第90話 境界の焚き火と、戦士の誓い
城塞都市グリオンを包み込む漆黒のドームは、まるで世界そのものに穿たれた巨大な大穴のようだった。
太陽の光は不可視の境界線でプツリと途絶え、ドームの内側にはただ絶対的な闇と、音のない死の静寂だけが広がっている。
鋼殻の移動要塞は、その絶望の境界線からわずか数十メートルの位置で、重々しい駆動音を落として停止していた。
「……気持ちの悪い闇だ。光だけじゃない、空気の震えや魔力の微かな流れすらも、あの黒い壁に吸い込まれて消滅している」
操縦席から身を乗り出したバルガンが、忌々しげに顔をしかめた。
「要塞の絶対防壁結界も、あの闇の中に突っ込めばどうなるか分からねえ。だが、ヒュドラの魔石から生み出される動力をすべて物理的な推進力と装甲の強化に回せば、強引に突破口を開くことはできるはずだ」
バルガンが最終的な機関の調整に取り掛かる中、要塞の傍らでは、この戦いにおいて最後となる小さな焚き火が熾されていた。
「さあ、突入前の最後の仕上げだ。特製『光苔と飛竜の骨髄の黄金スープ』だぜ」
バクスが焚き火から鍋を下ろし、黄金色に輝く熱いスープを木杯に注いで全員に手渡した。
「この光苔は、どんな暗闇でも自身の内側に光を蓄え続ける特殊な植物だ。それに飛竜の骨髄を合わせることで、ただ腹を満たすだけでなく、極限の緊張状態でも精神をクリアに保ち、幻覚や視覚の喪失に対する強い耐性を生み出す。……相手が視覚や聴覚を奪ってくるってんなら、俺の料理で身体の内側から感覚器にバフをかけてやる。このスープの熱が残っている間は、絶対に奴らの影に呑み込まれたりしねえよ」
バクスの力強い言葉とともに、ヴァンは熱いスープを喉の奥へと流し込んだ。
とろみのある黄金のスープは、舌を焼くような熱さと共に、驚くほど濃厚な旨味を口いっぱいに広げた。スープが胃に到達した瞬間、身体の芯からカッと強い熱が放たれ、視界の輪郭が一段と鮮明になるのを感じる。研ぎ澄まされた感覚が、ヴァンの戦士としての闘争本能を静かに、しかし確実に引き上げていく。
「美味い。……暗闇の中でも、この熱があれば道を見失うことはないな」
ヴァンが焚き火の炎を見つめながら呟くと、バクスは安心したように大きく頷いた。
揺らめく炎を囲みながら、ヴァンは自らの無骨な両手を見つめた。
かつて勇者パーティーにいた頃、彼は毎晩のように一人で焚き火の番をさせられていた。レオンたちは快適な魔導テントの中で眠りにつき、見張りと野営の維持、そして魔物の襲撃に対する盾の役割は、すべてヴァン一人に押し付けられていた。
孤独で、寒く、常に死と隣り合わせの夜。それでも彼は、自らが盾となることで護られる命があるのだと自分に言い聞かせ、痛みに耐え続けてきた。
しかし今、彼の周囲にある焚き火の景色は全く違う。
隣には、自分の痛みを分かち合い、最強の力を与えてくれるセリアがいる。
背中を預けられる強靭な要塞を造り上げたバルガンがいて、心身を支える極上の料理を作るバクスがいて、冷静に物資と情報を管理するルミナがいる。
誰一人として、ヴァンを見下す者などいない。彼らは互いの役割を心から尊重し合う、真の仲間だった。
「……ヴァンさん。レオンさんたちのこと、どう思っていますか?」
スープを飲み終えたルミナが、焚き火越しに静かに問いかけた。
「彼らは、魔力を失って社会の底辺に落ちました。ヴァンさんを虐げていた彼らが、今度は自分たちが誰からも見向きもされない弱者になった。……正直に言えば、私は少しだけ、ざまあみろと思ってしまいました。でも、ヴァンさんの顔には、そんな喜びは少しもありませんね」
