7.心が悲鳴をあげている
静かな感動に包まれている二人を前にして、十番隊所属として長年生きてきた男はいよいよもって混乱していった。
男は弱い者を痛めつけ搾取することで生きてきた。
これまでずっとそうやって生きてきたのだ。
殴り、殴られるだけの世界は単純明快だ。それに強い者に従っていれば、何も考える必要がなくて楽だった。
だが――。
今は想定外の混乱、困惑に襲われてしまい身動きがとれなくなってしまっている。
よく考えること。自分で判断すること。自分の言動に自身で責任を負うこと。それらはいわゆる小悪党が不得意とすることだ。この男もそれゆえに自分が理解できる世界にその身を置いて生きてきた。十番隊に所属しているのも、『毛の機嫌をとり逆らわずにいること』、これさえ守れば、それ以外のことはなんだって自由にできたからだ。
だがその実、十番隊に入るまで男は大した犯罪をおかしたことがなかった。街でごろつき同士殴り合うことはあったし、どうしようもない貧しさゆえに発作的に盗みをおかしたことはあるけれど、少なくとも無実の人間を傷つけたことはなかったのである。
(……俺は)
そう、男は気づいてしまったのである。
今目の前でお互いを思いやっている二人は何ら罪をおかしていない、と。
確かにこの女のせいで自分含め仲間が大きな恥をかいてしまった。毛に強く叱咤もされた。だがあれも、元々は毛の「ガキみてえな女を抱きてえなあ」などという鬼畜な発言がなければ起きなかった事態なのだ。
ちょうど街をぶらついていたら手ごろな姉弟がいて、弟が足をひきずっていたからすれ違いざまに「ぶつかってきたのはそっちだろ」と因縁をつけて――。
(……俺は何てことをしてしまったんだ!)
それは男が自らの行いの愚かさに気づいた瞬間だった。
前から毛は異常だった。だが『理解できる』悪人だった。だから部下の誰もがおとなしく従っていたのだ。
だが半年前に梁晃飛に敗北したことをきっかけに――毛は狂った。『理解しがたい』悪人になってしまったのである。
(……こんなことまでする必要が本当にあるのか?)
毛の命令に従うのならば、今すぐこの妊婦を毛の前に連れ出さなくてはならない。
その結末は――きっとむごいものとなるだろう。
(俺はいつまで隊長の言いなりにならなきゃいけないんだ?)
人が人であるための条件――『自ら』で考えることを男が始めようとしている。
だがそれは少し遅かった。
だん――!
乱暴に扉が開かれたかと思ったら、そこには誰もが今もっとも会いたくない男がいた。
毛だ。
「もう夜になっちまうぞ。口を割らせたのか?」
明るい時分から酒量を重ねていたせいで赤い頬にとろんとした目をしているが、そこは腐っても十番隊隊長だ。毛が部屋に現れた途端、室内の気温が一気に氷点下まで下がったかのような、そんな錯覚がするほど重厚な圧を放っている。
部下である男は何か言いかけた。我が身の保身のために。だがそれよりも先に毛は珪己の存在に目ざとく気づいた。
「なんだ、このアマ」
のそりのそりと近づいていく。ややふらつく足は、踏みしめるたびに手入れのされていない床をぎいぎいと鳴らした。その音一つとっても、普通の人間であれば恐怖を感じてしまう類のものだった。
珪己の腕の中で空也が体をきゅっと縮めた。温かな体に抱擁されて心が緩んだ刹那の毛の登場、これに恐怖を抱くなという方が無理だ。
珪己はそんな空也を腕の中で隠すようにして毛をきつく見上げた。
これに毛はおやと思った。敵対的な瞳を向けられるのは随分久しぶりのことだったからだ。だが苛立ちはしない。見るからにひ弱そうな妊婦のことだ。……あとで教育的指導はくれてやるが。
そういった毛の考えは部下である男には読めていて、だからこそなかなか言葉が出てこないでいる。
だが不気味な沈黙の末に白状していた。
「昨日俺達をやったのは……その女です」
これに毛が太い眉をこれ見よがしにあげてみせた。
「なるほどなあ。……って、それで済むと思ってるのかあっ?」
わざとらしい笑みを消したと思ったら――剛腕がしなった。
振りぬきざま、男の顔面に毛の裏拳が正確に入り、そのたった一撃で男は白目をむいて背中からふっ飛んだ。
恐ろしいほどの早業に珪己と空也が揃って息を飲んだ。
「十番隊が腹のでかいアマ一人にやられただと!? ふざけるなっ……!」
怒り狂った毛の顔は手負いの獣以上に恐ろしい風貌に変化している。
