第96話 絶対なる虚無と降臨する王
黎明の陽光が降り注ぐ広場で、市民たちが歓喜の涙を流していた。
圧倒的な火力と質量を誇る巨大な影魔獣を真っ向から両断し、城塞都市グリオンを絶望の淵から救い出した一人の戦士。その偉業に対する熱狂的な賞賛と祈りの声が、石畳の上に響き渡っていた。
しかし、その温かな光と希望に満ちた空気は、次の瞬間、世界そのものの法則をねじ曲げるような異質な「冷気」によって唐突に凍りついた。
空を見上げていた防衛隊の兵士が、言葉にならない悲鳴を上げる。
先ほどまで都市を照らしていた太陽が、まるで水面に垂らされた一滴の墨のように、中心からどす黒く染まり始めていたのだ。単なる日食ではない。空という空間そのものに巨大な漆黒の穴が穿たれ、そこから底知れぬ濃密な闇が、滝のように地上へと溢れ出してきたのである。
その漆黒の滝を滑るようにして、一人の男が広場の中央へと舞い降りた。
長身で無駄のない、引き締まった漆黒の痩躯。風に揺れる白銀の長髪。そして、足元を這いずり回る下等生物を観察するかのような、絶対的な冷酷さと残酷さを宿した黄金の瞳。
ダークエルフの王、シュヴァルツ。
彼が石畳に降り立った瞬間、広場を包んでいた歓声は完全に消失した。
人々が恐怖で声を出せなくなったわけではない。物理的に、この空間から「音」という概念が完全に消滅したのだ。
『……我が軍勢が誇る影魔獣を、力任せの剣撃で打ち砕くとは。人間の戦士にしては、いささか規格外の器を持っているようだな』
シュヴァルツの声だけが、空気を震わせるのではなく、直接ヴァンの頭蓋骨の内側を激しく揺さぶって響き渡った。
ヴァンは即座に踵を返し、背中の斬馬刀を抜き放った。
先遣隊や精鋭部隊のダークエルフたちとは、纏っている魔力の質も、密度も、次元が根本から違う。肌が粟立ち、戦士としての本能が警鐘を鳴らし続けるほどの、絶対的な「死」の気配がそこにあった。
「セリア! 同化の準備を……!」
ヴァンが背後の仲間に声をかけようとした、その時だった。
『無駄だ。所詮は泥に這いつくばる脆弱な獣。我らダークエルフの真なる影の淵を、その身で味わうがいい』
シュヴァルツが片手を軽く持ち上げた瞬間、世界から一切の光が完全に剥奪された。
先遣隊が展開していた暗闇の領域とは比較にならない。光の粒子そのものが空間から消し飛び、己の手足すら全く認識できない絶対的な虚無。それと同時に、ヴァンの鼓膜から微かな風の音も、己の心臓の鼓動すらも完全に奪い去られた。狂気を孕んだ、完全なる無音の世界。
ヴァンは即座に全神経を研ぎ澄まし、直感と空気の僅かな揺れだけを頼りにシュヴァルツの気配を探り、迎撃の態勢を取ろうとした。
しかし、次の瞬間、ヴァンの強靭な肉体に絶望的な拘束が襲いかかった。
それは、足元の石畳から這い上がってきたものではない。
ヴァン自身の「体内に落ちる影」から、直接鋼鉄のような漆黒の茨が溢れ出し、彼の手首、足首、首筋、そして全身の関節を幾重にも締め上げたのだ。
(……ッ!!)
ヴァンは全身の筋肉を隆起させ、バクスの料理で極限まで強化された絶大な膂力で、絡みつく影の茨を強引に引きちぎろうとした。先遣隊の影の蔦ならば、彼の力み一つで容易く粉砕できたはずだ。
しかし、シュヴァルツの王の影は全く微動だにしない。それどころか、ヴァンが力を込めれば込めるほど、影の茨は筋肉の繊維に深く食い込み、ヴァンが発する物理的な運動エネルギーすらも根こそぎ吸収していく。
視覚を奪われ、聴覚を塞がれ、そして一歩も動くことすら許されない完全な拘束。
斬馬刀を握る手首は万力のような影の塊に固定され、指一本動かすことができない。全身の骨がミシミシと嫌な音を立てて軋み、強靭な筋肉が限界を超えて圧縮されていく。もしヴァンが痛覚を持つ普通の人間であったならば、この異常な締め付けによる激痛だけで、とうに発狂してショック死していただろう。
光も音もない絶対の虚無の中で、シュヴァルツの冷酷な嘲笑だけが脳内に響き渡る。
『外部に魔力を放出せず、己の肉体という閉鎖空間に魂を宿す。なるほど、理にかなった魔法封じだ。だが、貴様自身の影から逃れられる者など存在しない。貴様がどれほど強靭な肉体を持っていようと、その内側に潜む影を私が操れば、貴様はただの動く肉人形に過ぎないのだ』
ヴァンは、声なき息を吐きながら必死に抵抗を試みるが、右腕の筋肉は限界まで引き絞られ、両膝は影の重圧によって強制的に石畳へと押し付けられていく。
かつてないほどの圧倒的な力量差。
セリアの声も届かず、仲間の姿も見えない孤独な闇の底で、無敗を誇ってきた戦士ヴァン・アッシュクロフトは、一切の反撃すら許されないまま、完全なる死の淵へと突き落とされていた。




