第95話 紅蓮の爆撃と、黎明の英雄
絶対零度の氷晶がキラキラと舞い散る広場の中央で、精鋭の暗殺部隊すらも一瞬で粉砕された光景を前に、生き残っていたダークエルフの残存兵たちは完全に恐慌状態に陥っていた。
「ば、化け物だ……! あんなデタラメな魔力制御、人間の戦士にできるはずがない!」
「逃げろ! 影の領域が維持できない、このままでは全滅するぞ!」
数人のダークエルフが広場の出口へ向かって駆け出そうとしたその時。
彼らの足元から、突如としてどす黒い影の触手が伸び、逃げようとした味方の身体を無残にも串刺しにした。
「……逃亡は許さん。我らダークエルフの誇りに懸けて、この都市の人間どもは一人残らず影の贄とするのだ」
都市の時計塔の上から、シュヴァルツの側近である隻眼の将軍が冷酷な声を響かせた。
彼は串刺しにした味方の絶望と魔力を触手経由で強引に吸い上げると、自らの肉体をも影の触手で貫き、呪われた禁術の詠唱を開始した。
「喰らえ、そして混ざり合え! 我らの命と魔力を対価に、すべてを呑み込む絶望の顎をここに現出させよ!」
将軍の狂気じみた絶叫と共に、広場に散乱していたダークエルフの死体や影の残滓が、凄まじい勢いで時計塔の下へと集息していく。
ドロドロと蠢く莫大な影の質量は、やがて身の丈二十メートルを超える巨大な異形の怪物へと姿を変えた。
三つの首を持つ獣のようなシルエット。その全身は高密度の影で構成されており、周囲の光だけでなく、空間そのものを歪ませるほどの強烈な重力と魔力吸引力を放っていた。
『絶望の影魔獣』。
術者たちの命と引き換えに顕現した、純粋な破壊と殺戮の権化である。
「グルルルルルォォォォォォッ!!」
影魔獣が音のない咆哮を上げると、その圧倒的な魔力の波に当てられ、広場の端に避難していた市民や兵士たちが次々と泡を吹いて倒れ伏した。
「いかん、あんな質量の影が暴れたら、広場の人間ごと都市の半分が消し飛ぶぞ!」
要塞の操縦席からバルガンが叫ぶ。
「セリア、出し惜しみはなしだ。あの巨大な的を、一撃で灰も残さず消し飛ばす力が必要だ」
ヴァンは斬馬刀を構え直し、背後のセリアに静かに要求した。
「ええ、分かっているわ。あなたの強靭な器なら、あの極大の熱量にも耐えられるはずよ」
セリアは深く息を吸い込み、両手を胸の前で強く組み合わせた。彼女の深い紫色の瞳が、かつてないほどの鋭い輝きを放つ。
『深淵の底より燃え上がる、原初の劫火。万物を灰燼に帰す破壊の化身よ。今、強靭なる鉄の器を以てその赫灼たる魂を縛り、我らが敵を焼き尽くす紅蓮の牙となれ!』
セリアの詠唱が完了した瞬間、ヴァンの足元の石畳がドロドロと赤く溶け出し、灼熱のマグマで構成された巨大な召喚陣が展開された。
広場の空気を一瞬で沸騰させるほどの凄まじい熱波と共に、マグマの召喚陣の底から、全身を真紅の爆炎で覆われた巨大な竜が咆哮を上げて顕現する。
『紅蓮の爆炎竜』。
その吐息は岩盤を蒸発させ、羽ばたきは火災旋風を巻き起こす、最上位の炎属性召喚獣である。
「同化ッ!」
セリアの叫びと共に、爆炎竜は巨大な火柱となってヴァンの肉体へと直撃した。
周囲の石畳が熱に耐えきれずにガラス化していく中、ヴァンはその規格外の極大熱量を、己の肉体という器の内側へと強引に封じ込めていく。
全身の血管が赤く発光し、鋼のような筋肉がさらに膨張する。彼の皮膚の表面には、うっすらと真紅の竜鱗の紋様が浮かび上がり、口から吐き出される息は完全な高熱の蒸気へと変わっていた。
ゴォォォォォォッ!!
ヴァンの身体から噴き出す真紅のオーラが、影魔獣の放つ重力波を物理的な熱量で真っ向から弾き返す。
彼の右手に握られた斬馬刀は、超圧縮された爆炎の魔力を纏い、まるで太陽の欠片を切り出したかのような灼熱の光刃と化していた。
「いくぞ」
ヴァンが地を蹴った。
その踏み込みの反動だけで、足元のガラス化した石畳が爆発するように粉砕される。
真紅の彗星と化したヴァンは、一直線に巨大な影魔獣の懐へと飛び込んだ。
影魔獣が三つの首を振り乱し、ヴァンの頭上から巨城の城門ほどもある巨大な影の爪を振り下ろす。
触れた者の魔力と命を即座に奪い取る必殺の一撃。防衛隊の兵士たちが絶望に目を閉じた、次の瞬間。
ガァァァァァンッ!!