ルミナの真っ直ぐな視線を受け止め、ヴァンは静かに首を横に振った。
「彼らを憎む気にはなれない。ただ、哀れだとは思う」
ヴァンの声は、冬の夜風のように冷徹でありながら、どこか静かな凪を感じさせた。
「彼らは、召喚獣という他者の力に依存し、自分自身の足で立つことを怠った。砂の上に立派な城を建てて、自分は無敵だと勘違いしていたんだ。その砂が崩れれば、城もろとも落ちていくのは当然の現実だ。……俺は、彼らのようにはならない。俺はこの血と肉と骨で、這いつくばってでも大地に根を張って生きてきた。俺の強さは、誰にも奪えない」
ヴァンの言葉に、ルミナは深く納得したように頷いた。
彼にとって、勇者パーティーへの復讐や見栄など、とうの昔にどうでもいいことになっていたのだ。ヴァンが見据えているのは常に「今、自分の剣で誰を護るか」という現実的な一点のみだった。
「その通りよ。あなたは誰よりも強い器を持っている」
セリアが立ち上がり、ヴァンの前に立った。
彼女の深い紫色の瞳が、焚き火の光を吸い込むように怪しく、そして美しく輝き始める。
「一般的な召喚師がダークエルフの影に魔力を喰われるのは、魔法陣を外部に展開するから。でも、私の同化召喚は違う。あなたのその強靭な肉体という『閉ざされた器』の内側に、魂と魔力を直接封じ込める。……見せてあげるわ、完全な閉鎖回路の魔法を」
セリアがヴァンの胸元にそっと両手を当てた。
次の瞬間、彼女の手のひらから凄まじい密度の紫色の魔力が溢れ出したが、それは決して外の空気へと拡散することはなかった。
魔力は光の帯となってヴァンの皮膚の表面を這い、血管をなぞるようにして彼の体内に直接吸い込まれていく。一切の魔力漏れがない、完璧なまでの魔力制御。ヴァンという一切の痛覚を持たない特異体質と、セリアの失われた古代召喚術が合わさって初めて為し得る、神業のような術式だった。
「これで、あなたの魔力回路は完全にコーティングされたわ。ダークエルフがどれほど影を伸ばしてこようと、あなたの肉体を物理的に引き裂かない限り、内側の魔力には指一本触れられない。……あなたはただ、あなたの信念のままに剣を振るいなさい。私が、あなたを最強の戦士にしてあげる」
セリアの言葉に、ヴァンの胸の奥で、かつてないほどの熱い闘志が燃え上がった。
彼はゆっくりと立ち上がり、背中の斬馬刀を鞘から引き抜いた。重厚な鋼の刃が、焚き火の炎を反射して赤く煌めく。
「俺は、戦士だ」
ヴァンは、目の前にそびえ立つ絶対的な暗闇のドームを真っ直ぐに睨み据えた。
「王のためでも、国のためでもない。ただ理不尽に命を奪われる弱者を護るため、俺はこの剣を振るう。シュヴァルツの影だろうが何だろうが、俺の剣で全て叩き斬る」
「おうよ! その意気だ大将!」
バルガンが舵輪の前に立ち、要塞のエンジンを最大出力へと引き上げた。星脈の核が雄叫びのような重低音を響かせ、鋼の巨体が震える。
「全員、しっかり掴まってろよ! 人間の都市を覆う気味の悪い影の壁、俺たちの要塞でぶち破ってやる!」
ヴァンとセリア、そして仲間たちが要塞に乗り込む。
かつて不要とされ、底辺へと追放された者たち。
彼らは今、己の強靭な意志と、互いを信じ合う絶対的な絆を胸に、理不尽な暴力を振るう見えざる敵を討つため、絶対的な闇の中へとその轍を力強く踏み入れた。




