに揺れている。腹や尻の痛みに苦しみ無様に床に倒れたままでいた珪己だったが、その毛のふくらはぎを見ていたら反射的に頭頂部に手をやっていた。
髪に刺さる最後の一本、桃色の珊瑚の玉がついた簪を抜き取る。
(お願い、私に力を貸してください……!)
簪の贈り主でありこの簪の使い方を伝授してくれた人物に祈るや、珪己は鋭利な先端を毛のふくらはぎに思いきり突き刺した。
先端が肌に触れた瞬間――珪己は芯国人を刺した時の嫌な感触を正確に思い出した。……思い出してしまった。
だがその記憶によって珪己が闘いを放棄することはなかった。
簪を持っていない方の手には傷ついた空也の濡れて冷たい体が抱かれている。
空也のことを無事に連れて帰りたい、ただその一心でずぶずぶと鋭利な棒を肉にうずめていった。
「ぐわああっ……!」
毛が飛び跳ねるように珪己から離れた。簪が刺さったままの状態で二歩、三歩と離れたところで、濡れた床に足を滑らせ盛大に転倒した。
「があっ……!」
熊のような巨体が回転しながら倒れる様は、はたから見れば滑稽だった。面白いくらいに綺麗な円弧を描きながら、受け身をとる余裕もなくぶっ倒れたのである。そしてその場でぎゃあぎゃあわめきだした。それは幼子が癇癪をおこして床の上で暴れている状況によく似ていた。
「空也さん、空也さん……!」
今のうちに、と珪己が空也の無事な方の手の甲をさすりながら声をかけると、空也がようやく薄目をあけた。これに珪己はほっとし、だがすぐにその顔をひきしめた。
「今のうちに逃げましょう。立てますか」
「俺のことは……置いていけ」
どう考えても今の自分はお荷物だと、そのくらいのことは空也にも分かっていた。だが、珪己に真剣な目で訴えかけられ、すぐに考えをあらためた。
「そんなことできるわけがないでしょう。帰るときは二人一緒です」
こういう目をしている人間は自分の意志を覆すつもりはさらさらないのだ。山を一人で降りようとしていた時も、この少女は同じ目をして自分のことを見つめてきたではないか。
ちなみに、未だに床の上で叫び、暴れている毛は、想定外のことに狼狽し、あまりの痛みに動転している。酒に酔っているせいで簪を抜くことにも意識がいっていない。……今ならば逃げられる可能性がある。だったら。
立ち上がろうとした空也に、珪己がすぐに肩を貸した。
「……ごめん」
これに珪己は無言で首を振った。
そして「さ、急ぎましょう」と足を引きずる空也を室外へと導いていった。しかしそこは二十代の若者、自分よりも体が大きく重量があるからなかなか進まない。
そこに韓もふらついてはいるものの痛む腹をおさえながら近づいてきた。空也のもう一方の腕を自分の肩に回し、珪己に向かってうなずいてみせる。
「さ、急いでずらかるぞ」
「はい……!」
と、その時。
だん、と強く床を踏みつける音が背後で鳴った。
とっさに振り向いた珪己は、そこに怒りにたぎる毛を見た。
ふー、ふー、と荒い息を吐きながら血走った目でこちらを睨む毛は、さながら地獄から舞い戻った鬼のごとくだ。
「よくも……! よくもやってくれたな……!」
その手が何かを床に叩きつけた。
珪己の簪だ。
珊瑚の玉が音を立てて割れ、金属の棒だけが三人の足元まで飛んできた。
じり、と三人の足が後ずさったのはほぼ同時だった。
これほどまでに圧倒的な怒りと憎しみを向けられて怯えずにはいられなかったのである。
だが、そこからの毛の言動は意外だった。
さらに怒りを増幅させるかと思いきや、逆に冷静さを取り戻していったのである。
「……ふー。痛いじゃねえか」
言いながら両肩を順番に上下に動かす様は、何やら準備運動でもしているかのようだ。次に毛は両手の指をからめて分厚い胸板の前でごきごきと鳴らした。そうしながら、右に、左にと首を倒す。どの動作にも余裕がみられた。
子供の様に「いてえいてえ」とわめき叫んでいた姿はなんだったのか。一瞬でもそんなことを思ってしまった珪己は、毛の怒りが閾値をはるかに超えてしまったことに気づくのが遅れてしまった。
にやあ……。
珪己と目が合うや毛が見せたその笑みこそが、ふつふつとたぎる怒りの岩漿、その高温のほどを物語っているようで、珪己の体を棒のように硬直させた。
「おめえらは逃がさねえからな?」
言葉が発せられるたびに、毛がわずかに有していた人間らしさが融解されていく――。
「落とし前はつけてもらわなくちゃなあ?」
残ったものは――悪鬼としての気質だけだ。
毛がその丸太のような右手を真横にすっと伸ばした。
「剣を持ってこい」
これにずっと床で倒れていた部下の男が跳ねるように立ち上がった。
「は、はいっ……!」
三人のそばを通り過ぎ、すぐに長剣を携えて戻ってくる。この部屋には刃のついた獲物は基本持ち込まれない。理性のタガがはずれた時に、尋問者が対象者を殺してしまう恐れがあるからだ……まさに今の毛のように。
毛が剣を受け取るまでの間、三人はそこから一歩たりとも動くことができなかった。毛の視線が一切そらされることがなかったからだ。背を向けて逃げ出せば――追いかけられてその場で殴り殺されることは明白だった。すり足で下がることすらゆるされなかった。
「お待たせしましたっ……!」
「おお」
毛は剣を受け取るや、剣を抜き、ためらいなく鞘を放り捨てた。かーん、と硬い木材同士がかち合う音が室内に響き、それはしばらく残響となって誰もの耳に届いた。
「さあてと」
抜き身の刀身をちらつかせながら、毛が一歩一歩三人に近づいていく。
その足音の低音のほども、歩くたびに床から伝わる振動も、毛が発する怒気のうねりも、三人の抱く恐怖を見事に増長していった。刻一刻と近づいてくる鋭利な刃、それを握る毛の表情にも恐ろしさしかない。
なにもかもがこれでもかと恐怖心を刺激してくる。冷静沈着なその態度も、言動とは相反するのになぜかおぞましくて仕方がない――。
かたかたと震えだしたのは三人のうちの誰だろう。
だが、気づけば三人の誰もが震えていた。
生きとし生ける者として、それは正直な反応だった。




