第91話 漆黒の結界突破と白銀の神狼
凄まじい轟音とともに、絶対的な闇の壁に巨大な亀裂が走った。
城塞都市グリオンを覆い尽くしていた漆黒のドーム。太陽の光すらも呑み込むその呪われた影の障壁に、鋼殻の移動要塞が限界を超えた出力で真正面から激突したのだ。
バルガンが操る星脈の核とヒュドラの魔石が爆発的な推進力を生み出し、分厚い装甲が軋みを上げながらも、影の結界を物理的に粉砕して都市の内部へと強引に侵入を果たす。
要塞が石畳の広場に重々しいブレーキ音を響かせて停止した時、車内から飛び出したヴァンたちの目に飛び込んできたのは、凄惨を極める地獄の光景だった。
都市の空は分厚い暗雲に覆われ、真昼であるにもかかわらず真夜中のような暗闇に包まれている。
広場には無数の市民や防衛隊の兵士たちが倒れ伏していた。人間の召喚師たちが虚空に魔法陣を描こうとする端から、彼らの足元に伸びる影が生き物のように隆起し、魔法陣を無残に喰い破っていく。
「ひぃっ……! こないで、こないでぇっ!」
「だ、誰か! 光の魔法を……ぐああっ!」
炎の精霊を喚び出そうとした兵士が、自身の影から飛び出した漆黒の刃に背後から胸を貫かれ、音もなく崩れ落ちる。逃げ惑う市民たちの足首には影の蔦が絡みつき、冷たい石畳の上を引きずり回して嬲っていた。
ダークエルフの先遣隊は姿を現すことすらなく、建物の裏や路地裏の深い暗闇に完全に溶け込みながら、一方的な殺戮遊戯を楽しんでいるのだ。
「……趣味の悪い連中だ。姿も見せずに一方的にいたぶるのがお好みらしい」
ヴァンは背中に背負った斬馬刀の柄に手をかけながら、静かに、しかし確かな怒りを込めて吐き捨てた。
「あの薄汚いエルフども、許さねえ! 大将、ぶっ飛ばしてやれ!」
要塞の上部ハッチから身を乗り出したバルガンが叫ぶ。
広場の隅で、影の蔦に捕らわれた幼い少女が、無慈悲に迫り来る漆黒の刃の前で絶望の涙を流していた。
その刃が少女の首を刎ねようと振り下ろされた瞬間。
「セリア!」
ヴァンの鋭い呼称に、彼の背後に立っていたセリアが即座に応じた。
「ええ。あなたに、すべての闇を見通す眼と神速の脚を授けるわ」
セリアが両手を胸の前で交差させ、失われた古代の呪文を流麗に紡ぎ始める。
『悠久の時を超え、我が声に応えよ。夜の静寂を切り裂く白銀の牙、森羅万象の気配を統べる気高き森の主。今、この者の強靭なる器を玉座とし、その力を現界させよ』
セリアの足元から、眩いほどの紫色の光が爆発的に放射された。
光は石畳を這うようにしてヴァンの足元へと到達し、そこに複雑で緻密な古代幾何学模様の召喚陣を瞬時に描き出す。
都市を覆う不気味な暗闇を押し返すほどの強烈な輝きの中、召喚陣の底から立ち昇ってきたのは、身の丈五メートルを超える巨大な神獣の幻影だった。
透き通るような白銀の毛並みを持ち、蒼く輝く双眸に絶対的な冷酷さと知性を宿した神話の存在。
『白銀の神狼』。
あらゆる気配や魔力の流れ、そして生命の鼓動を完全に感知する究極の索敵能力と、風すらも置き去りにする神速の反射神経を持つ高位の召喚獣である。
神狼は虚空に向けて一度だけ音のない遠吠えを上げると、光の粒子となって砕け散り、そのままヴァンの肉体へと吸い込まれるようにして憑依した。
ドクンッ、とヴァンの心臓が大きく跳ねる。
本来であれば、人間の脆弱な肉体に神獣の魂を押し込めれば、その強大な魔力負荷によって筋肉は断裂し、精神は崩壊して発狂する。
しかし、痛覚を持たず、無数の死線を越えて極限まで鍛え上げられたヴァンの器は、神狼の膨大な力を一滴も漏らすことなく完璧に受容した。
ヴァンの瞳孔が縦に細く裂け、狼のような鋭い光を帯びて蒼く発光する。
同時に、彼の強靭な筋肉がさらに一回り大きく膨張し、全身の皮膚を薄い白銀のオーラがコーティングするように覆い尽くした。
「……よく見える。奴らの息遣いも、心臓の音も、影の中で魔力を練り上げる卑怯な手口も、すべて手に取るように分かる」
ヴァンは低く唸るような声で呟くと、石畳を軽く蹴った。
次の瞬間、ヴァンの姿がその場から完全に消失した。
「なっ……!?」
暗闇に潜んでいたダークエルフの一人が、驚愕の声を漏らす。
少女を殺そうとしていた漆黒の刃が振り下ろされるより遥かに早く、ヴァンは神速の踏み込みで少女の前に割り込んでいた。
ガァンッ!!