爆発的な金属音が広場に響き渡った。
ヴァンは避けることすらせず、灼熱の斬馬刀を横に構え、その圧倒的な膂力と爆炎竜の力で、巨大な影の爪を真正面から受け止めていたのだ。
「俺の器は、貴様らのような泥の塊には砕けない」
ヴァンが両腕の筋肉をさらに隆起させ、刃に込められた爆炎の出力を限界まで引き上げる。
「吹き飛べッ!」
斬馬刀から放たれた極大の爆炎が、影魔獣の巨大な腕を内側から物理的に破裂させた。
「ギャアアアァァッ!」
腕を失い、バランスを崩してよろめく巨大な影の化け物。
その一瞬の隙を、神速の戦士が見逃すはずもなかった。
ヴァンは砕け散る影の破片を足場にして空中に跳躍し、影魔獣の三つの首が連なる巨大な胴体の真正面へと躍り出た。
空中で身体を大きく捻り、灼熱の斬馬刀を上段に構える。
「灰燼に帰せ」
ヴァンの裂帛の気合いと共に、斬馬刀が真っ向から振り下ろされた。
刀身から解き放たれたのは、紅蓮の爆炎竜の全魔力を一点に圧縮した、究極の熱線斬撃。
ドゴォォォォォォォォォォォッ!!!
太陽が直接広場に落ちてきたかのような、目も眩むような閃光と爆炎が炸裂した。
ヴァンの放った真紅の刃は、影魔獣の分厚い闇の装甲を容易く切り裂き、その中心にある魔力の核ごと、巨大な身体を縦に真っ二つに両断した。
両断された影魔獣の体内から、圧縮されていた爆炎が火山噴火のように外へと溢れ出す。
「ギ、ギャ、アアアァァァ……ッ!」
断末魔の叫びすらも灼熱の炎に掻き消され、絶対的な絶望の象徴であった影魔獣は、チリ一つ残さず完全に蒸発し、灰となって虚空に消え去った。
主を失ったことで、都市の上空を覆っていた分厚い暗雲と影のドームが、嘘のようにパラパラと崩れ落ちていく。
数日ぶりに、本物の太陽の光が、城塞都市グリオンの石畳へと降り注いだ。
広場の中央に静かに着地したヴァンは、白煙を上げる斬馬刀をゆっくりと背中の鞘に収めた。
彼を覆っていた真紅のオーラが静かに霧散し、戦士の静かな息遣いだけが広場に響く。
「あ、ああっ……」
「光だ……太陽の光だ……!」
影の呪縛から解放された市民や兵士たちが、信じられないものを見るように空を見上げ、次いで、広場の中央に立つヴァンの背中を食い入るように見つめた。
召喚獣の圧倒的な火力に頼りきり、自らの足で立つことを忘れたこの国の兵士たち。
彼らが手も足も出ず、一方的に蹂躙されるしかなかった見えざる影の軍勢を。
かつて彼らが最も見下し、役立たずのゴミとして追放した一人の戦士が、たった一振りの剣と己の肉体だけで、完全に打ち砕いたのだ。
「ヴァン……ヴァン殿……っ!」
防衛隊の隊長が、泥と血に塗れた顔をくしゃくしゃにして泣き崩れながら、ヴァンの足元に深く跪いた。
それを皮切りに、広場にいた数百人の兵士、そして市民たちが、次々と武器を置き、地面に膝をついて頭を垂れ始めた。
「お許しください……! 我々は、あなたのような真の英雄を、無能だと笑って都市から追い出してしまった……!」
「ありがとう……俺たちを、俺たちの家族を救ってくれて……本当に、ありがとう……っ!」
誰一人として命令したわけではない。
それは、純粋な圧倒的な力と、いかなる理不尽にも屈しない戦士の気高い魂に対する、無意識の畏敬と謝罪、そして深い感謝の祈りであった。
数万の命を救い、絶対的な絶望から都市を解放した戦士は、ひれ伏す人々を見下ろすこともなく、ただ静かに仲間たちの待つ要塞へと歩みを進める。
太陽の光に照らされたその背中は、この日、城塞都市グリオンのすべての人々の心に、新たな黎明の英雄として永遠に刻み込まれることとなったのである。




