第89話 決戦の朝と閉ざされた器
夜明け前の荒野を、鋼殻の移動要塞が凄まじいスピードで駆け抜けていく。
バルガンが徹夜で調整を施した重力制御機構とヒュドラの魔石の出力は完璧に噛み合い、要塞はまるで地を滑るかのように滑らかに、かつ暴力的なまでの速度で城塞都市グリオンへと距離を詰めていた。
車内の厨房では、夜明け前からバクスが火を熾し、決戦に向けた「朝食」の準備を進めていた。
「よし、豆がしっかりスープを吸って崩れてきたな。最後に『竜の息吹』と呼ばれる香辛料をひと振りして……完成だ」
バクスが鍋の蓋を開けると、車内に強烈でスパイシーな香りが爆発的に広がった。
「さあ、起きてくれ大将! 決戦前の特製腹ごしらえ、『霊峰産の赤豆と魔猪の干し肉のスパイス煮込み、香草パン添え』だ!」
木皿にたっぷりと盛られた赤茶色の煮込み料理と、こんがりと焼かれた厚切りのパンがテーブルに並べられる。
「このスパイスは、ただ辛いだけじゃない。血管を瞬時に拡張させ、全身の血流と魔力の巡りを極限まで高める効果がある。ダークエルフの影の魔法は、相手の魔力回路を萎縮させて動きを封じるらしいが、このスパイス煮込みを食っておけば、多少の呪縛なんて内側からの熱で跳ね除けられるはずだ」
ヴァンはパンを千切り、濃厚な煮込みをたっぷりとすくって口に運んだ。
バクスの言う通り、舌に触れた瞬間にピリッとした刺激が走り、続いて干し肉から溶け出した濃厚な旨味と赤豆のホクホクとした甘みが口いっぱいに広がる。嚥下すると、まるで胃袋の中に小さな暖炉が置かれたかのように、カーッと熱い活力が全身の末端まで行き渡っていった。
「……美味い。体が驚くほど軽く感じる。バクス、お前の料理は本当にただの食事じゃないな。どんな魔法薬よりも確実なバフ(強化)だ」
ヴァンが短く、しかし最大限の賛辞を送ると、バクスは満足げに胸を張った。
「へっ、俺の料理が大将の強靭な肉体を支えてるんだ。どんな強大な敵だろうが、負ける気はしねえよ」
食後、ヴァンは熱い薬草茶を飲みながら、ルミナが広げた最新の戦況図に目を落とした。
「グリオンの都市周辺数キロメートルが、不自然なほどの分厚い暗雲と影に覆われているそうです」
ルミナが顔を曇らせながら説明する。
「太陽の光すら遮断され、都市は完全な夜に閉ざされている状態です。外部からの応援に向かった人間の正規軍も、その暗闇に足を踏み入れた途端に連絡が途絶えました。おそらく、魔法を発動する前に影に魔力を喰われ、為す術もなく全滅しているものと思われます」
「魔法を発動する前に、魔力を喰われる……か」
セリアが自身の銀髪を弄りながら、静かに分析を始めた。
「一般的な召喚師は、虚空に魔法陣を描き、外の空間に魔力を放出することで召喚獣を呼び出すわ。ダークエルフの王は、その『外に放出された魔力』を影で絡め取り、霧散させている。だから召喚師たちは何もできないまま蹂躙されるのね」
セリアはそこで言葉を区切り、真っ直ぐにヴァンを見つめた。
「でも、私の『同化召喚』は違う。私は外に魔力を放出するのではなく、ヴァン、あなたの肉体という『閉ざされた強固な器』の内側に、魂と魔力を直接封じ込める。相手が魔力を喰らおうと影を伸ばしてきても、あなたの物理的な肉体という装甲を突破できなければ、内部の魔力には干渉できないはずよ」
「ああ、その通りだ」
ヴァンは己の無骨な拳を強く握りしめた。
「俺が影に捕まる前に、俺の筋肉と剣で物理的に影を斬り裂けばいい。召喚獣の魔法に依存しきった連中にはできない戦い方だ」
ヴァンの声には、かつてないほどの確かな自信と覚悟が宿っていた。
勇者パーティーにいた頃の彼は、ただの「肉の壁」でしかなかった。彼がどれだけ血反吐を吐きながら魔物の突進を受け止めて時間を稼いでも、背後にいるレオンたちが魔法の詠唱を失敗したり、恐怖で逃げ出したりすれば、護るべき村はあっけなく蹂躙された。
自分の体は一つしかなく、自分の剣だけでは何も救えない。その圧倒的な無力感と理不尽さが、ヴァンの心に深い傷として刻まれていた。
「俺は、俺自身がどれだけ傷つこうと構わない。だが……俺が盾として耐えている背後で、護りたかった連中が理不尽に殺されていくのを見るのは、もう御免だ」
ヴァンは薬草茶の入った木杯を見つめながら、静かに、しかし激しい感情を込めて語った。
「今は違う。俺はただの盾じゃない。俺自身の足で踏み込み、俺自身の剣で、理不尽な暴力を終わらせることができる。罪のない市民が、ただの弱い人間というだけで殺されるような世界を、俺の剣で切り拓くんだ」
ヴァンの言葉に、車内は静まり返った。
彼の根底にあるのは、現実主義という冷徹な思考の仮面を被った、狂気的なまでの「自己犠牲」と「護る」という強烈な意志だ。
「……ヴァン。あなたのその心が、あなたの本当の『強さ』なのね」
セリアが優しく微笑み、ヴァンの腕に触れた。
「痛覚がないから、強大な魂を宿せるわけじゃない。誰かのために痛みを引き受け、護り抜こうとするその絶対的な覚悟があるからこそ、神話の神鳥も、伝説の剣豪も、あなたの魂に共鳴し、その力を貸してくれる。あなたは、器として最強なだけじゃない。戦士として、誰よりも気高い魂を持っているのよ」
セリアの言葉に、ヴァンは少しだけ照れたように目を伏せ、斬馬刀の柄を撫でた。
「……大げさだ。俺はただ、俺のやりたいようにやるだけだ。俺が護りたいと思ったものを、護る」
「がはははっ! それでこそ俺たちの大将だ! どんな理不尽な世界だって、その心意気一つでぶっ壊してやれるぜ!」
操縦席のバルガンが豪快に笑った。
「大将! 前方に異様な景色が見えてきたぜ! ルミナの嬢ちゃんが言ってた通りだ。あそこだけ、まるで世界に穴が空いたみたいに真っ暗に塗りつぶされてやがる!」
バルガンの声に、全員が一斉に前方窓へと視線を向けた。
荒野の果て、本来であれば朝陽に照らされて白亜の城壁が輝いているはずの場所に、巨大な漆黒のドーム状の暗雲が不気味に渦巻いていた。
太陽の光を完全に拒絶する、絶対的な影の領域。その中心に、彼らが救うべき数万の命と、立ちはだかるダークエルフの王シュヴァルツがいる。
「……行くぞ」
ヴァンが静かに立ち上がり、腰のベルトを締め直した。
かつて不要とされ、底辺へと追いやられた戦士は今、最も頼もしい仲間たちと共に、絶望の淵に沈む都市を救うため、その暗闇の中心へと迷いなく飛び込んでいく。




