第88話 焚き火の記憶と盾の矜持
荒野を南へと爆進していた鋼殻の移動要塞が、重々しいブレーキ音を響かせながら巨大な岩陰にその巨体を停止させた。
「悪いな、大将。ヒュドラの魔石の出力が高すぎて、星脈の核の冷却機構が悲鳴を上げちまった。完全に焼き切れる前に、一時間ほど外気を取り込んでエンジンを冷やす必要がある。この先は激戦になるからな、万全を期しておきてえ」
操縦席から降りてきたバルガンが、要塞の側面に設けられた巨大な排熱口を次々と開けながら言った。シュゥゥゥッという高い音と共に、蓄積された高熱の蒸気が夜空へと噴き出していく。
「問題ない。急いては事を仕損じる。それに、連続した強行軍で皆の疲労も溜まっている頃だ。ちょうどいい休息になる」
ヴァンは短く応じると、要塞の外へと降り立ち、手際よく周囲に警戒の罠を張り巡らせてから、小さな焚き火を起こした。
冷たい夜風が吹き抜ける荒野において、焚き火の温もりはそれだけで精神を落ち着かせる効果がある。
パチパチと薪が爆ぜる音を聞きながら、一行は火を囲むように腰を下ろした。
「よし、短い休憩ならこれの出番だな。携帯用の極上夜食、バクス特製『岩甲殻ガニと薬草の甲羅焼き』だ!」
バクスが焚き火の上に網を置き、大皿ほどの大きさがある魔物の蟹の甲羅を並べた。
甲羅の中には、ほぐした蟹の身と、濃厚な蟹味噌、そして疲労回復に効く数種類の薬草が混ぜ合わされている。火が通るにつれて、甲羅の縁でグツグツと味噌が煮立ち、磯の香りと焦げた醤油のような香ばしい匂いが暴力的なまでに辺りに漂い始めた。
「こいつは腹に溜まりすぎず、それでいて冷えた内臓を芯から温める。蟹の身に含まれる特殊なアミノ酸が、強行軍で強張った筋肉の緊張を綺麗に解きほぐしてくれるはずだ。ほら、熱いうちに食いな」
バクスから手渡された木のスプーンで、ヴァンは甲羅の中身をすくい、口に運んだ。
濃厚な蟹味噌の旨味と、薬草の爽やかな香りが口いっぱいに広がる。噛みしめるほどに蟹の身から溢れる甘みが、冷え切っていた胃の腑をじんわりと温め、心地よい弛緩を全身にもたらしていった。
「美味い。……冷たい風の中で食う温かい飯は、それだけで何よりの武器になるな」
ヴァンが素直な感想を漏らすと、バクスは照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「バルガンさんもルミナも、遠慮せずにどんどん食ってくれよ。腹が減ってちゃ、戦なんかできねえからな」
皆が温かい夜食に舌鼓を打つ中、毛布にくるまっていたルミナが、焚き火の炎を見つめながらぽつりと口を開いた。
「……ヴァンさん。一つ、聞いてもいいですか?」
「なんだ」
「ヴァンさんは、本当に強い人です。あの強大なヒュドラを相手にしても一歩も引かず、どんな窮地でも冷静に状況を見極めることができる。……それなのに、どうしてあんなに長い間、勇者パーティーで雑用係なんていう理不尽な扱いに耐えていたんですか?」
ルミナの問いに、バクスもバルガンもスプーンを止め、ヴァンの横顔に視線を向けた。
商人として損得勘定に聡いルミナからすれば、ヴァンの過去の行動はあまりにも割に合わないものだった。あれほどの力と観察眼を持ちながら、なぜレオンたちのような傲慢な連中にへりくだり、暴言を吐かれ、魔物の群れに肉壁として放り込まれるような扱いを甘んじて受け入れていたのか。
ヴァンは少しだけ視線を落とし、焚き火の炎の揺らめきをじっと見つめた。
「……俺は、戦士だからだ」
静かな、しかし芯のある声が夜の荒野に響いた。
「この世界では、戦士の剣は時代遅れだ。俺がどれだけ剣を振っても、巨大な竜の鱗は砕けないし、一度に数万の魔物を焼き払うこともできない。だが、召喚師の魔法ならそれができる。レオンの聖騎士や、リーゼの精霊があれば、魔物の大群に襲われている村を一瞬で救うことができるんだ」