「すみませんっ……!」
大量の鼻血が出る顔を押さえながら、男は姿勢を正すと何度も詫びた。すみません、すみませんと。逃げることもできず、かといって真っ向から立ち向かってもかなうことのない相手の激昂する様に、歯の根が合わなくなっている。
そう、悪の世界に住むかぎり、こういう恐ろしい人間と遭遇することは起こり得るのだ。確かにこの世界、容易に入り込むことができるし真面目に働くよりも楽な生活ができてしまうが、毛のような人間と関わる可能性があることを片時も忘れてはならないのである。
だがこの男にとっては今更な話だ。
後は成るようにしか成らない。
部下の顔を一瞥し、毛がぺっと床につばを吐いた。これは明日からさっそく稽古台にしてやらにゃあな、と内心思いつつ。こういう時の部下が必死で間抜けな表情になったらもう駄目だ。毛の感覚ではそういう部下は二度と使い物にならない。
だがこれほどの脅しをかけたというのに、ただ一人屈していない存在がいた。
珪己だ。
今も毛を強くねめつけている。
「……お前、生意気だな」
毛は腰を落とすと真正面から珪己を見据えた。
「なぜ目をそらさない」
毛が口を開くたびに酒の臭いがする、それくらい近い距離で二人は対峙している。
だが珪己は顔を背けるどころか視線すらそらさない。
目をそらしては負ける――そのことだけは分かっていたのだ。
「ここがどこだかわかってるんだろ?」
踵を床につけ、曲げた膝を思いきり広げた姿勢を保ったままで、毛が上半身をさらに珪己に近づけた。
「俺が誰かもわかってるよなあ。なのになぜ怖がらない?」
珪己は唇を震わせながらも答えた。怖くないわけではありません、と。
「だったらどうしてここに来た」
「この人のことを……助けたいから」
ぎゅっと、空也を抱きしめる両腕に力を籠める。
その様を毛は視界の隅でとらえ――その結果、笑いがこみあげてきた。
「ふはははは。そうか。助けたいから、か。ふはははは!」
散々笑った後、「だから昨日はあいつらの邪魔をしたってわけか」と笑みの残る表情で毛が再度問いを投げかけてきた。
「その慈悲深い心でなあ」
珪己がぎくしゃくとうなずくと、「そうかそうか」と毛が満面の笑みで自らの膝を叩いてみせた。その様子は何か面白いことがあったか、または感心した時に人が見せる仕草だったが、そうやって『普通』だとか『一般的』というくくりでこの男を判断してはいけない。
毛はやはり『理解できない』悪人だったのである。
ちかちかと星が舞ったかと思ったが、それは珪己の錯覚だった。
実際には毛に平手をくらっていた。
左の頬に一瞬感じた鋭い痛み、つづけてひやりとした感触――痛みが過ぎるとまず冷気を感じることがある――その後のことは考える暇などなかった。
珪己は強い衝撃によって無条件に床に倒されていた。
空也のことを離さずにいるだけで精一杯だった。
ぐわんぐわんと頭が揺れ、頬が急激に熱を持っていく。
「馬鹿言ってるんじゃねえよっ……!」
頭上から怒声が降り注ぐ。
たった一発、されど一発――弱い人間であればこれ一つで首の骨を折って死んでいてもおかしくない代物に、珪己の頭は真っ白になった。
ここまで強い打撃を受けた経験は――ない。
武芸の稽古を八年続けてきたとはいえ、それらすべては寸止めだった。一時期兄弟子達による折檻を受けていたこともあるが、あれも子供ゆえに青あざができる程度のものだった。だから耐えていられたのだ。
実戦でもそうだ。晩春の後宮での一件では、毒の塗られた針でちくりと刺されて縄で縛られただけだったし、イムルには乱暴に口づけをされただけだった。その翌日の芯国人との闘いでもなんら攻撃を受けることはなかった。ただ心がやられただけだった。
昨日の男達との闘いにおいても珪己は一切攻撃されていない。
口の中のどこかが切れたらしく、口内に嫌な味が広がっていった。だがその味を舌がとらえたことで、珪己は放心状態からようやく脱け出すことができた。
代わりに心臓がばくばくと鳴りだした。
(こんなに強いだなんて……!)
空也を助けることができたら自分はどうなってもいい、そんな崇高な決意のもとここに単身乗り込んだ珪己ではあったが、毛の張り手一つで心が悲鳴をあげている。
もう一発も受けたくない――それが正直な気持ちだった。
しかしここから逃げる算段などない。……最初からそんなものはない。