鈍い金属音が広場に響き渡る。
ヴァンは、少女に迫っていた影の刃を、白銀のオーラを纏った左手で直接掴み取っていた。
召喚師の常識ではあり得ない光景だった。魔力で構成された影の刃を、素手で受け止めるなど正気の沙汰ではない。しかし、神狼の魔力で強化されたヴァンの肉体は、影の刃をいとも容易く握り潰し、ガラスのように粉々に砕き去ったのだ。
「ば、馬鹿な! 魔力を手で砕いただと!?」
建物の影に隠れていたダークエルフが動揺し、ヴァンの足元に向けて無数の影の蔦を放つ。
ドロドロと蠢く影がヴァンの両足首に絡みつき、彼の動きを封じようとした。勇者レオンたちを一瞬で無力化した、あの恐るべき呪縛の魔法だ。
だが、ヴァンは表情一つ変えなかった。
「……こんな軟弱な縛りで、俺の歩みが止められるとでも思ったか」
ヴァンが両足の筋肉にグッと力を込め、大地を強く踏みしめる。
ただそれだけの、純粋な物理的筋力による抵抗。
バクスの料理で極限まで引き上げられた筋繊維と、神狼の力が融合したその絶大な膂力の前では、ダークエルフの影の拘束など細い蜘蛛の糸と同義であった。
ブチブチブチッ!!
ヴァンの足元で、彼を縛り付けようとしていた影の蔦が、物理的な圧力に耐えきれず次々と千切れ飛ぶ。
「ヒッ……化け物か、貴様は!」
恐怖に駆られたダークエルフが、完全に気配を殺して別の影の中へと逃げ込もうとする。彼らの隠密行動は、高位の召喚師であっても見破ることは不可能なはずだった。
しかし、白銀の神狼を宿したヴァンの感覚器から逃れることはできない。
「そこだ」
ヴァンが背中の斬馬刀を抜くや否や、神速の踏み込みで数十メートルの距離を一瞬にしてゼロにする。
彼が振り抜いた大剣の軌跡に沿って、白銀の閃光が暗闇を鋭く切り裂いた。
「ギャアアアァァッ!」
建物の分厚い石壁もろとも、影に潜んでいたダークエルフの身体が真っ二つに両断され、血飛沫とともに地面に崩れ落ちた。魔法を使う隙すら与えない、圧倒的な物理的暴力による瞬殺であった。
「な、なんだあの男は……」
「魔法陣も使わずに、自分の身体で戦っている……戦士、なのか?」
絶望的な窮地に陥っていた都市の人々や兵士たちが、信じられないものを見るような目でヴァンの姿を見上げていた。
召喚師に依存しきり、戦士という職業を時代遅れの無能だと蔑んできた彼らの常識が、今、目の前で音を立てて崩れ去っていく。
どんな強力な召喚獣を喚び出そうとしても影に喰われ、なす術もなく蹂躙されていた自分たち。
その見えざる敵の奇襲を、正面から肉体で受け止め、恐るべき反射神経と剣技で次々と斬り伏せていく、一人の戦士。
「おい、あいつ……どこかで見たことがあるぞ。勇者パーティーの荷物持ちをしてた、あの無能な戦士じゃないのか……?」
一人の兵士が、震える声で呟いた。
かつてこの都市で、役立たずのゴミとして蔑まれ、石を投げられるようにして追放された男。
その男が今、異端の召喚師が授けた光を身に纏い、絶対的な暗闇に閉ざされた都市に舞い降りた、唯一の希望として立ち塞がっていた。