ヴァンは甲羅焼きの空になった器を横に置き、自らの無骨な両手を見下ろした。
無数の傷跡と、剣ダコに覆われたその手は、彼がどれほどの死線を潜り抜けてきたかを無言で物語っている。
「レオンたちは傲慢で、隙だらけで、自分たちの足元すら見えていない子供だった。事前の索敵もせず、罠の解除もせず、ただ強大な召喚獣に頼り切っていた。もし俺が彼らの前衛に立たず、野営の準備や体調管理を放棄していれば、彼らはとうの昔に魔物に殺されていただろう。……そして、彼らが死ねば、彼らの魔法で救われるはずだった多くの村や市民が、魔物に蹂躙されて死ぬことになった」
その言葉に、ルミナは息を呑んだ。
「俺が雑用係として蔑まれ、魔物の前に盾として放り出されることで、強大な魔法の砲台を守ることができる。砲台が守られれば、より多くの人間が生き残る。俺にとって、あのパーティーにいることは、自分の尊厳と引き換えに多数の命を救うための、最も現実的で効率のいい手段だった。ただ、それだけのことだ」
ヴァンの根底にあるのは、狂気じみたまでの「自己犠牲」と、冷徹なまでの「現実主義」だった。
彼は誰かに認められたかったわけでも、勇者に忠誠を誓っていたわけでもない。ただ、己の肉体がどれほど傷つこうとも、理不尽に命を奪われる弱者を一人でも多く減らせるのなら、その痛みを喜んで引き受ける。それがヴァン・アッシュクロフトという戦士の、不器用すぎる生き様であった。
「……あなたのその計算式は、根本的に間違っているわ」
静かな声とともに、セリアがヴァンの隣に腰を下ろした。
彼女の深い紫色の瞳が、焚き火の光を反射して静かに、しかし激しく揺らいでいる。
「多数の命を救うために、あなた一人が泥水を啜り、血を流し続ける。そんな理不尽な犠牲の上に成り立つ平和なんて、初めから壊れているのよ。社会が戦士を不要だと切り捨て、召喚師だけを絶対視するから、そんな歪な計算式が生まれてしまう」
セリアはそっと手を伸ばし、ヴァンの傷だらけの大きな手に、自分の白い手を重ねた。
「でも、今は違う。あなたはもう、誰かを活かすための使い捨ての盾じゃない。私の同化召喚があれば、あなたのその手で直接、理不尽な暴力を斬り裂くことができる。あなたが背負ってきたその優しさと痛みは、これからは私が全部半分もらうわ」
セリアの言葉に、ヴァンは目を見開き、そして微かに、本当に微かにだが、口角を上げて笑った。
「そうだな。お前と出会って、俺の計算式は完全に狂ってしまった。……だが、悪くない狂い方だ」
「がはははっ! 全く大将ってやつは、どこまでも不器用なお人好しだぜ! だが、だからこそ俺たちはアンタの背中を追いたいと思えるんだ!」
バルガンが豪快に笑いながら立ち上がり、要塞の装甲をバンバンと叩いた。
「おっしゃ、エンジンもすっかり冷えたぜ! 大将の優しすぎる我儘に付き合って、絶望に沈んでる人間の都市を、俺たち異端者の手でひっくり返してやろうじゃねえか!」
「ええ、行きましょう。私たちが創る新しい国の最初の礎として、最高の舞台です」
ルミナも力強く頷き、バクスも気合を入れるように拳を打ち合わせた。
冷却を終えた要塞の星脈の核が、再び重低音を響かせて脈動を始める。
ヴァンは焚き火に砂をかけて火を消すと、夜の闇に沈む南の空を見据えた。
その先には、ダークエルフの影に侵食されつつある城塞都市グリオンがある。
かつての仲間を失い、それでもなお剣を握る戦士の瞳には、かつてないほど強烈な闘志が静かに燃え上がっていた。一行を乗せた鋼殻の移動要塞は、決戦の地へ向けて、夜の荒野を再び疾走し始めた。




